記憶にない交換殺人
小石原淳
第1話 記憶にない交換殺人
出張を終えて戻る途中の列車内でのことだ。
暇潰しで見ていたネットニュースに、
僕、
僕がこんなにも動揺しているのには、色々と理由がある。
まず、香里奈とは昔付き合っていて、少し前に別れたつもりだった。なのに、向こうは別れる気がなく、僕から切り出した別れ話をなかったものにしようとしていた。
僕にはすでに新しい彼女がおり、しかも逆玉の輿ってやつが狙えるお嬢様なのだ。早くきれいに別れないと、後々面倒なことになるに違いない。全然あきらめそうにない香里奈には、いっそ死んでくれないかなあ、なんて夢想したことがあるのは事実だ。もちろん、本当に手を掛けて始末しようとは微塵も考えちゃいない。ここでいう考えていない、というのは具体的に計画を立てたことはないっていう意味で、妄想として香里奈が交通事故にでも遭って死なないかなあ、と考えたことはある訳だが、けれどもそれは考えたって言うほど熟考はしていないからノーカウントだろ。と主張したい。
そんな関係にある香里奈が、僕が仕事で北海道に出張中に死んだのだから、表面上は悲しみつつも、内心、欣喜雀躍してればよいではないかという声が聞こえて来そうだけど、ことはそう単純じゃないんだ。
あれはひと月ほど前の週末のこと。たまには行ったことのない店で飲んでみようと、友人推薦のバーに行った。店の雰囲気は落ち着いていて、気分よく酔える空間だと感じたのは覚えている。
結果から振り返って推測するに、僕は恐らく、本当に気分よく酔って、度が過ぎてしまったらしい。
次に記憶があるのは、電車に乗るときで、ああいつもの鉄道じゃないから現金払いかなどと思って、財布を取り出したのは覚えている。そのとき、札入れのスペースにレシートみたいな物が入っていたのも覚えている。
そのあと自宅で目が覚めて、昨日使った金を記録しておくかと財布を開いたときのことだった。何枚かのレシートに混じって、やけにきれいな紙がある。薄いピンク色のそれはメモパッドの類で、そこいらに貼り付けるための糊の感触が残っていた。
字は自分のではない。「あなた」「岸山香里奈」「わたし」「町井健司」の四つが四角で囲われ、ドラマの登場人物相関図みたいに、線が引いてあった。「あなた」から「町井健司」と、「わたし」から「岸山香里奈」への矢印が真ん中で交差している。気になるのはそれぞれの矢印上に、ドクロマークが付加されている点。そして裏には、町井健司なる僕の知らない人物の住所や勤め先などのプロフィールと、その時点からおよそ六週間後のスケジュールが記されていた。
時間が経ち、酔いが完全に抜け、朝の寝ぼけ眼が徐々にはっきりしてきた。メモパッドの内容について、想像を膨らませると――。
僕はあの初めての店でこの「わたし」と同席し、酔った状態で、交換殺人の約束をしてしまったのではないか。「わたし」が岸山香里奈を殺してあげるから、「あなた」つまり僕は町井健司――読み方は「まちいけんじ」でいいのだろう――を殺して、という訳だ。六週間後のスケジュールが書いてあるのは、この期間中に殺してくれたら、「わたし」のアリバイは成立するという意味に違いない。
と、ここまで考えて、ばかばかしいと思ったんだ、そのときは。バーで知り合った、言わば行きずりの間柄で、交換殺人をしようなんて約束、まともじゃない。相手だって本気じゃなかった。あるいは、酔いの勢いのせいでつい約束をしてしまっただけであり、今頃は僕と同様に酔いが覚め、ばかなことをした、こんなもの本気でするはずがないと感じているはず。
そういう風に見なして、僕は忘れようとした。ただ、そのメモパッドを捨てないで取っておいたのは、後ろめたさあるいは本気であってもいいという、深層心理の表れだったのかもしれない。
そして今。
岸山香里奈が死んだ。僕のアリバイは完璧で、証人は大勢いる。
香里奈の死は歩道橋から車道へ転落したもので、警察は事件、事故、自殺のどれとも絞り込めないでいるようだ。
僕と、僕の共犯者だけが殺しだと知っている。これはやるしかない、のか? なかったことにする手はないだろうか。
たとえば、この「わたし」に直接会って、交渉する。何だったら、お金も握らせるとか。でも、こっちの方は死んで欲しい相手をもう殺してもらっているわけだし、立場が弱い。かといって、警察に駆け込んでもどうにもならない可能性が高い。それどころか、逆に捕まるんじゃないか。どんなに弁明しても岸山香里奈殺害について主犯と見なされるに違いないから。
どうしてもこの町井という男を殺さねば終わらないんだとしたら、いっそ共犯者を殺す? その方が後顧の憂いを断てる意味でも、合理的ではある。だが、実際には無理だろう。
何故なら、交換殺人を成し遂げるための情報は、すでに僕の手の中にある。「わたし」は僕の前に姿を現す必要はない。僕が共犯者を殺そうにも、まず相手を見付けることが難しい。町井健司の周辺を探れば、もしかすると見付けられるかもしれないが、確実ではない。何しろ、僕は共犯者「わたし」の姿形どころか、性別すら記憶に欠片も残っていないのだから。
仮に僕がいつまでも町井殺害を決行しなかったら? そのときは「わたし」が僕の前に現れる可能性もゼロではないかもしれない。だが、現実的には電話か電子メール、あるいは手紙で脅しをかけてくるのではないか。酔った僕がどこまでプライベートな情報を、相手に渡したか分からないだけに、恐ろしい。最悪、町井を殺さないならおまえに用はないとして、僕が殺されることだってないとは言い切れまい。
結局、やるしかないのか。
自分のために買った北海道グルメを味わうのも忘れ、考えの淵に沈んだ。
(うわあ、やっぱりやっちゃたかぁ~)
私、
二日前から、友人三人とともに旅行をしている。私達のような中年の女性グループや熟年夫婦が参加者のほとんどを占めるバスツアーだ。
宿備え付けの朝刊を丁寧に戻し、私はロビーに近いエントランスホールの席を離れた。今頃、友人らは揃って朝風呂を楽しんでいる。だから、部屋に行けば一人きりで考えられる。
あのことは、全然本気じゃなかったのに。
およそ一月半前、ふらりと入ったバーでの出来事。カウンター席で隣り合った男性と、何故か話が合った。意気投合とまでは行かずとも、カウンターからボックス席へ移動して話し込む程度には心を開いた。
そして酔いに背中を押されて、つい普段の不満を吐露してしまった。日常的に何かと自慢してくる姉夫婦の鬱陶しいこと! エリートコースを歩んできた旦那のこととか、家を訪ねてくるお偉いさんのこととか、成績トップクラスの息子のこととか、海外旅行で買って来たブランド物のこととか、有名人とのツーショット写真とか、ほんとどうでもいい、聞きたくない。なのに、会えば延々と喋り続けるし、会わなければLINEで知らせてくる。身内だからおいそれとシャットアウトできないし、最悪。
鬱陶しいのは姉だけれども、その旦那も負けず劣らず嫌味で人を見下すタイプの人間だし、息子はそんな二人に育てられたからか単に遺伝か知らないけれど、ひねくれた性格をしている。
もしも罪に問われないのであれば、この三人の誰が死んでもいいって気だったけど、バーで男性と話す内に、考えがまとまっていったのがまずかったのよ。まず息子を殺したら、悲劇のヒロインぶった姉が何だかんだと私にまとわりついてくるのは容易に想像できた。次に、姉を殺した場合は、鬱陶しくはなくなるけれども、旦那や息子はさほどダメージを受けない気がした。彼らにはお金があるからお手伝いを雇うか、新しい妻を見付けてはいおしまいとなりそう。
それらに比べて、旦那を消してしまうことは影響が大きい。残された姉と息子は人生が激変するのは間違いなく、特に姉は彼女自身がいかに無価値で、誰からも相手にされない人間なのだと思い知るだろう。唯一、悲劇のヒロインぶるのは息子を殺したときと同じ展開が予想され、その鬱陶しさを思うと嫌だったが、これが一番効果的なのだから仕方がない。
私は町井健司を殺して欲しい相手として名前を挙げた。
一方、男性が挙げたのが、岸山香里奈という女性で、非力そうな小娘っていう印象を受けたから、そのときは簡単に殺せる、赤子の手を捻るよりも簡単だわと変な自信を持って承諾した。そもそも非力な赤ちゃんの手を捻るなんてえげつないこと、私にはできないけど。
しかし、翌朝になって冷静さを取り戻すと、はたと恐ろしさが湧いてきた。それはあっという間に私の殺意を上回り、交換殺人の話はなかったことにして! 冗談だったのよ!と半ば祈る気持ちになった。相手の男性は相当酔っていた。向こうも本気じゃなったに違いない。それにもしかしたら、酔っ払って記憶がなくて、あのメモを見たって、何だこりゃと言って丸めて捨てるだけで終わってるかも。
そんな具合に思い込むことで、忘れようとしたけれども。
この期間に殺すようにと指定された日が近付くと、そわそわして落ち着かない気分にさいなまれた。おかしくなりそうで、一時は本当に岸山香里奈を殺そう、殺さないと私がどうかされてしまうとまで思い込んだ。
殺さなかったのは、たまたまだったかもしれない。というのも、思い詰めるあまり、私は熱を出して倒れてしまった。それを心配した夫の勧めで二日間、検査入院したのだ。
ああ、これでやりたくてもやれなくなったわ。どうしよう……と、安堵と不安が同時に生じる不思議な心地を、病院のベッド上で味わっていた。
検査が済んで、とりあえず退院できるとなった日の昼前のテレビニュースで、私は衝撃を受けることになる。
岸山香里奈が死んだ。
嘘でしょ!?と叫ばなかったのは、入院疲れがあったせいだと思う。もし叫んでいたら、怪しまれていたかもしれない。
私は何もしていない。岸山香里奈は自殺か事故死――多分、自殺なんじゃないかしらと思う。いくら引き留めても再び振り向いてくれることのないあの男性に、とうとう諦めが付いたのか、もしくは嫌な気持ちを味わわせるために歩道橋から身を投げた。遺書がなかったのは、衝動的な自殺だったのか。
真相について断言はできないけれども、恐らくそんなところだ。私はこれで心底安堵できた。
だが次の瞬間、じゃあ姉の旦那は殺されるの?と思った。
人間的に嫌なタイプだけれども、本気で死んで欲しいとは願っていない。こっちが徹底的に下手に出てうまくおねだりすれば、何やかやとお金を出してくれたこともある。恩着せがましくはあっても、私の娘の私立中学入試のときに何かと働きかけてくれたし、善悪は別にしても、いいところもあるのよ。このまま一生頭が上がらないかもしれないけれど、死なれては困る。第一、お葬式が面倒くさい。旅行中だと、切り上げて帰宅しなくちゃいけないし。
と、改心?した私は、あの男性が姉の旦那を殺さないで欲しいと願っていた。願うだけで、具体的には何もできなかったけれど。そりゃあ、岸山香里奈について調べれば、前に付き合っていた男のことなんてじきに分かるでしょうけど、私、子持ちの主婦で忙しいから。
そもそも仮にあの男性の身元を突き止めて、それから何ができるって言うの? 直接会って、岸山香里奈さんが死んだのは私が手を下したんじゃなく、事故か自殺ですと訴える? その上でこちらの希望したターゲットは殺さなくていいなんて言い出したら、変に思われるでしょ。下手を打ったら、私を岸山香里奈殺害の犯人だと、警察に訴え出る恐れだってある。それをネタに脅迫も? ああ、考えたくない。
考えたくなかったから、私は放置した。
そして旅行中の旅館で、こうして町井健司の死亡を知った。
……どうしようもなかったわよね。
おしまい
記憶にない交換殺人 小石原淳 @koIshiara-Jun
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます