あの部屋から
真乃宮
第1話 聞こえるか――大好きな息子よ
息子の部屋へと通じる扉。
そこに背中を預けると、あまりの冷たさに涙がこぼれそうになった。十月下旬の外気をめいっぱい吸い込んで、俺の存在そのものを拒絶しているような気さえする。
互いが積み重ねてきたというには
息子はこの部屋から出てこない。
ひしゃげたドアノブは俺と
いつの頃からだろう。俺は返事のないその扉に向かって語りかけるようになった。つまらない、取るに足らない喫煙所での独り言のように……。
いや、やっぱりそれは独り言なんかじゃなくて
ひきこもる
いまだ実を結ばず、平行線をたどる親子の隔たりを前にカウンセラーが贈ってくれた「絶対に諦めないこと」という言葉だけを信じてここにいる。
息子よ。大好きな息子よ。
俺たちにほんのわずかでも変化が訪れてほしいと願い、奇跡にすがり、毎晩この扉に背中を預けていることを
「ジャイアンツが優勝したな。シーズン序盤から考えると大逆転だ」
想い出を蒸し返してしまう話題でも野球のことだけはつらくなかった。
これ以上ないほどの青空の下でどこまでも飛んでいく白いボール。ショートバウンドを処理する俺のことを
俺と母さんと
家族三人で出かけた時、昼食はいつだってサンドイッチだった。母さんの作るサンドイッチは世界で一番うまかったな。うん、間違いない。それはきっと俺にとっても
「お父さんな、ビールが飲めないことを会社の若い子たちに冷やかされてるんだ。今どきの子はお酒飲めないって言うのにあいつらはよく飲むんだよ」
真っ暗な廊下で、ひとりぼっちの虚しさが反響する。ふと暗闇に心が引きずりこまれそうになる。
もしかして誰かが俺の声に耳を澄ませてるんじゃないかって思うんだ。幽霊なんて信じちゃいないけど、あっち側には何かあるっていうのはわかる気がする。
だから、母さんの言うことも嘘だと決めつけてやりたくないんだ。
いつからか酒の味がしなくなった。
一度でも認めてしまうと一生立ち直れない気がして、鉄のような味のする酒を飲み干す自分に酔ってたんだ。俺は十分、罰を受けてる。こんなにも毎日を悲観してるじゃないかって……。
でも、本音ではわかってた。ずっと向き合ってこなかったのは
中学にあがって
十代のほとんどをこの部屋で過ごした
それがたとえ、みすぼらしい虚勢だと馬鹿にされても、俺は
あの日のことを謝りたいんだ。
あどけなさの残る
「僕は咲かん。開花せーへん桜もある。誰にも見られずにひっそりと春を終える桜もあるんや」
お父さんには、それがわからんのや――
俺が耳にした
叫ぶでもなく、ただ真理を諭すように
その苦しみを預けられた俺と母さんはどうすればいい。どうすればよかった。答えを求めても答えてくれず、何度この扉を叩いても開いてくれない。
救いはなかったんだと諦めれば、そこに
心を裏向けても、どうひっくり返しても
せめて、ふりだしに戻る方法だけは教えてほしかった。
初めてなんだ。
俺も母さんも、子どもができたのは初めてだったんだ。
俺は、扉に頭をこすりつけて嗚咽を漏らした。
聞こえるか。大好きな息子よ。
あらゆる言葉を、声を、俺を拒絶してくれても構わない。
ただ、
頬を濡らした涙を胸元のシャツで乱暴にふき取る。またくるよ、とその扉に想いを預け、俺は暗闇の中にたたずむ階段をおりた。
「あなた、あの子は?」
「また後で食べるそうだ」
「そう、せっかくだから温かいうちに食べてほしいのに」
母さんは魚の煮物とみそ汁を用意していた。それから和食には釣り合うことのないサンドイッチも。
そのサンドイッチにはもう誰も手を伸ばすことはない。二度と、その部屋から出てくることのない
「明日はグラウンドに行くんでしょ? 早起きしてお昼ご飯作らなきゃ」
俺は、胸がすり潰されるほどの痛みにあえいだ。
母さんの笑顔を見るたびに
二十歳になった
大好きな息子よ。
あの世でどうか母さんのことを抱きしめてあげてくれ。
それから俺のことを思いきり殴ってやってくれ。
どうか、どうか、大嫌いだったお父さんのことを殴ってやってくれ。
「七時に起きようか」
二人きりの食卓は
母さんの声が弾む。
それが昔話であることを知らぬまま。
(了)
あの部屋から 真乃宮 @manomiya
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