第100話 オーガスト・オーケストラ

 大声で叫びながら、一人の男が町を疾走する。町の人々はぎょっとした目つきで男を見るが、だからといって何かをするわけではない。また〈8月頭〉か。暑くて頭がどうかしたんだろう。ちょっと走り回ればすっきりするだろう。ああいうのにはできるだけ関わらないに限る。それが大人のやり方っていうもんだ。


 ところが大人のやり方だけでは対処できないこともある、ということを町の人々は思い知らされることになる。


 男の疾走から3時間。裏手の山から異様な物音が聞こえ始める。言い忘れていたが町は山と海にはさまれたちっぽけな平野部にあって、町全体が山のふもとということもできるし、町全体が海辺だということもできる。そのちっぽけな町全体に異様な物音が響き始めたのだ。古老は口々にやれ山神の怒りだ龍神の祟りだと言い、思い思いに仏壇やら神棚やら道祖神やら祠やらに祈りを捧げる。働き盛りの男女は山崩れか地震の前触れだというのでケータイで家族に連絡を取り始める。子ども達はその響きの底に潜む不思議なリズムに魅せられ、わーきゃー叫びながらあたりを駆け回り始め、先生やら親やらに叱り飛ばされている。


 リズムに魅せられる?


 そう。そこにはリズムが感じ取れる。ブーンともムーンともつかない轟きの中にピチピチパチパチとはぜるような音、ガチャガチャとぶつかり合う音、そして聞きようによってはどこかものがなしいメロディーめいたものが聞き取れるようにさえ思えてくる。けれど何よりもまずそれは圧倒的に騒音である。しかもどんどん大きくなってきている。どんどん近づいている。


 やがて人々は、そこにたくさんの人間の悲鳴とわめく声を聞き取り、なんだ人間の声だったのかと誤解する。そしてそれが誤解だったと気づいた時にはもう、自分自身が悲鳴を上げるかわめき始めるかして騒音の一部となる。3時間前に大声で叫びながら疾走していた男そっくりに走り回ることになる。


 騒音の先頭には逃げ惑う人々の阿鼻叫喚、その背後にはクマ、イノシシ、シカ、サルといった比較的大きめの生き物の姿が見え、頭上ではタカ、カラス、モズ、ムクドリをはじめとする鳥の大群が空をいっぱいに広がり太陽の光を遮ろうとしている。足元にはびっしりとモグラ、ヤモリ、トカゲ、ヘビなどの小動物が埋め尽くし、離れていては見えにくいが余裕のある人の目には(あるいは押し倒され全身を「それ」で覆われることになった人の目には)無数のクモ、ムカデ、ヤスデ、ゲジゲジ、ミミズほかうねうね動くイモムシの類が震える地面のように映る。


 地面を震わせているのは虫たちだけではない。夥しい数の脚が地面を踏みしめ踏みつけ走り回ることで山から海までの大地すべてを振動させてすさまじく深く低い轟きがあたりを圧している。そこに鳥獣の吠える声、鳴き声に人間の叫び声やわめき声に悲鳴が合わさり、さらにはお互いがぶつかり合い押しつぶし合い立てる音がまじりあって、誰も聞いたことがない得体の知れない空恐ろしい音楽が出現している。人々とケモノ、トリ、ムシケラが構成する一大オーケストラはそのまま一気に坂を駆け下り浜辺を駆け抜け海に突進する。多くの命が失われ町はほぼゴーストタウンと化す。


     *     *     *


「8月?」

 と童子が声をかけ、8月と呼ばれた男は目を覚ます。男の目の前にはかわいい小さな男の子が、何やら古風な着物に身を包んでそこに立っている。こんな山奥の人もいないようなところに、こんな子供が一人っきりでいるなんて。という風には、8月は考えない。そんなことを思いつくほどオツムのできがよくないからだ。その男の子がまた鈴をころがすような声で言う。

「どうだい? これで満足かい?」

 そう聞かれても8月には何のことだかわからない。すっかり深く眠り込んでいたからだ。大きな声を出して町を駆け巡り、山奥深くまで走り回ったおかげでくたくたになったからだろう。

「みんなが望んだ通り、何もかもすっきりさせてみたよ」

 童子は触れただけで皮膚がすぱっと切れそうな笑みを浮かべるとそう言った。8月はよくわからないままにへへへと笑った。


(「8月」ordered by エルスケン--san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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Sudden Fiction Project②胎内回帰編 高階經啓@J_for_Joker @J_for_Joker

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