第99話 いつものやつ
いつものやつを、と客が言う。
たったいま、店を出て行く客と入れ替わりに入ってきたばかりの客だ。
私はかしこまりましたと言って、客に背を向け奥の棚を物色する。
物色するふりをする。
本当は物色なんてしていない。なぜなら、いつものやつが何なのか思い出せないからだ。それどころか客が誰かも私にはわからない。もっと正直に言うと、なぜ自分がカウンターの中にいるのか、それもわからない。記憶喪失ではない。私は自分が誰かよくわかっているし、ここがどこかもよくわかっている。ただ、なぜ自分が、客としてここに来たはずの自分が、カウンターの中で接客をしているのかがわからない。
そういう意味では記憶喪失と言ってもいいのかもしれない。ごくごく短時間の記憶喪失。何らかの事情で、バーテンダーの服を身に着け、このカウンターの中に立たされる羽目になった事情だけが欠落した記憶喪失。そうだ。肝心のその部分を覚えていない。覚えていないぞ。落ち着け落ち着くんだ。こういう時は焦らずにゆっくりやるんだ。まず、思い出そう。どこまでなら覚えて……。
どうした、と客が言う。ないのか、いつものやつ。
客に声をかけられた。私は考え事に夢中になるあまり動きを止めてその場に立ち尽くしまい、客がそれに気づいてしまったのだ。私は振り返る。
はい、もうしわけございません。考えるより先に言葉が口をついて出る。その代わりにとびっきりの一品がございます。
とびっきりの一品だって? うさんくさそうに客が眉根にしわを寄せる。確かにうさんくさい。自分で言っておきながら、いかにもうさんくさい響きだ。待てよ。うさんくさいなあと思った記憶が自分にもある。なんだっけ。わりと最近のことなんだが。
じゃあいいよ、それで。客が言う。まずかったら承知しないぜ。
古い翻訳調のミステリーか日活アクションみたいな喋り方をする人だな、とぼんやり考えながら、てきぱきとカクテルを作り始める。後ろの棚から2本、足元から1本ボトルを取り出すと、ミキシンググラスに氷を入れ、その上から3種類の酒を手早く注いで行く。その流れるような動きを客が驚いたような目で見ている。本当を言うと、私自身も驚いた目で見ている。自分にそんな芸当ができるなんて知らなかった。
あれは使わないのか? と客が尋ねる。あの、ほら、量をはかるやつ。
メジャーカップですね、作業の手を止めず、サイダーを注ぎステアしながら、すらすらと私の口が答える。もう手で覚えていますので。
そういうものなのか? やや不審そうに客は口をとがらす。でもはかった方が正確だろう。
なんならお客さん、賭けをしてみます? わたしは一瞬手を止め、にっこり微笑んで客を見る。わたしが正確に15ml注げなかったら、一杯奢りますよ。
え? いいよ。何故かあわてた口調で客が言う。別に疑っているわけじゃないんだ。
泡立つ柔らかいオレンジ色のカクテルをグラスに注ぎ、布巾でグラスの足元を軽く拭く。
お待たせしました、できあがったカクテルを差し出しながら、わたしは微笑む。新作ですよ。
名前は?
そう、〈いつものやつ〉にしようかと思っているんです。
へえ、と客が笑ってカクテルに口を付けた瞬間、わたしはいつも通りカウンターの外側のスツールに腰掛けている。カウンターの中にはたったいまカクテルに口を付けた客が、客だった男がバーテンダーの身なりになって立っている。ぼんやり立っている男を見ながら、わたしはそっと席を立つ。店を出て行こうとすると入れ替わりに客が入ってくる。その男が言うのが聞こえる。
いつものやつを。
(「いつものやつ」ordered by 又一--san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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