第98話 グッバイ、スマトラタイガー

 スマトラトラだなんて、妙チクリンな名前だとあたしは思っていた。日本語だか外国語だかわかんないし。虎が2匹いるみたいだし。どう発音していいかわかんないし。トラトラトラみたいだし。でもそんな風に思うのは日本人だけだ、英語ではスマトラタイガーだ、なんてアイツが言うから急にどうでもよくなってしまった。そういうことじゃないんだよな。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 昨日、回覧が来て、見たら戦地でアイツが死んだって書いてあって。何だよそれ。ふざけんなよ。デタラメやってんじゃねーよ。悔しいやら腹が立つやらで目の玉のまわりが燃えるように熱くなってきたのであたしはそのまま家を飛び出した。広い通りを避けて山の方に走った。村のはずれの五平のボロ屋の向こうのしみったれた畑のまわりをぶんぶんぶんぶん走り回った。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 戻ってきたら、アイツのうちに人が集まっていた。家の中ではお悔やみを言いに来た村の人と、アイツの家族が代わる代わる頭を下げていた。戸口の前では手配師みたいなやつが、一人一人にあれを持って来い、これを持って来い、どこに連絡をとれ、誰を呼びに行けと、偉そうに指示をしている。手配師だと思ったのは同級生のフジタだった。フジタは来月戦地に行く。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 スマトラでは時々大きな地震が起こるんだ、とアイツは言っていた。平気な顔をしてたけど、本当は三歳のあの日以来、アイツは地震が恐くて仕方がないことを、あたしは知っている。家が隣同士で赤ん坊の頃から一緒に育って、あの時も同じ部屋にいた。棚の上から箱やら筒やら人形やらが降ってくるのをあたしは面白がってみていたけど、アイツは声もでないほど怖がっていた。でもスマトラでは地震に遭わずにすんだんだ。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 フジタもスマトラに行くんだろうか。センセンはカクダイしカクホウメンでダイセンカをあげています、とラジオは勝ち誇ったように言うけれど、そんなもの拡大しない方がいいに決まっているのは国民学校しか出ていないあたしにだってわかる。センセンが増えれば増えるだけ、ひとつの場所にいられる兵隊さんの数がどんどん減ってしまう。誰がどこに行くのかわからなくなってしまう。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 フジタがあたしを見つけて近づいてきた。あたしは動けず、その場にいた。級長をやっていた時のフジタや、手配師をやっているフジタは偉そうでバカにしやすいけど、あたしと二人きりで話すときのフジタはマジメで親切でものわかりがよくてすごくやりづらい。アイツみたいに理屈も言わなくて、自分のことをあんまり話さなくて、あたしに喋らせようとするのもやりづらい。そんな優しい目で見られても困る。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 さっきまであんなにてきぱき手配していたくせに、フジタはいま黙ってあたしの前につっ立っている。だからあたしはスマトラにはスマトラトラっていうのがいるらしい、なんて言うつもりのないことを言ってしまう。言いながらバカだと思う。何言ってんだと思う。そしたらフジタは悲しそうな顔をして笑って、こわいんだかこわくないんだかわからん名前だなと言う。でも、そんなのにあいたくないな、ジャングルの中で。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 級長のフジタは偉そうで嫌いだったけど、こういうことを言う時のフジタはあたしと同じだな、と思う。アイツがいて、フジタがいて、あたしがいて、いつも相手をボロカスに言いながら、ボロカスに言ってたのはあたしだけだけど、なんだかんだ三人でいつも一緒だった。和音みたいなもんだとアイツが言って、フジタが笑って、それぞれ違うけどよく合ってるってこと?と聞き、かっこつけてんじゃねーよ、とあたしが言った。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 フジタも同じことを考えていたのか、ひとり減っちゃったな、と呟いて、唇をかみしめた。あたしが何も言えないでいると、フジタは少し笑ってトラトラトラみたいでヘンだよなと言った。スマトラトラだってそんな風に呼ばれたくないだろうにって。それを聞いてあたしもその通りだな、と思う。スマトラトラの立場は考えたことなかったけどさ。でも気がついたらあたしは正反対のことを口にしている。


 グッバイ、スマトラタイガー。


 そんなことを言うのは日本人だけだよ。英語ではスマトラタイガーって言うんだから。そうするとフジタは厭な顔ひとつせず、目を細めて、ああそうだな、と頷く。それから笑顔とも何ともつかない情けない顔になって、アイツがここにいて話しているみたいだ、と言う。それからくるりと背を向けて、また手配師の顔になってみんなに細かく指示を出し始める。きっといい通夜になるだろう。きっと立派な式になるだろう。


 グッバイ、スマトラタイガー。


(「和音」ordered by イチ--san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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