梅雨

清水優輝

第1話

 雨の滴が窓を伝う様子を眺めていたら、その奥に猫が小さく震えるのを見つけた。猫は隣の家の裏口の前で座っており、足を懸命に舐めていた。猫はまた一度、小さく震えた。ひげについた水滴が周りに飛び散る、その様がまるで秘めていた涙が不意に溢れてしまった少年のようであった。猫は首輪をしていないし、あまり綺麗ではない。きっと野良猫であろう。前髪を真ん中で分けたかのように頭は黒く、顔は白い。背中は黒くお腹側は白かった。足は黒かったり白かったりしている。尻尾は黒だ。猫は何度も何度も足を舐めている。よく見えないが、後ろ足を怪我したのであろう。家の近所でこの猫を見たことがなかったから、他所の縄張りから来た猫だろう。きっとこの辺りのボスに喧嘩を吹っ掛けて負けてしまったのだ。こんな朝から雨がざーざー降っている日にわざわざ冒険なんてしなくてもいいのに、この猫は旅に出て喧嘩をして怪我をしたのだ。猫の怪我がよほど酷かったら動物病院に連れていこうかと思ったのだが、しばらくすると猫はどこかへ消えてしまった。

 私はベッドの上で小説を開いている。しかし、3ページと本を読むことはできなかった。紙に大粒の水が落ちた。ああ、まただ、と私は思う。意図せずに涙が落ちることが増えた。私の意識が介在する間もなく、悲しみは私を襲い、涙となって表出する。そして私に教えてくれる。お前は悲しいのだと。そんなことを言われても、私は何がそんなに悲しいのか分からない。例えば、パソコンが壊れただとか、買ったばかりの卵を誤って落して割ってしまいオムライスが作れなかっただとか、10年来の友人が突然亡くなっただとか、来月大好きな小説の続編が発売されるのに明日で世界が終わるだとか、そんなことは一切なく、毎日お腹いっぱいご飯を食べて十分な睡眠を取って、仕事もそれなりにうまくいっているのだから、悲しいことなど思い当たらない何も。涙は勝手に流れるが、止めることも私にはできず、いつ止まるのかただ待つだけである。泣いている間は視界が揺れるから何もできない。小説は読めない。メールの返信もできない。以前、暇だから泣きながら爪を切ろうと思ったら指を切ってしまった。だから、涙が落ち切るのをただ待つ。いつはじまり、いつ終わるのか、予想もできないこの生理的反応を迷惑に思う。車のワイパーのように涙を自動で避けることができれば便利なのにと、下睫毛の部分に小さなワイパーを取りつける想像をして可笑しくて一人で笑う、それでも涙は止まらずに流れている。ファンデーションもマスカラも全て台無しにして涙は落ちる。

 開かれたままの小説に何粒もの涙の跡が出来てしまっている、それでも気にしないのは、元々その本は既に水に濡れてシワシワと波打ってしまっているからであった。古本屋さんで100円で買った文庫本は名前のない男と女が恋に落ちるが、互いの人生の交差した時間が過ぎ去ってしまい結ばれることはなく別れる話であった。なんてこともないその小説を当時大学3年生だった私は惚れ込んでしまい、いつでもバッグに入れて持ち歩いた。ある夏の日、いつものようにバッグにこの小説を忍ばせて外出すると、酷い豪雨に襲われて全身がびしょぬれになってしまい、当然、バッグとその中身も水没したのだ。本を乾かして辞書を上に乗せて皺を伸ばそうとしたが、完全には元通りにはならなかった。決して珍しい本ではないのだから、新しく買い直せばよいと思ってはいるもののどうもこの本に愛着を持ってしまい、手放すことが出来ず今でもこうして読んでいる。

 この小説の何がそんなにも私の心を惹きつけたのだろうか、と涙が落ちて暇なので考える。友だちに紹介するときは「切ない大人のラブストーリー」などと言って説明してしまうが、そんな上っ面な関心ならば何度も読む必要はない、私はすでにこの小説の結末を知っているのだから。それではなぜなのだろうか。冒頭のシーン、男が失職して自暴自棄になり居酒屋で酒を煽っている場面で偶然、近くに居合わせた女の腰の曲線の描写が恐怖すら感じるほどの官能的魅力を発するためである、とは思いたくないが、しかしその腰を見つめる男の純粋な欲望の露出に嫌悪感などなく、そうせざる説得力を持って、女は立ち、男は見ている、その必然性に私は魅了されている。私の知らないどこかでこのような一瞬が存在しているのだと私は願ってやまない。私がその時、その運命に気づくことができますように。私はそこに立ち、誰かが私を見ている、その時に憧れて待ち続けているのだ、と思う。そして、その時は未だ私の元には訪れない、だから何度も小説を読み返してしまう。いつかこの小説が必要なくなる日が来るといい。

 涙はまだ止まらない。今週も私はひとりで、涙を流し続けている。予報では来週も雨が降り続くらしい。窓の水滴をなぞる指先が冷たかった。

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梅雨 清水優輝 @shimizu_yuuki7

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