第7話

 誰かの言葉ばかりを歌っているうちに、自分の言葉を忘れてしまったよ。


 そういって彼女は嘘っぽく笑った。窓の外ではねずみ色の雨がひっきりなしに降り続いていて、その大きな雫が沈むようにコンクリートへと同化していった。彼女の薄い肌はまわりの色を取り込んで透明をもたらし、まるでそこにいるのかいないのか、わたしにもわからなかった。青いアコースティックギターをななめに抱え、部屋の小窓を横目でみつめながら、雨にうちあけるようにして彼女はつぶやいた。


 忘れてしまったよ。


 


 名前もろくにないような大学のなかでは、友達を作ることは容易ではない。第一、東京から一人でやってきたわたしには、旧知の仲なんて一人もいない。びみょうに気の合わないはぐれものと一緒に、勧誘されたギターの同好会に入ってはみたものの、生まれつき指先がかんぺきに連動してしまっているわたしには、楽器の修得などできるはずがなかった。一緒に入ったはずのそいつは、夏になるころにはすでにわたしには及びもつかない場所へ到達していた。わたしの相棒となるはずだった楽器は、部室のギタースタンドにすっかりうらぶれて佇んでいた。


 そんなわけで、わたしの新しい生活の幕開けはさんざんなものだった。しかし、わたしは知らなかった。それよりももっとさんざんなことが、諸手を広げて待っていることに。


 彼女、茅野幸は、いつの間にか部室にいた。彼女はいつも右側だけはだけたTシャツと、黒くて丈が妙に短いスラックスを身に着けていた。同好会の誰に聞いても、彼女のことを勧誘した覚えも、入部を許可した覚えもないという。素性を訝しんだ会長が学校に問い合わせたところ、彼女がわたしと同じ新入生であることは間違いないとの回答があったらしい。君はどこから来たんだ、とか、どうしてここにいるんだ、なんて問いかけても、彼女が答えを返すことはなかった。そのかわり、彼女はそこにいるとき、黙って私のギターを勝手に弾き続けていた。それもかなりの腕前で。


「会長。あれ、どうするつもりなんですか」


「茅野のことか?いいじゃないか別に。誰に悪さをしてるわけでもないんだしさ」

 

「会長。いいじゃないか、じゃないんですよ。あれ、私のですよ?返して、って言ってるのに、ろくに返事もないし。これじゃあ私、なんのためにギター同好会に入ったのかわかんないですよ」


 会長は、少しだけうむむと唸ったあと、そうだよなあ、と呟いてから、心を決めたような表情を作って、私に向き直った。


「まあでも、お前にアレを渡したところでたぶんそのまんまだろ。宝の持ち腐れ、ってな」


 会長は、頭一つ抜けた馬鹿野郎だった。わたしはもう彼を頼らないことにして、部室を後にした。


 わたしは正直なところ、彼女のことが嫌いだった。わたしのギターを勝手に奪い、弾きこなすその姿が心から恨めしかった。彼女のことを考えるだけで夜も眠れないような日があったけれど、私はそれを認めたくなくて、そんな日はいつも音楽を最大音量で聞きながら眠りについていた。会長もわけがわからない。確かに彼女は美しかったが、それは彼女の容姿というよりも、その冷涼な雰囲気にこそ現れていた。どうせすこしだけ見えている彼女の肩にやられたのだろう。男なんて、所詮はそんなものだ。


 帰宅した私は、なんとなく東京のことを思い出していた。今はもう遠い都会には、すくなくともわたしのことを見初めてくれる人がいて、それでやっとわたしは息をしていられた。何をするでもなくわたしはわたしだったし、それに意味なんて必要なかった。しかし、いまはそうではない。わたしはわたしであるために、わたし以上の何かになる必要があった。でも、わたしは、その方法がどうしてもわからなかった。周りが環境になじんでいく中で、いまだにどこにもいけないわたしのことが、とんでもなくみじめに感じられた。わたしはスマートフォンをひらいて、この閉塞をうちあけられる人がいないかと、何度もスクロールを繰り返した。端末の表示がいちばん下まで到達したときに、わたしは電源を切って、やにわに枕元へと放り投げた。


 あくる日もあくる日も茅野幸は、部室の隅にある背の高い椅子に座っていた。わたしはやはり彼女のことが嫌いだったが、ギターのことはすでにあきらめかけていた。3万円も出して買った相棒をこんなにも簡単に諦められるわたしを、わたしは心底見損なっていた。わたしは雨の音を聞いていた。茅野は黙ってギターを弾いていた。


「ねぇ、茅野」

「私、ひとりで東京からここまでやってきて」

「ほんとうに、それでよかったのかな」

「あんたみたいに何か才能があるわけでもなければ」

「認めてくれるひとがいるわけでもない」

「それに、私わかるんだ」

「私は」

「私はもう、美しくないって」

「そんなことないよ」


 耳なじみのない声がしたので、わたしは俯いていた顔をおもむろに動かした。彼女の細い足が信じられないほど長く見えたのち、皺の目立つシャツ、そして色素の薄い髪をまとった青白い首筋へと至り、ついに目が合った。彼女は琥珀色の双眸で、わたしのことをじっと見つめている。眼球に投射されたわたしの顔は、生々しく崩れかけているように見えた。


 そうして、彼女は歌い始めた。雨音に遮られながらも、旋律が必死に中空をめざす。うつろな彼女の身体には、雲の薄い部分からはみでた光が撒き散らされている。わたしは茫然とその姿をながめながら、天使だ、と思った。


 歌い終わったあと、彼女は照れ臭そうに言った。


「へへ、実はここ、ずっと入りたくって。最初、部室があるってことだけパンフレットで知ったんだけど、どうしたらいいのかわからなかったの。それで、とりあえず突撃しちゃお、って思って、部室に入ったら、こんな素敵なギターが置いてあって。ほんとは、あなたが来たらすぐに返すつもりだったんだ。それなのに、あのお兄さんがあんなこと言うから、ほんとだよ?引っ込みがつかなくなっちゃって。いままで黙ってて、ごめんなさい」

 

 わたしは更に言葉を失った。彼女がこんなにも喋っていることに当惑し、またその自己中心的な言葉にほとほとあきれ果てた。一通り話し終えた彼女が、再び口を開く。

 

 「でも、でもね?わたし、ちゃんと聞いてたんだよ。ここにいるみんなの話してることとか、その…いろいろとか。でも、わたし喋りだしちゃうとほんとに止まらなくなっちゃうから、今まで我慢してたんだよ?わたしのこと嫌いにならないように、って。ほんとだよ?」


 わたしはやはり呆然として、口をぱくぱくさせていた。そして十数秒経ったのちに、ようやくひとつの質問を絞り出した。


 「わかった。それで―君はいったい何なの?」


 彼女はへへ、と口元をほころばせたかと思うと、体を左に傾けたあと、きっぱりと言い放った。


 「わたし、天使なんだ。羽は片方しかないから、飛べないんだけど」

 

 そう言って微笑む彼女の左肩には、無数の赤い傷跡があった。


 それから、わたしは彼女と接するようになった。ほかに人がいる間、彼女はやはり口を開かなかったが、わたしと二人でいるときはなにかと喋るようになった。そして、私は彼女から様々なことを聞いた。義母から嫉妬めいた暴行を受けていたこと。父親が義母と出て行ったあと、ずっと一人で暮らしていること。人との接し方がわからないこと。ただし、天使であると言ったことに関しては、あのとき以降話題になることはなかった。そして、それらを聞きおわるころにはすでに、わたしは彼女を家に招くようになっていた。彼女が家に来るときはいつも、わたしの青いギターを持ってきていた。


 「ね、ね」

 「どうした?」

 彼女はわたしのクローゼットにもたれかかり、わずかにうなだれたようにして、小窓を見上げている。薄暮のむらさきが彼女の華奢な体を包み込み、吐く息が見えるほどにゆっくりとした呼吸を促すようだった。

 「わたしね」

 「うん」

 「さち、って名前でしょ?これ、おかあさんからもらったみたいなんだ」

 「みたい、って?」

 「おかあさん、わたしを産んですぐに死んじゃったから。わたし、おかあさんの顔、よく知らないの」

 彼女は少し疲れたように、ぎこちなく笑っていた。わたしは、彼女のかなしみを受け取るすべを知りたかった。もはや彼女は不思議なストレンヂアではなく、一介の人間だった。

 

 「それでね、わたしの名前、幸でしょ?わたし、いままで自分の名前、好きだ、って思ったことなかったんだけど、へへ、実はね、今はそれなりに好きなんだ」

 普段の饒舌は鳴りを潜め、やけに静かに彼女は言った。

 「なに、どうしたの?縁起でもないじゃん」

 「へへ、わたしね、きみに会えてよかったよ、ほんとに」

 「やめてよ、茅野が言うと変にマジっぽいじゃん」

 「だって、そう思ってるんだもん、別にいいじゃない?」

 

 彼女はそう言って、くすくす笑った。揺り籠にゆられた赤ん坊が発したような、屈託のない笑い方だった。すでに日は落ちており、青白い光があたりを一様に照らしていた。

 「でもね」

 「うん?」

 「それでも、やっぱり、って、思うことがあるんだ」

 「何」

 「わたしの名前。…へへ、だってわたし、この名前をくれた人のこと、なーんにも知らないんだもん。ねぇ、わたしって、ほんとに、ほんとに生きてるのかな」

 「なによ、それ…」

 「ううん!気にしなくていいんだよ。大丈夫、わたし、あなたのところから離れたりしないよ。だって、わたし、天使になったんだよ、ほんとだよ?」

 そういって彼女は、気丈に語りかけてくる。その姿がなんだかとても痛々しくて、わたしは彼女を強く抱きしめた。彼女は肩を震わせていたが、しばらくすると収まって、またいつものおしゃべりな茅野に戻った。こんなことが何度かあったので、わたしはその晩も安堵して、彼女を見送った。ただし、いつもなら「ばいばーい」と言って去っていく彼女が、今晩は「行くね」とだけ告げていったのが、わたしにはどこか気がかりだった。




 次の日。茅野幸は部室に来なかった。昨日の言葉が気にかかっていた私は、茅野の家へと足を向けた。彼女はほぼ物を持たずにワンルームで生活しているため、いつもは暇つぶしに歌っている声や、わたしのギターの音が聞こえる。しかし、彼女の部屋の前まで来ても、そのような物音はしなかった。




 部屋に入ると、玄関先に彼女の服がきれいに折りたたまれて置かれていた。明かりはついているらしい。奥へと続くドアを開けると、そこには一糸まとわぬ姿で首を吊って息絶えている茅野の姿があった。彼女の両肩には、びっしりと赤い傷跡が刻まれていた。足元にはルーズリーフの破片が釘で止められており、そこには「これで、『わたし』のこと、忘れないよね」と書いてあった。


 


 彼女の部屋の片隅には、1弦の切れたわたしのギターが、新品のように磨かれた状態で置かれていた。

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追想 袖笠 @masuharaion22

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