水色の恋慕

水色の恋慕

 彼女と再会したのは、近所にある携帯電話のショップだった。

 携帯電話の調子が悪く、買ってから結構経つしどうせなら機種変更してしまおうか、と何気なく立ち寄った――そこに、彼女は店員として働いていたのだった。


「……鶴田つるた?」

「あぇ?」

 にこやかな営業スマイルから一転、驚いたように目をしばたたかせた、見覚えのある年若い女――鶴田真衣まいは、いつも落ち着いていた印象とは打って変わった非常に素っ頓狂な声を上げた。

 そう。それは例えば、球技大会や体育大会で見かけた、運動のできない彼女が無理にスポーツをしようと奮闘していた姿のような。

 それすらも、今となっては懐かしく思ってしまうのだが。

瀬良せら先生!?」

「そ、久しぶり」

「お久しぶりですぅ……えーっ、こんなとこで会うなんて」

 うっそ、びっくりしたぁ、なんて大仰に笑う。八年経っても、やっぱりリアクションが多少大げさなところは変わらないな、と苦笑した。


 カウンター席に案内され、テーブル越しに向かい合う。

「名義はご本人様でしょうか」

「うん、そうですよ」

「ふふ。何だかこうしてるのすごい違和感……かしこまりました」

 昔の教え子である彼女は、いつも自信なさげだったあの頃と違い、俺に対して堂々とした態度だった。

「免許証拝見できますか」

「はい」

 綺麗になったのだと思う。

 少し地味めだと思っていた顔つきも、化粧のせいか比較的華やかになっていて。それでいて、清潔感のある凛とした印象を受けた。


 俺が当時勤務していた隣町の高校に、彼女は八年ほど前まで生徒として在籍していた。

 担任ではなかったけれど、授業担任としていくらか勉強を見ていたし、大学受験の時は面接から論文の添削までしっかり受け持っていたので、薄い関係だったというわけでもない。

 当時の女子高生なんてだいたいませたもので、校則なんて無視して普通に薄化粧なんかしてくる――当人たちはバレていないとでも思っていたのかもしれない――奴らが多い中、素顔のままきっちりと制服の着方すら守っていた姿が今でも記憶に残っている。

 それでいて割とわかりにくいところで――例えば買い食い禁止なのにちょいちょい駅でお菓子を買ってるところを見かけたり、本来持ち込み禁止なのに携帯電話を持ってたり――小さな校則違反を重ねているのを割と頻繁に黙認していたので、完全に生真面目というわけでもなく。

 不良っぽい同級生や先輩たちとも仲良さげだったり、リーダー役でも目立ちたがり屋でもないのに何故か印象的だったりするような、不思議な立ち位置の生徒だった。


「ありがとうございます」

 返された免許証を受け取った拍子に、指先が僅かに触れる。

 ほんのり頬が染まった彼女に、

『あっ……ごめんなさい』

 論文の添削をしていた時、ペンを持つ手が僅かに触れ、驚いたように真っ赤な顔でびくりと肩を震わせた初々しい姿が重なって。

 八年前の、忘れかけていた記憶と感情が少しずつ蘇ってくるのを、俺は一人しみじみと感じ始めていた。


「そうですね、分割も終わってますし。保険に入っておられるので、修理もできるはできますけど……機種変更しますか?」

「うん、そうだな。修理はいいわ。じゃあ、機種変更でお願いします」

「かしこまりました」

 当時は接客なんてできるようには見えないほど、人見知りなところのある生徒だったと記憶していたが、携帯販売なんて仕事に就いていたのは少し意外に思った。そういう意味で、あんなに個性的だった彼女も徐々に大衆向けに染まり始めているのだと思う。

 けれど、どこか抜け目ないところはあの頃と同じで。

 ちょうど三人目の子供が産まれて、上二人の子供たちが母親のスマホで仲良く動画を観ている……というような話をしたら、「お子様用として、こんなのはいかがですか」と勧められて、一緒にタブレットも購入することにした。

「お子さん方が一緒に動画を観ているのなら、より画面が大きい方がいいんじゃないですか?」

 目が悪くなっても困るでしょうし、と小さく目を伏せて。

「これなら奥様も、スマホを取られることがないですから、一つ持っておくと安心ですよ」

「なるほど、確かに。それが月千円?」

「そうです。先生のスマホで月五ギガ使ってるインターネットの容量を、タブレットとシェアしてあげればこの値段で持てます。ご自宅のワイファイ環境で使えばギガ数は言うほど減らないですし、今のご利用状況であれば不足することもないかと思いますから。これでいきましょ?」

 まさか元生徒に言いくるめられる日が来るとは、思ってもいなかったけれど。

 それより心に引っかかった一つのしこりは、見ないふりをしなければいけない類のものだと気づいていたから黙っておくことにした。

「……昔よりずっと口が上手くなったな、鶴田は」

「ふふ。伊達に何年も、ここで働いているわけじゃないですもの」

「ふははっ……じゃあ、全部プロにお任せしますか」

 良いようにしてくれよ、と降参したように首を振ってみせれば。

「ありがとうございます」

 そう言って控えめに笑う、その面影も見慣れたそのままだった。


 見積もりをいくらか出してもらった後、機種と色を決めて。一緒にフィルムやケースも買って、その全てを分割で登録してもらうことにした。

「じゃあ、手続きに入りますね」

 にっこりと笑った彼女に、俺もつられて小さく笑う。

 面接練習の時に苦労したほど作り笑いが苦手だったのに、八年も経てば手慣れてしまうものなのだろうか。

 俺の知らない姿を垣間見るたびに、そんな権利はないのになんだか無性に寂しくて。

 それもまた、口にしてはいけない類の感情なのだということを、俺はちゃんと知っていた。


「分割を組むのに審査が入るので、勤務先の名前と電話番号を頂きたいのですが」

「あぁ、ちょっと待って」

 差し出された紙に今勤務している学校の名前と、電話番号を書いて差し出す。「ありがとうございます」と紙を受け取り眺めた彼女は、どこか寂しそうに目を伏せた。

「やっぱり、もうあの高校にはいませんよね」

「そりゃあ八年も経ってたらな。こっからは近いけど」

「ですよね、すぐそこですもんね。……でも、何かちょっと寂しいな」

「変わってねぇよ。教えてるのは今も世界史だし」

「そうなんですね」

 先生の授業、分かりやすくて好きでしたよ。

 屈託ない褒め言葉は、普段聞き慣れなくて。見返りを求めて授業をしているわけではないけれども、俺にとってはどうしてもくすぐったかった。


 機種変更の手続きというのは、思った以上に時間がかかる。しかも、タブレットの登録も入るのでなおのこと。

 覚悟はしていたけれど、やっぱり疲れてしまうなと小さく溜息を吐いた。

「お前も、疲れるんじゃないの?」

 こんなに長い手続き、毎日のように付き合わされて。

 頬杖を突きつつそう告げれば、さすがに慣れているらしい彼女は何でもないことのように笑った。

「そりゃあ、先生に限らずお客様の方は疲れますよね。座りっぱなしですし」

「まぁ、やってもらってる側だからそんな文句は言えないけどな」

「言ってるじゃないですか」

「相手がお前だからだよ」

 ははは、と快活に笑えば、彼女はふと目を細めて。

「その気持ちいい笑い方、変わらないですね」

 お歳は召されたようですけど、なんて一言多く付け加えられる。

「言うようになったなぁ!」

 思わず声を上げれば、ふふふ、と彼女は堪えきれないように笑った。


 登録作業があらかた終わると、簡単な説明があってからようやくサインをする。選んだ機種と色、見積もりの時に決めたプラン、そして保険などのオプションも全て希望通りであることを確認し、同意を示した。

 これにサインをしてください、と彼女からタッチペンなるものを渡される。今となっては昔のように紙に書いたりすることはなくなって、代わりにタブレットに専用のペンでサインするのが主流になったらしい。

 書きにくいことこの上ないのであまり好きではないのだが、それこそ文句を言っても仕方ない。時代は変わったのである。

「はい、ありがとうございます」

 サインをして間もなく、登録ができた旨を伝えられた。

「早いな」

「何事もなければこんなものですよ」

 支払いが遅れているわけでもないでしょう? と尋ねられ、まぁ確かにそうだけど……と俺は思わず苦笑を浮かべる。

「一応安定してるっちゃしてるからな。公務員だし」

「そうですよね」

 そうじゃなきゃ、ご家族を養うなんてできませんものね。

 控えめに告げられた一言が、やっぱり少し引っ掛かった。……俺の、自意識過剰なのだと思うけれど。


 子供用に買ったタブレットの方の初期設定はすぐに終わり、続いてスマホの箱が開けられる。

「何か、先生らしい色ですよね」

 水色がかった新しいスマホを手に、彼女は笑った。

「そうかな」

「そうですよ。……澄んだ、青空のような」

 自分では思っていなかった、自分の客観的な印象を指摘され、思わず照れてしまう。

 彼女の方も少し照れ臭かったのか、心なしか小さくうつむいたまま初期設定とデータ移行を始めた。


 しばらく、無言のまま彼女は作業をしていたが。

 俺の口からぽろりとそんな話題が出てしまったのは、長い手続きの中で少なからず疲れてしまっていたからかもしれない。

「……鶴田。お前さ」

「はい?」

「俺のこと、好きだったろ」

 スマホを操作する手を一瞬だけ止めた彼女は、今度は期待に反し顔を赤らめたりすることはなく、そこまでの動揺を見せることもなかった。

 それどころか至極落ち着いた態度で、顔を上げることもせず、ただ画面を見つめたまま静かに笑った。

「……はい。好きでした」


 教壇に立つあなたの、皺ひとつないスーツに覆われた、そのしゃんとした美しい立ち姿が好きだった。

 チョークを持つ、男らしいごつごつした大きな手が。教科書のページに綴られた明朝体の文章を示す、その長い指が好きだった。

 動いた時にさらりと揺れる、その艶のある黒髪が好きだった。

 長い話をしている時には決まって、手を後ろに組んだまま教壇をうろうろと歩き回る。そんな小さな癖すらも好きだった。

 教室に、廊下に、朗々と響くその高めで特徴的な声が好きだった。

 授業に集中する真面目な顔も、男子たちに紛れて快活に笑うその無邪気な笑顔も好きだった。

 運動をする時軽快に動くそのしなやかな身体の動きが好きだった。

 最近少し太ったかもなんて、女の子みたいに小さなことを気にする可愛らしさが好きだった。

 とろくさいわたしをからかう時の、子供みたいな意地悪さも。普段はしっかりしているのに大事なところでどこか抜けている、ちょっと天然なところも好きだった。

 面接練習も論文の添削も、本気でわたしのことを考えてくれて、真正面からぶつかってきてくれて。志望校に受かった時には、自分のことのように一緒に喜んでくれた――そんな、優しくて綺麗な、あなたの全てがどうしようもなく好きだった。


「先生と話したことも、先生がしてくれたことも。当時から彼女さんがいて、一緒にいるのを見かけて嫉妬した時のことも……全部、今でも全部思い出せるんです」

 そのくらいずっと、あなたは大きな存在で。

「高校時代の想い出を、話そうと思うとね。どうしても先生抜きで語ることなんてできないんですよ。不思議ですよね。担任でもなかったのに」

「ま、関わりはちゃんとあったしな」

 だって俺も、お前のことをしっかり覚えていたんだから。

「そうですね」

 嬉しかったです、と彼女はまた頬を赤らめた。


「結婚するんです、今度」

 左手の薬指に光る、俺がしているよりも小さくてシンプルな指輪をそっとひと撫でした彼女は、微笑みながらふっと目を伏せた。

「わたしもう、鶴田じゃなくなるんですよ」

 声色は自慢げなのに、眼差しはどうしようもなく温かくて。口元に灯る僅かな笑みは、どこか郷愁を帯びていた。

「でもわたし、あの頃と全然変わってないみたい」

「……何が」

「意地悪だけど優しくて、時々年甲斐もなく無邪気で。それでいて穢れを知らない、綺麗な人なんですよ……先生みたいに」

 そんなに買いかぶらないでほしい、とも思ったけれど。

 高校時代の彼女にとって、少なくとも俺はそういう存在だったのだと。それだけは、せめて受け入れてやりたかった。

 実際俺は、彼女が思うような人間ではないのだろうけれど。

 例えば妻に聞けばきっと、違う答えが返ってくるに違いないのだけれど。


「――結婚する前に、もう一度会えてよかった」

 帰り際、買ったスマホとタブレットの入った袋を渡してくれた彼女は、微笑んではいたけれどほんの少し涙目だった。

 気を抜くと、俺も何かの感傷に呑みこまれてしまいそうだったので。

「今度は、嫁の機種変更とか。そうだな……子供に携帯を持たせる時とか、多分また来るだろうから」

 その時にはまた、お前を指名するよ、なんて何も気づかないふりして笑ってみせた。

「そうですね。その時はまた、是非お願いいたします」

 一人の客として振る舞った俺に答え、店員らしくにっこりと笑った彼女は、それでもやっぱり泣きそうだった。


 そんな表情を見たのは、初めてだったのだろうか。

『お世話になりました』

 卒業式の日、彼女は泣かなかったけれど。

 準備室に来た彼女に、手を差し出して。

 小さな彼女の手が重ねられ、最初で最後の握手を交わしたあの時。

 そういえば同じ顔をしていたのかもしれないと、そんなとりとめもないはずのことをふと思い出して。


 ――今更、本当に今更。全て終わった今頃になって初めて、自覚させられてしまったのだ。

 教師になってまだ数年も経っていなかった、ただ青臭く若かった俺はあの時。確かに、高校生だった彼女に惚れていたのだと。


「ありがとうございました」

 泣きそうな顔を隠すためなのか、大げさなほど深々とした彼女の敬礼に見送られ、店を出る。

 駐車場に向かう俺を出迎えた昼下がりの空は、彼女が俺に抱いてくれていたイメージと同じ、澄み切った綺麗な青色だった。

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水色の恋慕 @shion1327

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