泡沫の恋

鶴園稔

第1話 泡沫

 目が覚めた。夢をみていた。彼が、笑っていた。

 額にのせていた右腕を下ろして、天井をみつめる。

 彼が私に笑いかけることは、もう、ない。

 

 カーテンを開けよう。あんず色のカーテンは閉めていても部屋が明るくみえるが、それでも、カーテンを開けよう。

 梅雨が始まる前の午前8時の空は、晴れるでもなく、雨が降るわけでもなく、言ってしまえば曇りなのだが、とりあえず、心は落ち着いた。気がする。


 電気ポットでお湯を沸かす間にタブレット端末で新聞を読む。昨日も外交はゲームが好きそうな大統領がいる国に振り回され、芸能人は不倫の謝罪会見を開いたらしい。

 お湯が沸いたので、ドリップ・オンのコーヒーを淹れる。キッチンに立ったままお気に入りのマグカップを傾けるが、意識は手元にはない。


 そう、夢だ。彼が、笑っていた。だから、あれは間違いなく夢だ。


 最後のコーヒーを胃に流し込む。

 空になったマグカップを水ですすいでシンクに置く。洗剤とスポンジで洗うのは、帰ってからにしよう。


 歯を磨き、顔を洗い、化粧水をつけ、寝ぐせをなおす。

 黒いスキニーに、白いTシャツに、グレーのパーカー。ついでにいえばすっぴん。

 「一定でいたい」と好きな小説のヒーローは、いつもデニムに黒いTシャツで過ごしていた。なるほど、一理ある。そして小説の中のヒーローも現実の私も、社会人というくくりのなかで非常識と言われかねないこれらの恰好が許される職にある。


 職場に着けば、身分証を扉のそばの板にかざして鍵を開ける。

 「おはようございます」と口にすれば、「おはよう」と返ってくる声はひとつだった。「教授はどちらですか?」と問えば「会議」と端的な答えが返ってくる。

 教授1人、准教授1人、講師である私が1人。3人でこの研究室は成り立っている。


 メールをチェックして、今日の予定を組み立てる。明日の授業の準備と、先週の先週集めたレポートの採点、昨日集めた文献を読んで、学部生の卒論指導、etc、etc……

「どうしたの」

振り返れば、こちらを見るわけではなくパソコンの画面をみつめて異様な速さでキーボードを叩く准教授がいた。

「何がですか」

パソコンに向き直りながらこたえると

「いや、なんとなく」

理由はないらしい。

「そうですか」


「どうしたの」

教授が会議から戻るなり口にした。

すでに自分の席で書類を整理しているが、その問いが発せられたとき、教授は間違いなく私をみていた。

「何がですか」

再度問うと

「雰囲気がいつもより複雑」

雰囲気が複雑とは一体、なんて考えながらも、理由はわかりきっている。

「そうですか」

たった3人の職場は、今日もこうして回っている。


 帰宅すると、今朝のコーヒーの香りが部屋に残っていた。窓を開て室内の空気を入れ替えるついでに、空を見上げた。黒々と迫る空は、ただ、そこにあるだけだ。

 何を語るでもなく、ただ、そこにある。


 風呂に入り、帰り道で買った缶チューハイを開け、ビーフジャーキーを噛む。昔よく聞いたバンドを聴こうと動画サイトをあさり、いつもなら映画を一本みるところだが、今日は眠ってしまおう。


 今朝の夢の続きをみられるかもしれないから。

 夢でしか、彼の笑顔はみられないから。



 



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泡沫の恋 鶴園稔 @mitsuru310

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