第9話 柊 -walking in Christmas night together-

 電車を降りると、頬に冷たい風が刺さり、私は思わず目をつぶった。呼吸が浅くなる。鼻の奥がつんと張り詰めて、くしゃみが出そうになる。

「寒過ぎだよ」隣を歩くヒロくんがぼやいている。東京で生まれ育った私たちにとって、冬の寒さは毎年たいして変わらないはずなのに、どうして耐えられないと感じてしまうのだろう。人間は暑さよりも寒さの方が耐性がないのかもしれない。

 私の手を引くヒロくんは、さっきから私のことを見ようとはしなかった。話しかけるにしても、私の横顔を伺う程度で、電車の中でも、私の目を見て話すことはしなかった。


 ヒロくんの感情はよく分かった。嬉しい時も怒っている時も、悲しい時も楽しい時も、顔や態度に表れやすいのだ。

 私がヒロくんの告白に頷いた時は、小躍りでも始めるのかと思うほど飛び上がって喜んでいたし、二人で映画を観に行った時は、主人公の恵まれない運命に感極まったのか周りの目もはばからずに泣いていた。まっすぐに気持ちと向き合うヒロくんのことが私は好きだった。


 最初におかしいと思ったのは、二週間前の土曜日だ。アルバイトが終わり、ヒロくんの部屋に戻ると、そこには誰もいなくて、どうしたのだろうと持ったら、しばらくしてヒロくんが暗い顔をして帰ってきたのだ。私を探していたのだという。その日、私は携帯電話を自分の部屋に忘れてしまったのだ。連絡できなかったことを詫びても、ヒロくんの顔色は晴れなかった。

 今日という日を迎えてもなお、ヒロくんはその時と同じ空気を身にまとっていた。私の右手を握る掌はわずかに熱を帯びて、それだけがヒロくんの存在を感じることができる手段となっていた。隣にいるのに、間に大きい川が流れているみたいに、遠いところから声が聞こえる気がした。


 ホームの階段を一歩ずつ下っていく。周りの雑踏が普段より騒がしい。大勢の人が私たちを追い抜いていく。その顔はみんな幸せそうだ。平日とはいえ、今日はクリスマス・イブなのだ。サンタクロースはいなくても、家族や恋人と訳も分からずお祝いをする日。暇を持て余しイベントごとに事欠かない大学生の私であっても、一年で一番楽しみにしていた日だった。

 二週間前のあの日、勇気を出して同僚の篠崎くんと小林くんに相談したのが懐かしい。篠崎くんはヒロくんのことを知らなかったけれど、どうすればヒロくんが楽しんでくれるか一緒に考えてくれた。小林くんは途中でアルバイトに戻ってしまったけれど、私の話を親身になって聞いてくれた。それも結局は無駄だったということだろうか。


「ねえ、どこに行くの?」私は握る手に力を込めて聞いた。ヒロくんは今日のスケジュールをほとんど話してくれなかった。私はなすがまま、ヒロくんに引っ張られるまま、東京のいろいろな街を巡っていた。さっきまでは銀座にいて、寒いからと電車に乗ったのに、一駅乗っただけで降りてしまった。

「それは着いてからのお楽しみ」ヒロくんは全く楽しくなさそうに言う。イルミネーションを見るつもりだろうか。銀座の並木通りも綺麗だったが、丸の内もきっと目を奪われるくらいきらびやかなのだろう。でも、それを素直に喜べるような心持ちではなかった。

 もしかしなくても、私たちはこれで終わりなのかもしれない。原因は分からなくても、どちらかの心が離れてしまえば、恋は終わってしまう。そのきっかけが私にあってもなくても、避けることのできない場合もある。世の中の恋の大半がそうであるように、私たちの関係はあまりにも脆弱だ。


 急に周りが明るくなった。周りを歩く人たちがビクッと私たちを見る。まるでスポットライトが当たったように、強い光がヒロくんと私を取り囲んでいた。一番驚いたのはその私たちだ。ちらりと上を見ると、大きな照明が私たちの方に傾いていた。駅舎を照らすライトが風か何かで位置が変わったのだろうか。ヒロくんも私も戸惑っていたが、ふっとヒロくんが笑顔になった。一歩、私に近づく。息遣いが聞こえそうな距離までやってくると、ヒロくんは意を決したように話し始めた。

「本当は、あの日、友紀が戻ってこないのが心配で、塾まで迎えに行ったんだ。そうしたら、あれはアルバイトの友達だろうけど、男と一緒に店から出てきたから、びっくりしたんだ。人の気も知らないで、って感じだった」

「あれは」男の人に相談していたということを話すべきかどうか迷った。何を言おうか考える時間は、まるで言い訳を考える子供みたいに惨めだった。


 私が言いよどんでいると、ヒロくんは静かに首を横に振った。

「あのあと、小林に会ったから、すぐに事情は分かったよ。だから、これはあれだよ」ヒロくんはそこでバツの悪そうな顔をした。「ドッキリのつもりだった。僕ってさ、感情が表に出やすいでしょ。だから、逆に怒ったふりをしていれば、それが本当だって、友紀は感じるかもしれないなって。でもちょっとやりすぎた。ごめん」

 私は、どうしてだろう。泣いていた。嫌われたわけじゃなかった。それがこんなに嬉しいだなんて、思わなかった。


「これ、クリスマスプレゼント」ヒロくんがポケットから取り出したのは、指輪が入っていそうな小さな赤い箱だった。表面がライトに照らされてツヤツヤしている。そっと受け取り、蓋を開けた。銀色に光るリングがそこにあった。右手の薬指につけてみる。少し緩いそれは温かかった。ヒロくんの気持ちが伝わってくる気がした。

「今度こんなことしたら」私は今、どんな顔をしているだろう。笑っているだろうか、それとも、怒った表情をしているだろうか。感情をそのまま表現するのは難しい。でも、ヒロくんなら、きっと分かってくれる。

「したら?」

「殴る蹴るだからね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花言葉 長谷川ルイ @ruihasegawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ