6.運命は正しく歪む
あおいちゃんからのメッセージに添付されていた手書きの地図は分かりやすく正確だったので、私ははじめての土地でも迷うことなく無事に他人の家の中に侵入することができた。家主が帰ってくるまでまだ時間はあるはずだけれど、できるだけ長居はしたくない。
床には男物の洋服が脱ぎっぱなしのまま散らばっている。踏んづけないようにつま先立ちで部屋の奥にある木製のチェストの前まで移動した。目的の青い缶ケースは、メモの通りにいちばん上の引き出しの中にあった。
気持ちの余裕なんてないはずなのに、心のどこかで、まるで怪盗みたいだと興奮している自分がいた。
ファミレスやファーストフードでまわりの人たちのおしゃべりに聞き耳を立てていると、まったく知らない人たちの普段の生活だとか人となりが見えてきて面白い。だけど、ひとりで来ている人は喋らないからどんな人なのか想像するのが難しいな。
千塚さんと出会った日に彼が腰掛けていたテーブル席には今、白いトレーナーを着た太った女の人が座っている。私はその席を正面から眺められる位置に場所を取り、あおいちゃんを待っていた。
白いトレーナーの女はビッグサイズのハンバーガーを食べている。ヘリコプターがプロペラを回すようにレタスが四方から飛び出して、ぼろぼろとトレイの上にこぼれていた。
あの日あの席に、千塚さんではなくてこの女が座っていたなら、私は今日までどんな毎日を送っていたのだろうか。それを考えようとして彼女をまっすぐに見つめ、私はすぐにその視線を外した。そうしたのは、千塚さんと出会っていなかったらという仮定の想像をやめるためでもあったけれど、単純に、自分の視界に汚いものを入れたくなかったからだった。
私にとって千塚さんはきれいな男の人で、だからこそ、その内面をたくさん想像することができた。彼と一言も喋ったことがなくたって。
見た目が好きじゃなかったら、想像すらしようと思わない。自分が心惹かれた外見には、そのかたちの内側に他よりまさった何かが秘められているはずだと思ってしまう。宝石はきれいだけれど、そんなことは誰が見ても分かるから、そこに自分だけが知っているストーリーが欲しい。物語をもった宝石は特別な宝物になる。私は千塚さんにそういう期待を抱いていた。自分だけの宝物を求めていた。
あおいちゃんから連絡が入る。「今から二階に上がります」というメッセージを確認して振り返ると、ちょうど階段をのぼってきたところだった。
「赤系のアイシャドウ塗ってみたんですけど、どうですか?」
向かい合う席に腰を下ろしたあおいちゃんが私に尋ねる。
「普通に見えるよ」
「良かった」
あおいちゃんが祐一君と別れたことを聞いたのは昨日の夜だった。
同じ大学に通う男の子を好きになり、その彼と自然とうまく行く運びになって、彼女は祐一君と別れることを決めたらしい。自分の一方的な心変わりにためらう気持ちも強かったけれど、長い間ずいぶん悩んで出した答えだったと昨日の電話であおいちゃんは私に話してくれた。夜の深い時間、彼女は野外にいた。ほぼリアルタイムで私に状況を説明し続けるその声は興奮していた。
あおいちゃんから別れを切り出された祐一君は、絶対に別れないと言ってあおいちゃんを殴った。そうされて彼女は、絶対に祐一君とは元に戻らないことを決め、半同棲していた彼の部屋から飛び出した。
赤みがかったアイシャドウを落としても、きっと今日の彼女のまぶたははれぼったいのだと思う。
「悩んでいたことに、気付いてあげられなくてごめんね」
あおいちゃんにはこちらが一方的に千塚さんのことを相談するばかりだったから、きっと彼女は私に悩みを話したくても話せる状況ではなかったはずだ。それを思うと、申し訳ない気持ちになった。
「気付かれないようにしていたんだから平気です」
私の想いをよそに、彼女はしれっと応える。
「まあ、私なんかじゃ頼りにならないもんね……」
「違うの。そういう意味じゃなくて、自分の気持ちに整理がつけられなくてどう話していいか分からなかったんです。祐一がいるのに他の人に惹かれるなんて、あっちゃいけないことだって思ってたから。誰にも知られないうちに気持ちをセーブして、笑顔で祐一のところに戻ろうって思ってたんです。だけど、私、新しく気になった彼のことをどんどん好きになっちゃって……」
あおいちゃんは、長く付き合っていた祐一君を裏切ったのだからたとえ彼から殴られても仕方がない、自分が加害者なのだとも口にした。交際が解消された途端、ずいぶん物騒な関係性に変わってしまうものだ。誰かを殴るよりも、別の誰かを好きになることのほうが相手を傷つけることがあるとしたって、後者に罪があるなら恋愛は利害関係でしかないということになるんじゃないだろうか。そんな風に思うことなんて、別れる前は決してなかったはずなのに。
「あおいちゃんは悪くないよ」
時折肩を震わせて話を続ける彼女に私はそう言葉を掛けた。
「殴ったことに関しては祐一君だけが悪い」
それは正しい見解のはずだ。
「あおいちゃんは悪くない」
自分が祐一君の立場なら決して言わない言葉を、私は繰り返す。
「祐一のこと、好きでしたし、今だって、好きな気持ちがないわけじゃないんです。だけど、もう……」
「……うん。彼、これからしあわせになれるといいね」
「はい。無責任ですけど、私もそう願ってます」
私はあおいちゃんの話を聞きながら悲しいほど、今とても傷ついているであろう祐一君に過去の自分を重ねてしまう。底のないサラダボールの縁に彼が今、必死でつかまっているとしたら、その手を可能な限り、離さないでいて欲しい。
あおいちゃんから頼まれて祐一君の家から持ち出した青い缶ケースをバッグから取り出す。彼女に渡して中身の確認を促すと、印鑑とパスポートというお決まりの貴重品にまぎれて、かつてこの場所で見た親知らず入りのポリ袋も一緒に出てきた。それを、私もあおいちゃんもスルーする。
この祐一君の歯をきっかけにして、いつか千塚さんの親知らずを手に入れ飲み込むことを夢見た私は、実際に人間の歯を飲み込んだらどうなるのかをすでに調べていた。
するとそれは、どうやら消化も吸収もされることなくそのままのかたちで排出されてしまうらしかった。体の管の中をただ、通過していくだけだそうだ。だから私の想像したことは絶対叶わなかったし、そもそも私は千塚さんの親知らずを手に入れることさえ出来なかった。それは未来永劫決定された事実だった。
カズキさんを久しぶりに店に呼んだ日、彼を送り出したあとに開いたLinxで話題になっていたのは、その日まなこの身に降りかかった事件のことだった。
江藤真奈子の過激なファンが彼女の自宅マンションへ侵入し、ベランダから転落して重体。事件を知った私は、SNS内のコミュニティに次から次へと上がってくるファンたちの書き込みをずっと追いかけていた。興奮したまま迎えた翌朝、ネットに配信されたニュースの中で男の死が伝えられた。憎たらしいアイドルグループのスキャンダルとばかな男のあっけなくくだらない人生の終わり方を私は笑っていた。犯人の男の名前が、千塚貴之だと判明する前は。
「助けて」
SNSにそう投稿したのは、ほとんど反射的な行動だった。特定の誰かにすがったわけでも、誰かに反応して欲しいわけでもなかったけれど、混乱を自分の中だけで処理することは無理だった。同姓同名の男がたまたま犯人だっただけで、千塚さんは無関係だという可能性は検索した画面をスクロールするたび薄れていく。Linxを開けば「友人」たちもざわめいていた。事件の経過は早くもまとめられる。マンションに忍び込み、まなこの部屋に隠れていた男はその日たまたま早く帰宅した父親に見つかり、ベランダから逃げようとして足を滑らせたのだという。千塚さんの顔写真がネットに上がる。犯人の簡単なプロフィールは私が何度もなぞってきたものと同じだった。
「助けて」
あおいちゃんと美南のそれぞれに私はメッセージを送っていた。今すぐにふたりに縋り付きたかった。
「ごめん」
まだ返信もないのに私はひとりでメッセージを送り続ける。
「ごめん。急にこんなこと言われても困るよね。大変なことが起きた」
ニュースとまとめサイトのURLを貼り付け、「これ、千塚さんだよね」とだめ押しの確認を続ける。「どうしよう」、「どうしよう怖い」「千塚さん」。
何通目かのメッセージを打っている途中であおいちゃんが私からの連絡に目を通したことが分かった。既読のマークがついて、「どうしたの」と返信がくる。そこから私たちは午前中いっぱいを使ってメッセージのやりとりを続けた。犯人が間違いなく千塚さんであることを確認した彼女は、言葉少なに私を慰めてくれた。かなしい、つらい、と、私の指先からは次々に言葉がこぼれるものの、不思議と涙は出なかった。千塚さんがこの世からいなくなったということに実感が持てなかった。
美南からの返信は来なかった。そんなことは今までにはないことだったけれど、彼女にとっても多少のショックはあるはずで、私にどんな言葉をかけていいのか迷っているのかもしれない。
「さっきは急に、ごめん」
昼を過ぎてから私が送った謝罪のメッセージはそれから何度確認をしても読まれないままだった。どうしてこのタイミングでスルーされるのだろう。つわりで体調でも崩しているのだろうか。それとも、妊娠しているときにこんな話題に付き合うのは胎教に悪い? それもそうか。友達を慰めるよりも、今はお腹のこどもや自分の体のことのほうが大切なはずだった。それを考えると、理由を追求することもはばかられる。
美南だったら私を優しく慰めてくれるんじゃないかと期待していた分、仕方がないと思いながらも見放されてしまったような気持ちだった。私にはむしろそのことのほうが実感を伴って悲しかった。
メディアが報じるニュースで千塚さんの事件について触れられることはその日以降なかったけれど、ゆめいろファクトリーのファンの間ではしばらく大騒ぎが続いた。
私がLinxでつながっていた「友人」たちはみんな彼女たちのファンだったし、私よりもずっと濃密にSNS内で千塚さんと関わっていた人もずいぶんいたようだったから、話題の白熱具合は相当なものだった。非難も擁護も悪ふざけも入り乱れ、みんな千塚さんについて口々に色々なことを語った。あるブログサイトに彼が匿名で公開していたというまなこへの愛情と妄想を綴った日記もさらされた。そこでは、存在しなかったふたりの蜜月が書かれ、まなこと千塚さんは運命的な恋で結ばれていた。
「しあわせストーカー日記」誰かがそれを揶揄して呼んだ言葉のあとに、嘲笑を表すネットのスラングを続けた。
何を言われても彼自身に非があることは充分に承知していたけれど、死んでしまった千塚さんが冒涜されていくのを見るのに耐えられなくて私はLinxを退会した。
「ヤッホー!」
「ヤッホー!」
帽子はショッキングピンク! 蛍光イエローの長袖の上にテラテラひかるライトブルーのベストを合わせ、下にはシルバーのショートパンツを履いていた。私はあおいちゃんと一緒に、初めての登山に来ている。山に登る際の服装に派手な色味を取り入れるのは万が一遭難した場合に発見してもらいやすくするためだという情報を知っていたせいなのか、私の全身は弾け飛びそうなほどカラフルだった。
「りんちゃんは加減というものを知らないんですね」
そうつぶやくあおいちゃんを無視して、私はターコイズブルーとゴールドの組み合わさったパイソン柄のシューズでスキップを踏むように熊笹の道を進んでいく。
「そんなにはしゃいでたら、あとでバテますよ!」
後ろから聞えてくる口うるさい注意に「ヤッホー!」と雄叫びを返す。声は山間にこだました。やまびこも私も、とても元気だ。頂上はまだ遠そうだけれど、このまま一気に登っていけそう。
オレンジ色の虎柄のレギンスを履いた足を大きく踏み出す。そこは絶壁で、私は真逆さまに転落した。
「ヤッホー!」
私が落ちたのは切立った崖に挟まれた谷底のようなところだった。落ちた場所が良かったのか怪我もなく、落下は爽快でさえあった。ずいぶん深いところに落ちてしまったようだけれど、それでも日の光は充分に届き、地面には若い緑の絨毯が敷かれている。
「ヤッホー!」
あおいちゃんに届くように助けを呼んだが、返ってきたのは私の声だけだった。応えてくれる人がいる気配は感じられない。あおいちゃんは私が落ちたことにまだ気付いていないのだろうか。それとも、気付いてはいても見限って先に進んでしまったのだろうか。どちらにしても大変だ。このままでは私は遭難してしまう。
風の中に漂う土の匂いが「きれいだ」と感じた。清浄な土と鼻をスッと抜けていくような若葉の香りが混ざるこの場所で、私はフランケンシュタインの怪物が全面に描かれたライムグリーンのリュックサックから水筒を取り出し、家で淹れてきた熱いほうじ茶を飲んだ。のどかさに、自分が遭難しそうだという事実も忘れてしまう。危機感はほんのわずかな時間のうちに薄くなっていた。
むしろ今や、心のどこかで積極的に遭難を希望してさえいた。わずらわしい世間から離れ、何も思い悩むことなくこの場所に留まっていられたら、私はどんなに心休まるだろうか。そんな願いが心の内に生まれるのを感じながらほうじ茶をすすっていると、私の耳にかすかに人の話し声が入ってくる。声のするほうには背の高い山草が茂っていて、その奥に複数の人影のようなものが見えた。登山者か、地元の人間か。いずれにせよ、遭難騒動には片がつきそうだった。私の束の間の安らぎはどうやらあっけなく終わってしまうようだ。
「ヤッホー!」
やや控えめな声量で呼びかける。草むらの向こうで小さなざわめきが起こった。彼らに近づこうと草を掻き分けると、人影は逃げるようにばらばらに散ってどこかに消えた。七人いた、なぜかそう判断できた。
草むらの向こうには茶碗によそられたご飯のようななだらかな丘陵が広がっている。丘の中央にはガラス製の棺が置かれていた。その中に千塚さんの遺体があった。
透き通った棺の中で白い花に囲まれる千塚さんは、顔だけが仮面のように浮いて見えた。棺のサイドには銀色のスイッチがあった。押してみると、炊飯器が開くように蓋は簡単に上がった。
千塚さんの頬に手を触れる。おとぎ話の王子様がそうしたように、血の色の失せた彼の唇に口付けをした。人肌の弾力は感じられず、かまぼこの表面に口を付けたような冷たく硬い感触だけを覚えた。千塚さんは目覚めない。私はますます悲しくなってしまう。顎を下方に引いて口を開かせ喉の奥に指を突っ込んだ。千塚さんが毒りんごを飲み込んでいるのならそれを吐かせたかったのに、喉の筋肉はぴくりとも動かない。千塚さんの顎を元に戻して、棺の中に溢れる白い花の下に手を沈めた。そのまま、花の下に横たわる千塚さんの身体に手を這わせる。紙のように薄い布地の死装束は、私の手に千塚さんの身体のかたちを正確に伝えてくれる。下半身に手を伸ばし、布越しに千塚さんの性器に触れた。それは弛緩していた。強く摘んだら反対側の自分の指の感触を感じてしまうくらい頼りない柔らかさだった。私たちの性別が逆であったら彼の死体を姦することもできるのかもしれないけれど、女である私は死んでしまった千塚さんを犯すこともできない。代わりに何か別のことで千塚さんの身体に私を刻み付けることはできないだろうかと考える。思いつくアイデアはなく、私は自由にできる千塚さんの死体を前に途方に暮れている。これでいいのだろうか。自分に呼びかけても答えは返ってこなかった。せめて彼の髪の毛の一本や爪の一枚でも持ち帰らなければ後悔するかもしれない。そう思って白い花の下からすくい上げた千塚さんの手指を見て、私は、そこで、爪を剥ぐことを思いとどまってしまった。
千塚さんの身体を記念品のように持ち帰りたいわけではなかった。肉から剥がされた爪ではなく、そこにあるままの手指の方が幾らも愛しく、ずっとずっと欲しいものだった。千塚さんが欲しいですと、私ははじめて会った日に見たきりのなめらかに動く千塚さんの手を思い出しながら、口の中で呟いた。
棺の淵に身体を沿わせ千塚さんの上に軽く覆い被さる格好で、私はいつまでも彼の顔を眺めていた。欲しい、欲しいと口の中でつぶやきながら、何も盗らず奪えなかった。与えて欲しかったのかもしれない、欲しいとつぶやく私はそう考えて、それよりも、与えさせて欲しかったのかもしれないと思いながらまた、欲しい、とつぶやく。
頭を垂れるとかぶっていた帽子が転がり千塚さんの顔の上に落ちた。無垢な輝きを放つ白い花の上にショッキングピンクの円がぽっかり浮かんだ。
私は毎晩千塚さんの夢を見て、いつも千塚さんのことを考えていた。あるときは死んでいる彼で、あるときは生きている彼との想像上の戯れは、緊張を伴って高まり、ピークを迎えると、そのあとはむなしくたるんでしぼんでいった。私の生活はその繰り返しに支配された。
身体はつねにだるさを覚えていたけれど、脳みそが休まらないので手足を動かしていないと肉体と精神とのバランスを崩してしまいそうだった。私は起きている間のほとんどをキッチンで過ごし、ネットでレシピを追いながら強迫観念に追い立てられるようにずっと食べるわけでもない焼き菓子やプリンなんかを作っていた。死にたいな、いちご味のチョコペンで文字を書いてクッキーをデコレーションしてみる。
甘い香りのするゴミを量産し続ける私のもとに美南から連絡が来たのは五月も終わりを迎える頃だった。
「連絡全然できなくてごめんね」
スマホに表示された彼女からのメッセージを確認すると、自分が抱えていた不安が少し癒やされたような気持ちになった。乾いてざらついた砂に水が染み込んでいくみたいに。
「気にしないで。それよりも、この間はいきなり助けてなんて送ってごめん」
画面を見ると、送った文章はすぐに相手に読まれていることが分かる。
「ショックだったよ」美南から返信が来るより前に私は続けた。「千塚さんのことね」。
「今も、どうしていいかわからない」メッセージはリアルタイムで読まれているようだったけれど、返信はすぐこない。その反応の遅さがもどかしい。
「一回、お茶したいな」
「うん。いつでも平気。店もずっと休んでるし」
やっと返ってきた美南からの言葉に私は百人一首の札を取る早さで返信し、「じゃあ、今日は?」と質問を継いだ。
美南が指定してきたのは、四月に一緒にランチをしたカフェだった。私たちの家は電車で一駅しか離れていないから、彼女の家に近いその店は私のところからもそう遠くはない。
いつも大抵そうであるように、待ち合わせた時間に店に入ると先に美南が待っていた。彼女が私に柔らかく微笑みかけてくれるのもいつもと変わらないのに、席に着くと、いつもとは違ってどう話を切り出していいか分からなくなった。今日の美南は化粧も服装もちゃんとしているのに、どこか寝起きのようなけだるさをまとっているように見えた。
注文したアイスティーが運ばれてくるまで、私たちはとりとめのない話をしていた。それぞれが自分たちの話すべき本題に触れないようにわざと迂回をしていたのかもしれない。天気の話、妊娠している美南の体調のこと、私たちの掛けた席に面する窓から見える花の名前。
「お店入るときにすごくいい香りがしたんだけど、あそこに咲いてるやつかな」
「テイカカズラ、だったかな」
ガラス越しに咲く、小さな花をたくさんつけた蔓性の植物を指して美南が言った。全体的に白い花は、花芯のまわりにだけほんのりと淡いクリーム色がついている。
「よく知ってるね」
「たしかそうだったはず」
美南が口にした名前を検索にかけると、スマホの画面にも同じ花が咲いた。
「正解」
「うちのマンションの生け垣にも植わってるんだよね。ジャスミンみたいな甘い香りの」
表示されたページには同じ言葉でその芳香が説明されていた。名前は藤原定家の悲恋に由来するらしい。身分違いの恋をした定家は死んでからも相手を忘れられず、テイカカズラに生まれ変わって彼女の墓に絡みついたという伝説が短い文章で載っていた。
「
千塚さんについて話をするにしてはおかしな切り出し方をするなと思った。私がうなずくと、美南はつぶやくような調子で言った。
「江藤真奈子」
久しぶりに聞く名前に、心臓をつかまれたような気持ちになる。テーブルに置かれたアイスティーのグラスの中で氷がカランと音を立てた。私のグラスで発生した音に共鳴するように続けて美南のグラスの中でも氷が溶ける音が聞こえる。
「私の妹なの」
耳から入ってきた声が心臓に突き刺さり、一瞬、自分の時間が止まったように思えた。反応する声がうわずる。目の前の美南はやや伏し目がちのまま、こちらにスマホの画面を差し出した。
「鈴ちゃんに言うかどうか迷ったんだけど、言わずにいたらこのまま会えなくなりそうな気がして……」
画面に表示された家族写真。四人掛けのダイニングテーブルには美南とまなこが隣り合って腰掛け、向かい合う位置には両親だと思われる男女が座っている。姉妹ふたりの容姿はまったく似ていないけれど、母親のほうは少しまなこに似ていた。食卓には木製のおひつが置かれ、伊万里焼風の丸い大皿の上に彩りよくお刺身が盛り合わされている。そこに写っているものは、まなこのブログに載っていた父親の誕生パーティの日の写真と同じものだった。合成を疑おうと思えば疑えるけれど、美南が私をだます理由は見つからない。耳の横に心臓が移動してきたみたいに、自分の鼓動が大きく聞こえ、顔が火照る。私は声を出すことができないでいた。
「母親が違うんだけどね。うちは父親が再婚だから。若いでしょ、真奈子のお母さん」
肩を寄せ合う美南と真奈子の姿を見ると、ふたりの仲は悪いものではないのだろう。間違い探しでもしているみたいに、私は写真から目を離せなかった。このまま画像をずっと見ていても何も変わることはないし、分かることはないんだけれど、ただ、美南のもとにこの写真を戻して、そのあとで一体自分が何を喋ればいいのか見当がつかなかった。
「アイドル活動、頑張ってたみたいだけど……もう辞めることにしたみたい」
何も返せないでいる私の代わりに、美南が自分で言葉を継いだ。
「しょうがないよね、あんなことがあったら。真奈子は口には出さないけど、相当つらいとは思う」
ごめん、と言いかけて私は口をつぐむ。それは「千塚さんサイドの人間」の言葉のような気がした。
「前からライブとかイベントに来てたみたいで、真奈子も覚えてたよ。とくに危ないファンていうわけでもないみたいだったんだけどね。分からないね、人って」
そうだね、と応えたいけれど、私はそもそも千塚さんがどんな人なのか、元から分かってはいなかったのかもしれない。
「大しゅき、だって」
私たちの間で少し続きそうだった沈黙を、美南が不意に破る。
「大しゅき……?」
「真奈子の前で自分をそう名乗ってたらしいよ、あいつ。」
幼児語が気持ち悪いと、彼女は言いたいのだろうか。うまく言葉を返せなかった。美南が真奈子の姉だと知ったショックは大きく、まだその衝撃を受け止められないままだったけれど、それでも彼女の前で、まだ千塚さんのことを非難できない自分には、罪悪感を覚える。
美南が千塚さんを「あいつ」と呼んだことにさえ、私は少しショックを受けていた。彼女が名前も呼びたくないほど疎んじている相手と、私の想う千塚さんを結びつけることができないでいた。私はまだきっと、彼のやったことを受け入れられていない。そのことについて考えるために思考を巡らそうとしても、なぜか自動的にプツリと回路は断たれてしまう。
「気持ち悪いよね。イベントでチェキ撮るときとか、真奈子からそう呼びかけられたいからその名前にしてたわけでしょ」
美南に言われて、そういうことかと合点がいく。好きな人に、好きだと言ってもらえるいちばん手っ取り早い方法かもしれない。私も、千塚さんにそう名乗っていれば良かったな。大しゅき、大好き、愛してる。そして、彼が行動を起こすより早く、彼にきちんと出会っていれば……。
もしもの過去に意識を飛ばしそうになる私を、美南の静かな声が引き留める。
「どんなに好きだからって、相手を傷つけることをするのは間違ってるよね」
伏せられた薄化粧の繊細なまつげは、まばたきのたびに微かに震えていた。そうだよね、と、心から彼女の言葉に同意できたらどんなにいいだろう。私がもし再び千塚さんと出会っていたとして、それでも彼の気持ちをこちらに向けることができなかったら、私は自分がどうなってしまうのか、彼に何をしてしまうのか、それを、あまり想像したくはなかった。
私も少しうつむくようにして、目線を白木造りのテーブルの木目にうつした。
「鈴ちゃんが好きになった相手が、どんな人なのか、どういうことをしたのか、それを知って欲しかったのかもしれない」
ひとりごとのように美南は言い、
「ごめんね」
何も悪くない彼女が謝る。
美南なら、私が今どんな毎日を過ごしているか想像ができるはずだった。お菓子でできたゴミの山については知らなくても、私の考え方や生活がいまだに千塚さんを中心にまわっているであろうことは。そのせいで私の心が不安定に揺れ続けていることだって。だから私に会って、この話をすることを選択したのだろう。
顔を伏せたまま、目を閉じる。それでも浮かぶのは千塚さんの姿。その笑顔。私は一度だって、彼の笑った顔なんて見たことはなかったけれど。嗚呼、見たかった、触れてみたかった。
「まなこに、会えるとしたら、会う?」
不意の問いかけが私の胸をさらにざわつかせた。事件のあとから、一時的に自分の住むマンションに真奈子を住まわせているのだと美南は言った。今は電車に乗せるのも怖いから、どこかに行くときは美南が付き添って、タクシーで移動しているらしい。このあとに真奈子と一緒に出かける予定があると私に伝えたところで、彼女は一旦話をやめた。
「……もちろん、あいつに関する鈴ちゃんのことは話さないし、言わないで欲しいけど」
私の胸の内の逡巡は、言葉にならない声になる。それを汲み取ろうとする美南も、私に話を持ちかけていながら戸惑いを感じているようでもあった。
「こんなこと訊くのは、変かな。鈴ちゃんにとって、どっちのほうがいいのかなって、考えちゃったんだ」
マンションの入り口につながるアーチには、その骨組みに沿うようにしてカフェの窓から見えたのと同じ蔓性の植物が茂っていた。あたりには花の芳香が広がっていた。小さくて可憐なその姿にぴったりの、切なさを覚えるほどに甘い香り。
美南が呼んだタクシーはもう到着していて、私たちは真奈子が外に出てくるのを待っていた。
テイカカズラの這うアーチから、黒と白のギンガムチェックのワンピースを着た天使が飛び出してくる。写真で見るよりもずっと小さい印象の顔、華奢な手足、内側から発光しているような明るい笑顔が、美南を呼んだ。その表情は崩れることなく私にも向けられる。元々の人懐っこい性格もあるのだろうが、姉の友達だと聞いているからか、安心している様子だった。美南はカフェを出る前に電話口で彼女に、一緒にお茶していた友達をついでに隣駅までタクシーに同乗させることの了解をとっていた。
邪気のない笑顔が私には、眩しかった。千塚さんでなくても、この少女になら誰だって特別な物語を期待してしまうだろう。
すぐに降りるからと遠慮をしても真奈子はタクシーの後部座席を私に譲った。
目の前の中学生は、おそらくこちらを気遣って話しかけてくれているのに、私は気の利いた返答もできないでいる。真奈子とはたぶんもう二度と会うことがないのに、この短い時間を繕うことさえできないでいた。口ごもる私の右手の人差し指を、美南がそっと握る。
こんな私のことを見守ってくれる人がすぐ隣にいる私は、きっと恵まれた人間なのだと思う。しあわせ者、という言葉さえ、よぎる。だけれど私にはそういう安らかなやさしさの中に、自分の身を落ち着けることはできなそうだった。
心が求める相手に恋をしているとき以外、私の命はまったく無駄なガラクタだ。何も正しくなくたって、湧き上がる情動に身を任せ矢印のような欲望に従うことでしか生きている実感を得られない。それは、もしかしたら恋ではなくてもいいのかもしれない。だけど、それ以外に、自分の心を動かしてくれるものは私には見当がつかなかった。
私が欲しいものは一体、何なのだろう。ずっと、何かに向かって手を伸ばし続けているような気はしている。まわりから見れば満足に呼吸ができる場所にいるように見えていても、私はいつだって海で溺れる者のようにもがいている。助けて欲しい、そう泣き喚いている。助けて、苦しい、つらい。だけど私はどこがどうつらいのか、どうして苦しいのか、どんな助けを求めているのか、自分でもよく、分からない。脳みそはいつだって叫び声を上げたくてたまらず、脈絡もなく下腹部が切なく疼いて、今すぐにこの場所から走り出したくなるような不快な衝動に襲われていたとしたって。
言葉のつむぎ方も分からないのに、求めているものが何なのか見えてもいないのに、向かいたい場所が思いつかないのに。こんなにも欲しいのに、欲しいものの正体が分からない。
欲しいものに当てはまる何ものかが存在しないことこそが、私にとって最大の不幸だ。
私は早く、再び自分が強く激しい感情に新しく支配されることを望んでいる。欲しいと願えるものが現れることだけが私の中に渦巻く不快感を生きる力に変えてくれる。欲しい、欲しい、私は胸のうちでつぶやきながら、私の指を握る美南の顔をそっと見遣った。目線に気付いてこちらに微かな笑みを向けた彼女に応えるように、私も軽く唇の端を上げる。久しぶりに顔面の筋肉運動を行ったせいで、不随意筋がヒクついた。
しあわせストーカー日記 塚本オルガ @tsukamotoolga
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