第二話 秋の窓辺にて君想ふ
鷹は穂摘まじ
大霊災の混乱の中で命を落とし、残された者たちへの弔問を終え、〈
そこに、神鷹の
今、彼女は深山家の代表として、朝霞邸ではなく花霞邸に滞在している。それが今日、朝霞の人間となったことで帰る家ができたことを、神鷹は足取り軽く報せに行く予定だった。
「杏李、僕だ。入ってもいいかい?」
午後五時、すっかり暗くなり明かりを灯した廊下を進み、彼女が居る部屋の扉を控えめに叩く。
しかし、返事がない。
「……? 杏李?」
もう一度呼びかけてみるが、部屋の中からはなんの答えもない。しばらく悩んだのち、神鷹は意を決して、そっと扉を開けた。
部屋の中は薄暗い。暗闇に目が慣れるまで待って、音を立てずに入室する。
神鷹はそばまで近づくと、その顔を覗き込む。表情は決して穏やかとは言えない。
「杏李。起きなさい」
ややあって、薄く目が開かれる。ほのかな明かりの中、ゆっくりと焦点が合い、その瞳が瞬いた。
「あ、さか……さま……?」
「そう。僕だよ、杏李」
そばにいるのが神鷹だと分かると、杏李はほっと安堵の表情を見せ、そして、慌てて身を起こした。
「も、申し訳ありません! いらっしゃることは分かっていましたのに、ついうとうとして……」
「こちらこそ、勝手に入ってしまってごめんね。疲れているのかな。体が休息を求める時に、しっかり休むのは良いことだよ」
肩をやんわりと押して、神鷹はふたたび杏李を寝かせた。杏李はその白い肌を耳まで紅潮させている。はて熱でもあるのかと額に手を当てれば、
「あっ、朝霞様! 私は元気です、元気ですから」
「そう……? 魘されていたから、怖い夢でも見たのかと」
特に熱はないようだ。額から手を離し、杏李の手を両手で包む。指先は冷たく、乾いていた。
「君を朝霞家に迎え入れる準備が整ったんだ。随分長い間ひとりにさせてしまったね、杏李。でも今日からは、一緒だ」
❉ ❈ ❉
神鷹が深山杏李の境遇を知ることになったのは、大霊災の混乱がひとまず落ち着き始めた頃だった。かつて深山家に仕えていた侍女からもたらされたその事実は、神鷹に衝撃を与えた。
婚約者である七香に双子の妹がいるということは、随分前から知っていた。依花が天皇として即位した慶祝会の日に、二人は出会っていたのだから。
しかし、それから神鷹は杏李と再会することはなかった。
気にかかってはいたが、杏李の父曰く、杏李は病弱で離れから出ることができていないとのことだった。見舞いの申し出は丁重に断られ続け、さすがに実父からしつこくするなとの叱責を受けては食い下がることもできず、月日は流れた。
七香と出逢い、彼女を婚約者として迎えた時に、一度だけ杏李のことを尋ねたことがある。七香でさえほとんど杏李と顔を合わせたことがないという言葉に、神鷹は違和感を覚えるべきだったのだ。だが、その時の神鷹はそれを大事に扱わなかった。
杏李は、血の繋がった父親から虐げられていた。霊力を持たずして生まれたというただ一点によって、杏李の価値はそのように定められたのだ。
薄暗い離れに閉じ込められ、外の世界を知らずに、花は蕾のまま枯れ朽ちるのを待つばかり。七香の身に何かあれば形だけでも代役を務められるようにと育てられ、その生は最初から杏李自身のものではなかった。
そんなことが、なぜ許されるのか。
絶句する神鷹に、侍女は告げる。
——ただ、不運だったのです。
不運。便利な言葉だ、と神鷹は思った。そう、人は生まれを選べない。だが杏李の生は押し付けられたものだ。
彼女から当たり前の幸せを奪ったのは、誰だ。
思いつく限りの名前の中に、神鷹は自分の名もそこに加えた。気づけなかった、気づかなかった、おかしいと思いながらも目の前の幸せを享受することに甘んじた、あまりにも愚かな選択を悔い、記憶に刻み込むために。
罪滅ぼし、などと身勝手なことを言うつもりはない。優しい彼女は、そう言えば神鷹の側を離れていってしまうだろう。神鷹の心を煩わせることがないようにと、そんな悲しい理由で。
そんなことは認められない。深山杏李は幸せにならなければならない。これまで奪われ続けてきた凡てを取り戻さねばならない。時間は有限で、遡ることができないのなら、これまでの分と、これからの分を、余すことなく享受できるようにならねばならない。
そしてそれを遂行するためには、神鷹がすべてを知っているということは、気づかれてはならないのだ。
❉ ❈ ❉
「養女、ですか?」
きょとんと目を瞬く杏李に、神鷹は微笑んで頷いてみせる。
「つまり、僕と君は
この手続きには骨が折れた。何しろ、養父となる神鷹の父・
『すまない、昨年提出した書類が未だ受理されていないと聞いたのだけれど』
金は積んでいない。書類自体は昨年に提出されたものだ。何の問題もない。
とはいえこのような苦労をわざわざしない選択肢ももちろんあった。杏李を家族として迎えることが目的なら、彼女を妻とするという手もあっただろう。
だが、神鷹は七香を愛しているし、杏李に『姉の代わり』という意識を植え付けかねない。それでは本末転倒である。神鷹は杏李に、自分自身のために生きて欲しいのだから。
杏李に与えられるべきは、「愛情と安息」だ。それは、まずもって「絶対の庇護」である。愛しい相手を見つけるのは、家族と呼べる存在に愛されてからだ。
「
「い、いやでは……ありません、が。どうして急に?」
杏李は当然ながら驚いているようだった。急になぜ、と問われて、今度は神鷹が首をかしげる。
「だって、僕と杏李はもとより義兄妹じゃないか。それが、ちょっと違った形になっただけだよ」
「ちょっと、とは……」
「僕は杏李のお兄さんになりたい」
訝しむ杏李に、正直な気持ちを伝える。杏李は顔を赤らめたまま、視線を泳がせていた。それが、たまらなく愛おしい。
思い出すのは、六年前のあの日だ。すぐ顔が赤くなるところは変わらず成長したらしい。
(ああ、そういえば)
『私を、朝霞様の——』
(君はあの時、なんて言おうとしたの)
秋の窓辺にて君想ふ/鷹は穂摘まじ
〈禱れや謡え、花守よ〉杏花繚乱異聞録 こけもしん @a9744c
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