第3話 寸話


 幸い、出口に辿り着くまで誰にも会わなかった。

 外に繋がる扉が見えるとルシールの足は自然とゆっくりになった。

『いやな人、こわい人』

「………………」

『わたし、いやだわ、帰りたい』

 姿を消した『鎌』が何度も何度もそう呟くのをルシールは聞き流し続けた。

 わずらわしいと思わないわけではなかった。

 一言、否定すればこれは黙る。それは知っている。

 それでも、彼女は声を否定せずにきつく唇を結んで建物の外に続く扉に手を掛けた。

 今まで居た屋敷と比べれば粗末な木の扉は、彼女の知る重厚なそれより軽く抵抗なく開いた。

 トト、とよろめいて踏み出した外の世界でまず視界に跳びこんで来たのは緑。陽の光の差し方が違うせいか、彼女のよく見ていた庭より濃く暗く感じられた。ぴちぴちと煩い小鳥の声、何者かが蠢く生き物の気配。どこからか細い子供のはしゃぎ声が聞こえる。

 整然としたあの屋敷の奥間より、ずっと賑やかなはずだけれど、なぜか身体の中心にぽっかりと穴の開いたような気がした。

 ──────今までも独りだったけれど、ほんとうに一人になってしまった────。

 ふいに吹き付けたそよ風がその穴をくぐって抜けてゆく。

「ひとりぼっち…………」

 無意識に零れた呟きに我に返ったルシールはぎょっとして、そして、徐々に足を早めてやがて駆け出した。

 胸がなぜかとても痛かったのに、その痛みを収める術をわからなかった。


 物心ついた時からルシールは陰鬱な屋敷の奥の間で暮らしていた。

 令嬢らしく、身の回りの世話をしてくれる人はいたし、生活に苦労したことはない。ただ、ちょくちょく顔ぶれの変わる教師とメイドたちは親しくなる間もなく入れ替わってしまって、両親と兄弟は週に数度、お茶の時間に顔を合わせるだけだった。

 初めからそうであったから、それが令嬢の生活なのだと思っていた。

 けれども、どこかびくびくとした家族や使用人たちの態度に、ルシールが苛立ちを覚えてしまうのもしょっちゅうで。

 奥の間と内庭が彼女の世界のすべてだった。

 教師たちは大した箱入り娘だと、親しみを込めて彼女に軽口を叩くものもいた。そんな教師には少し温かな気持ちを抱いた彼女だが、もちろん、そういった教師も授業内容がひとつ上がるたびに入れ替わった。

 そうなのだと思ったし、そういうものなのだと思った。

 教養を身に付けたらしずしずと箱から出て、大人たちのように社交界で令嬢らしく節度と義務を守って生きてゆく────なんて、そんな日は来なかったけれど。

 圧迫感に気付いて顔をあげると、暗い紺色が視界を覆っていた。

「ここに居ましたか」

 低い男の声にルシールはびくりと肩を揺らしてしまう。

「…………」

 神服を辿れば汗ひとつかいていない穏やかな神父の顔が乗っていて、フードのように被っていた毛布を摘まむとそれを忌々しい思いで睨む。

 雑多な道具を仕舞う納屋の中は薄暗くなっていた。

 置かれた樽の裏、粗末ながらもきちんと仕舞ってあった古い毛布を幾枚か拝借したルシールはそこで途方に暮れていた。

 外に飛び出したものの、教会から伸びる道は馬車一台が通れるほどに下草を刈っただけの、でこぼことした悪路しかないのを見て絶句した。しかも、この道を通って来た彼女には延々と伸びるこれが町や村などを通らないと知っている。だからといって、木々に隠されるようなこの教会から道から外れて歩いて行くあてなどもちろん無かったのだ。

 ────…………飛び出して、納屋に隠れるなんて。幼い子供のよう。

 みじめな気分を押し殺し、唇を引き結んでできるだけ凛として、現れた神父を見上げる。

 穏やかだけれども相変わらず感情に乏しい表情を浮かべた神父はその場に静かに足を折って目線を彼女に合わせると、さらに頭を下げた。

「失礼があったようですね。申し訳ありません」

「…………」

「カイから聞きました。アゲートが貴方をからかったようだと」

「からかった────」

 カッと熱が頭にのぼる。

「私を…………私を!」

 どうあってもその先が続かない。

 悔しくて、みじめで、つらくて。

 ここにいたくなくて。

 けれども、どこにも行くところも無くて。

「私────!」

 とん、と静かな接触があった。

「…………」

 あまりに自然で身体を跳ねさせる間もなく、ケラソス神父は大きな掌で優しく背中を優しくノックする。

「ごめんな」

 今までの、客人もしくは貴人に対して最低限の礼儀はそこに無かった。

 抱きしめるでもなく、それでも、等間隔にリズムを刻む掌からは不安がる子供をあやすような慈しみと、よこしまな感情を排除した温かみと優しさがあった。

 ルシールの滑らかな頬を、指の先ほどのガラス玉のような涙の塊が次から次へと押し出されるように滑り落ちて古い毛布を濡らしていた。

 噛んで結んだ唇はより一層つよく引き結ばれて、じわりと朱く紅を差した。



 ついつい窓の外へ目を向けていたカイは、ばら色の夕陽の中、ケラソスと共に塔へと歩いて行くルシールの後姿を見つけてほっと溜息をついた。

「十ずつ書いたよ! もう行っていい?」

 拙い字が綴られた黒板を見せるコラル。カイは屈むと少女に顔を寄せて微笑んだ。

「上手になったな。うん、今日の勉強はここまででいい。

 …………でも、もし、ルーシィの所へ行く気なら、今、ケラソス神父が塔の部屋へ案内していたみたいだから後にしよう。ルーシィも長旅で疲れているだろうし夕飯まで少し休ませてあげよう」

「えー! わたしがルーシィの案内を言い付かったのに」

 口を尖らせるコラルは、もちろん、ルシールが教会を飛び出した一連の騒動について知らない。ただ、身だしなみを整えた彼女が今までケラソス神父の下で諸々の説明を受けていたのだと思っている。

「朝の学修をさぼったのが悪い。でも────そうだな。夕飯を呼びに行くのはコラルに任せる」

「うん! やった!」

 無邪気に喜ぶコラルに彼は少し困ったような顔で尋ねた。

「コラルはルーシィがずいぶん気に入ったみたいだな」

「うん! だって、ルーシィの話し方はとっても聞きやすいんだもの!」

 予想外の返答に苦笑するカイ。

「あれは…………そうか。うーん、まあ、ルーシィも来たばかりでわからないことだらけだと思うから、コラルが優しくしてくれるなら僕も安心だ。たぶん、彼女は今までとまったく違う場所に来たからわからないことが多過ぎて、わからないことも多いと思うけど────これからもコラルにルーシィのことを任せても大丈夫かな?」

「もちろん、知らなくてわからないことはしかたないもの! まかせて!!」

 どーん! と力強く胸を叩いたコラルに目元を緩ませたカイだったが、その視線が少女の持つ黒板の上で止まった。

「コラル、これ、反対だね。一行、全部」

「…………!! つぎから気をつけるね────っ!?」

 部屋から飛び出そうとした少女は一足遅く、その小さな肩はしっかりと捕らえられた。

「変に覚えているようだから、同じ単語を二行しっかり。終わったらおしまいでいいからね」

「え、えぇえー…………」

「大丈夫。夕飯までには時間があるから」

 生真面目な修道士はにこりと微笑んだ。

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