第2話 湖底の教会


 

 埃だらけのぼろぼろの令嬢と周りに倒れた男たちを見て、駆け付けたケラソスたちは息を飲んだ。

「…………遅くなってすまない、ルーシィ。怪我はないか?」

 なぜか謝る神父を煩わしく思いながら、ルシールは伸ばした背筋に力を込めた。

 ────胸を張りなさい。

 心の声がそう告げる。

「なぜ、謝るのかしら。この方たちは私を狙ったのでしょう。貴方たちは関係ないのではなくて?」

「いいや、きみは…………ああ、だが、きみのお陰で私たちも助かった。感謝するよ」

「それは因果が逆転しているわ。おかしな話」

「そうではないよ。私たちは危険に遭った、きみがそれを助けた。それがすべてだ。

 ────ありがとう」

 ルシールはおぞましいものを見るような眼差しを神父に向けた。

 今まで『その言葉』を向けられた覚えが無かったからだ。彼女にとってそれは────例えば、使用人が仕事をこなしたときに向ける言葉だ。

「…………そう。そんなことより、この汚らしい格好に我慢ができないの。早くなんとかして」

 神父に興味を無くしたそぶりで彼女は大仰に埃だらけのワンピースを嫌々つまんで見せた。

「教会まであと少しだから、着いたらすぐに休めるようにしよう」

 どこか寂しそうに、または困ったようにも見える微笑を浮かべる神父。

 その後ろからのんびりとした声がした。

「や、お嬢さんが強くて助かった。こいつらふん縛って警吏を呼びましょうや」

 銃を下げたまま歩いてくるのは見覚えのない背の高い男だった。だが、すぐに聞き覚えのある訛りからそれがあの無礼な御者の男だと気付く。

「私の言ってることが聞こえなかったの? こんな者たち放っておきなさい。それより────」

「でもなあ、お嬢さん。馬車から降りる時は一言かけなきゃ駄目ですぜ。それが運転手に対する礼儀ってもんだ」

「…………貴方、耳がおかしいの? 私が言ってること聞こえてるのかしら?」

 柳眉を逆立てたルシールの言葉を流して御者の男は足を止めた。そして、神父の後ろで帽子を団扇代わりに雑に仰ぎだす。にやにやと笑うその顔は話していた印象よりもずっと若く、汗で額にはりついた鶯色の髪とけしむらさきの瞳が印象に残った。

「…………怪我は、ありませんか」

 最後にしかめっ面の神服の青年が口を開いた。乾いた空気のせいか走って来たせいか、その声はひび割れている。

 その存在をすっかり忘れていたルシールはぎょっとしたが、すぐに彼が子供二人を抱えて走っていたあの青年だと気付く。確か────カイと呼ばれていた。

「貴方…………」

 脳裏に彼の名を呼んだ神父の怒鳴り声が響いて自然に眉間に皺が寄る。

「…………私、擦り傷があるの。あとで侍女を寄越して」

「侍女はいません。でも、教会に着いたら誰か女性を向かわせます」

 淡々とした彼の回答は彼女の行く先が未だ変わらぬことを示していて、ルシールは内心ため息を吐いた。

「下男はいるけどよ。お嬢さん、俺でよければ手伝いますぜ」

「アゲート」

「はい、俺は黙りますよ。神父様」

 御者の男は軽く肩を竦めて倒れた男たちを縛り上げる作業に戻った。

 それから、神父たちは悪漢を木の根元に縛りつけた。警吏にはすでに逃げた子供たちが通報しに向かっているのだという。

 馬車へと押し込められたルシールはつまらなそうに視界の端でそれを眺めて待った。荒れた馬車とぴんと背筋を伸ばした埃だらけの令嬢の姿は酷くアンバランスだった。

 大方片付くと、カイと呼ばれた青年一人を残して馬車はぎこちなく走り始める。

 残りの行程はルシールにとって不満だらけだった。

 自分に気遣うこともなく本をめくる神父と我関せずの御者と共にぼろぼろの馬車で悪路を進むのだ。より一層車内の不快な空気が増した気がして、ルシールは握り合わせた手の裏に爪を立て募る苛立ちを紛らわした。

 …………幸いだったのは、馬車のスピードが落ちたことと、そこから教会までの道のりがそう遠くなかったことだ。


 林がやがて森に変わり、壊れた窓から流れ込む空気がひんやりと澄んだことに気付いた頃、ルシールは目の前の教会に気付いた。

 ────あれが。

 森の一部を拓いたそこは下界から孤立した空間だった。

 中央に子供たちが遊ぶ小さな広場と二階建ての小さな教会。

 そのやや後ろ、向かって右に背の高い塔が、左に平屋の大きな長い家屋、さらに後ろには馬小屋や畑があるようだった。

 三つとも青い屋根と白からクリーム色の石材を使った煉瓦造りの建物で、見た者に素朴で温かな印象を与える。

「『湖底の教会』へようこそ、ルーシィ」

 先に馬車を降りた神父が、建物を指し示す。

「まず、着替えよう。左の建物の奥に────コラル!」

 神父に呼ばれて、広場で遊んでいた一人が駆けて来た。薄い桃色がかった赤毛の十歳くらいの少女だ。

「お帰りなさい、神父様。あれ? カイは?? キートとルカンに引っ張られてお迎えに行ったのよ」

「カイたちには会ったよ。彼らにはついでにお使いをお願いしたんだ。

 途中で馬車の車輪が外れて転倒してね、ルーシィが放り出されてしまったんだ。かわいそうだから一刻も早くお風呂に連れて行ってくれないかな?」

「ルーシィが? それはかわいそう。いいわ、着替えはお部屋から取って来ればいいのね」

「ああ、ありがとう。コラルは頼りになるね」

 コラルは最早硝子の欠片も残らない馬車の窓に取りつくと中のルシールへにこっと笑いかけた。

「ルーシィ、大変だったね! お風呂、デルフたちが入ったばかりだからすぐ入れるよ! 付いてきて!」

 言うが否や、コラルはルシールへ背を向けて駆け出した。

「………………」

「お? 気が利かなくてすんません。おててを掴んで引っ張って欲しいんですかね?」

 馬車の戸を掴んだまま唖然と立ち尽くすルシールへ御者のアゲートがにやついた顔を向ける。それをギロリと睨んで彼女は慎重に階段を降りて、平屋の入り口で待っているコラルの後を追った。

「まあ、ゆっくりあったまってくださいよ。お嬢…………ルーシィさん」

 注意するような神父と御者のやり取りを聞きながら、ルシールは内心混乱していた。

「こっちだよ、ルーシィ! 早くしないとお湯が冷めちゃう!」

 早足で近づいて来た彼女の手をコラルは迷いなく掴んだ。

「! ちょっと────」

「こっち、こっち!」

「あっ!」

 そもそもルシールが履くのは無惨にヒールが折れた靴の残骸だ。引っ張られた弾みにバランスを崩して足がもつれた。

 とん、と温かなものが彼女を抱きしめた。

「ごめんなさい! 靴も酷いことになっていたんだね」

 それは、小柄なルシールよりさらに一回り程小さなコラルの身体だった。

「わたし、そそっかしいってよく言われるの。ゆっくり行こう。お湯は足せばいいから」

「…………」

 優しく握り直して、コラルの手がルシールの指先を包む。

「向こうのドア。お風呂場は木で出来てるんだ! ────どうしたの?」

 繋いだ手をくいっと引かれて、コラルが振り返った。

「貴女は」

「ルーシィ?」

「そう、それよ! 貴女はなぜ私をそう呼ぶの!? 私の事を知っているの?」

 まん丸に目を見開いたコラルは、すぐにくしゃっと笑った。

「ルーシィの声、聞きやすくて好き! 仲良くなれそう」

「す、す────は!?」

 ひるんだルーシィの腕をコラルが優しく引くと、止まった足が自然と動き出す。

「自己紹介もまだだった! わたしはコラルだよ!

 ルーシィのことはケラソス神父様からずっと聞いているよ。呼び方は、神父様がそう呼んだから」

「前から…………? いいえ、そうではなくて。私はルシール。貴女たちはそうお呼びになって」

「でも、ここでは神父様がそう呼ぶからルーシィはルーシィだよ」

「もう! ここの人たちは私の言葉が聞こえないの!? 私がそう呼ばれたくないのです!」

「…………あ、ごめん」

 いつの間にか目的地に着いていた。

 風呂場に続くドアを開けて、コラルは曇りかけた顔にもう一度明るい表情を浮かべる。

「うん、わかった! 。だから、神父様は『ルーシィ』って呼ぶんだね。

 でも、ごめんね。ここではケラソス神父様がそう決めたから、ルーシィは『ルーシィ』なんだ。

「────名を変えることが、ルールなの?」

「?」

 聞こえたはずの呟きに目の前のコラルは答えなかった。

「────なんて勝手な! 教会は、どこもそうなの……きゃっ」

 沈黙で返されて怒るルシールの背中をコラルはけろっとした顔で脱衣場へ押す。

「えっ、あー、どこも…………っていうか、少し違うけど、だいたい似たようなものかな?

 でも、わたしは三つ教会を回ったけど、ここが一番合っていたよ!」

「三つですって?」

 ルシールは暗鬱な気持ちになった。この教会が合わないと訴えても、帰るどころか他の場所へ移されるだけなのだ。

 しかし、そんな彼女とは反対にコラルは嬉しそうにルシールの言葉を繰り返す。

「そう、三つ! 私ルーシィが好きだからここで一緒に暮らしたいな! だって、この森って温水が出るんだよ。温かいお風呂がいつでも入れるのってここだけだよ。最高だと思う!」

 実家ではいつでも温かなお湯を用意してもらっていたルシールは無邪気なその言葉に衝撃を受けた。

 ────お湯が貴重?

 もし、他の教会へ移った場合、震えながら水で身体を拭くこともあるのだろうか。

「靴は駄目だね。ワンピースは直せそうだったら直すけど、無理だったら処分するね」

 青ざめて呆然と立ち尽くしていたルシールは下着姿の自分に気付いて悲鳴を上げた。

「い、いつの間に!」

 青ざめた顔を真っ赤に染める。

「びっくりしてどうしたの? ルーシィって面白いね」

 普段から侍女に身だしなみの世話は任せていたので、コラルが手早く彼女のワンピースを脱がしたことに一瞬気付かなかったのだ。

「あ、ルーシィはお嬢様なんだよね。慣れるまでは一人で入っていいだろうけど、慣れたら皆で一緒に入浴しようね! じゃあ、靴と着替え取って来る!」

 バタン、とドアが閉じると、ルーシィはその場にへたり込んだ。

「…………いっしょに、ですって」

 赤くなった顔が再び青ざめて両腕に鳥肌が立ったのは脱衣場の肌寒さのせいだけではない。


 入浴は、ルシールにとって大切な時間だった。

 髪を侍女たちに洗わせた後、ゆっくりと一人で浸かる湯が数少ない彼女の『好き』な時間であった。

 なので────教会の浴場にでんと置かれた巨大な桶を見た時は卒倒しそうになった。考えてみれば当然のことで、こんな教会に猫足の滑らかな肌触りのバスタブなどあるはずがないのだ。

 震える手で手桶で湯を汲み、恐る恐る石鹸を掴む。

 家族以外が使った風呂など入ったことの無いルシールにとって、決して大袈裟ではなく嫌悪と恐怖が交互に襲ってくるひとときだったが、それでも、それ以上に汗と埃にまみれた身体への嫌悪感の方が勝った。

「こ、これを使うの…………?」

 着替えを取りに行く前にコラルが置いていってくれた桃の木の櫛で髪を梳いて埃を落とすと、自らの指で不器用に頭を洗う。

「ひっ、痛い!」

 涙目で絡まった髪をほぐす。

 そんな調子ですべてを終えてようやく湯船だ。神妙な顔で恐る恐る桶に足をつけた。

「ぬるい…………」

 早くしないと冷めるから、としきりに急かしていたコラルを思い出し、これ以上冷えてはたまらないと覚悟を決め、誰かが使ったものであると承知の上で一気にざぶんと湯船に浸かった。

 熱くなくても、身体を包む湯はこわばった身体と心を解きほぐした。

「ぬるい…………」

 小さく息を吐くと、恐ろしさとみじめさでほろほろと涙が零れ落ちて来た。

 ────私、何をしているのかしら。

 ばれぬように、肩を震わせてしゃくりあげる。

 これから、ずっとこれが続くのだ。

 それは非常に辛く屈辱的なことだと、彼女には思えた。

 ────どうして、なぜ…………わたくしは、

 一通り泣いたあと、すっかりひえてしまった湯の冷たさに我に返ったルシールは慌てて風呂桶から出た。

 ────風邪を引いてしまう。

 脱衣場の入り口にコラルが持って来たらしい継ぎ足し用の湯の入った水差しがあることに気付いたが改めて入り直す気にもなれず、その隣に置かれた清潔な水で顔を洗い、脱衣場に置かれた籠の中のごわついた布で髪と身体の水分を拭き取った。

 それから、籠の奥に畳まれた服を掴み────絶句する。

「…………これは」

 夜のしじまを思わせる深い紺色。

 神父たちの纏うそれに似たワンピースが一枚仕舞われていた。


「ずいぶん、のんびりとしてたみたいで」

 脱衣場のドアを開けると、もう何度も聞いた訛り声が聞こえた。

「男性が────いえ、何故ここに居るのかしら」

 思わずびくりと肩を震わせた自分を内心強く叱りつけて、ルシールはアゲートを睨む。

 脱衣場のドアの前の樽に腰掛けていた彼は、編んでいた何かを樽において軽やかに立ち上がった。

「よっと。いや、お嬢…………ルーシィがどこにいるのか気になって」

「ここにいますわ。では、さようなら」

 去ろうとした彼女の手首が強く掴まれた。

「何を!」

 咄嗟に振り払い、抱えていた櫛を投げるとそれはアゲートの顔にぴしゃりと当たった。

「いってえ…………」

「女性に、みだりに触れたそちらが悪いのです!」

 その場を離れようと身を翻したルシールの身体が突然壁に押し付けられた。

 痛みと驚きで小さな悲鳴が漏れた。

「…………冷たい」

 くるりと後ろ手に捻り上げられて、壁に背を押し付けられたルシールの手首、そして腕、首とがさついた男の手の甲が触った。

「ひっ!」

「ずいぶん、冷え切ってるじゃねえですか」

 見下ろす、けしむらさきの瞳が楽しそう光っている。

 ──────こわい。

「煩い!」

 短い叫びと共にアゲートの身体が弾き飛ばされた。

 淡い光が弾けて、長大な鎌が二人の間に現れたのだ。

 そして、向かいの壁に叩き付けられてうめく男を後目にルシールは奔ってその場を後にした。

「────阿呆か」

 足音が遠ざかるとどこに居たのか、入れ違いに神服の青年が現れてこれみよがしにため息をついた。

「お、覗きか?」

「さっき帰って来たから畑の様子を見てたんだよ。キートとルカンたちを追いかけたせいで途中になってしまったから」

 青年、カイの差し出した腕を掴んで立ち上がったアゲートは服を捲って殴りつけられた腹を調べる。

「畑はデルフたちがちゃんとやったみたいだぜ。────跡、無いなぁ」

「そう言えば、鎌で殴られたならず者たちにもそういった傷跡は見られなかったな。たまたまかもしれないが」

「レイアウトの力かもしれねえが、こりゃ、証拠能力は無さそうだな」

「なんのだよ」

「あっちは終わったのか」

「…………警吏に引き渡して来た。後で神父から話があるだろう。それより、なんのつもりだ」

 服を整えながら、アゲートは悪びれなくカイを見る。

「かわいそうだろ、あの子。難アリの性格で新しい生活。あれじゃあ、どんないい所でも苦労する。

 そこでだ。恋のひとつでもすりゃあ、あっという間に毎日バラ色! 向こうもしおらしく言う事聞くようになってあっちもこっちも万々歳かなあってさあ」

 阿呆か、とカイは再び呟いて額を押さえた。

 もし、ここに道理のわかる人間か女性の神官がいればこのやり取りに激怒しただろうが残念なことにここにはケラソス神父と下男のアゲート、そして、カイを含めた『神使』と呼ばれる庇護された子供たちしかいなかった。彼らは例え良識があっても、アゲートに怒り怒鳴るようなことはしない。

「いや、ほんとだって。真面目なカイ坊にはまだわかんねえかもしれねえけど、色恋中は大抵の事がだいぶ楽に乗り越えられんだって。こうでもしなきゃ、あの嬢…………ルーシィさん、これからも毎日風呂で泣くようだぜ」

「…………例えそうでも、この状況で見知らぬ下男に乱暴にされても恐怖と嫌悪を抱くだけだ。お前がいつも遊んでいる相手とは違う」

「そうかなあ。俺、結構顔はいいんだぜ? お嬢さんもこの田舎にゃ早々いない美人だしさ」

「そういう問題じゃない。無責任なことをするな」

 無責任、との言葉にアゲートは目を丸くした。

「まったく。ぜんぜん無責任なんかじゃないぜ。

「どこから、そんな自信が…………。そういうのが、無責任だって言うんだぞ。とにかく、あの娘の扱いが面倒になるかもしれないから、今の事、私からケラソスに伝えておくからな」

「おう、ついでに風呂場で泣いてたことも伝えとけよ」

 下男を務める友人の悪びれない様子に頭痛を覚えたカイはこめかみをごりごりと推す。そして、畑へ続くのドアをきちんと締め直し、ルシールが消えた方角へ足を運んだ。

 一方、にやけた顔でそれを見送ったアゲートは。

「俺ほどの適役はいないと思うんだけどねえ。まあ、神父さんがその役をやるってえならとめないけどもよ。『あれ』はいわゆるオプションみたいなもんだしさ」

 小さく伸びをして、樽の上に放置した編みかけの革紐を取り上げてポケットに捻じ込んで独りごちた。

「『鎌』も、あんなんじゃまだ実戦向きじゃねぇなあ」




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