第1話 ペトリコール
それは、陽射しあたたかな心地よい日。
吹き付ける風はわずかに涼しく、大気に満ちる空気は寒くも暑くもなく。若草の匂いと太陽の陽射しを充分にふくんだ空気は吸い込むと舌の上で微かな重みすら感じるような気がした。
土のにおい、若々しいみどりの草のにおい。
そんな中を一台の馬車が土埃を上げながら走っていた。
「あぁ、しばらく揺れますが我慢してください。できれば、車内で静かに大人しくちんまりと座って頂ければ。暴漢を警戒してのことですので、お嬢さんもなにとぞよろしく」
車輪が地面を叩く騒がしい音をぬって壁の向こうから聞こえた訛りのある声。
洗練さの欠片も感じられない御者の案内に、クッションの角を乱暴に掴んだルシールは険のある声で叫び返す。
「静か? 静かですって?? 車自体がこんなに騒がしいのに!? 嫌よ、もう一刻たりともこんな馬車に乗っていられるもんですか! 降ります。今すぐ止めなさい!!」
御者席で目深に被った帽子がちらりとこちらに向いたので彼女の返答は届いたのだろう。しかし、御者台の主はその要望に応える気はないようで馬車はさらに速度を増した。
「止まりなさいと言ったでしょう!?
顔を歪めたルシールは精一杯御者台に詰め寄ったが、客室と御者席は壁で遮られている。唯一、意思疎通のために開けられている格子の付いた小窓からはそっぽを向いた男の背中しか見えない。
「…………っ」
────なんたる侮辱! …………大人しくなんてするもんですか!
せめてもの抵抗とばかりに立ち上がって車窓の桟を掴んだ。
背の高い馬車は車内で彼女が立ってもまだ余裕がある。その車体に合せた大きな窓硝子には金糸銀糸で編んだ紋様が細かく挟み込まれていて、外からも中からもできるだけ視線を通さないように気遣ってある。陽射しを少し遮る代わりに私的な空間を作り出しているのだが、それが彼女には嫌だった。そう、一人ならまだしも…………。
カーテンを留めて、揺れる車の中で必死に桟に捕まりながら窓を押し上げるべく手に力を入れる。そうやって窓に近づいたお陰で紋様の合間から外がよく見えた。
「──……あ」
…………ひらひら、ふわふわ。
か弱く揺れるそれ。
足を早める馬車へ白く小さな蝶が無防備に近づいて来るのが目に入った。
それは、荒々しく車輪を回すこれと比べてなんと繊細で脆弱なことか。
激突して砕けるそれを想像して、彼女は思わず息を飲む。
「やっ、止まりなさ────」
だが、彼女の心配をよそに、馬車のまとった風に押されたのかそれとも己の力なのか、蝶はふわりと舞い上がり、難なく車を避けた。
「…………」
ほっと小さく息を吐き、思わず握り締めてしまった手のひらから力を抜くルシール。
蝶はそのままするすると空へとのぼり、またゆっくりと降りていく。
「すまない、ルーシィ。だいぶ乗り心地が悪いだろう。でも、もうすぐ着くから我慢して欲しい。窓はそのままで構わないから」
拳ふたつぶんほど開いた窓に目を落としてから振り返る。
古びた鞄の上で本の頁を繰っていた男と目が合った。
灰色の瞳はとても穏やかに見えた。
眠そうな瞼、表情の乏しい日に焼けた面。月の無い夜のしじまを連想させる皺の無い濃紺の神服を身に着けて、家族しか呼ばなかった愛称で彼女を呼ぶ男。彼は彼女を避けて腕を伸ばし遠くに見え始めた林を指す。
男の名はケラソス。この馬車が向かう小さな教会の神父であり、今は彼女の身元引受人だ。齢は三十半ばを過ぎた頃だが、小さな教会の神父としてはそれほど珍しくもない。
「…………そうですか。では、自由にさせて頂きますわ。神父様!」
彼女は息苦しさの原因の一つである彼に背を向けて窓に近寄ると、今度は手の届く限りそれを押し上げた。戸の半分以上が広々とした景色へと変わると車内の隅々にまで陽光が差し込んだ。
「ずっと、空気を入れ替えたかったんですの。だいぶ、空気が悪かったので」
大きく開いた窓は勢い良く飛び出せば、小柄な彼女なら簡単にこぼれ落ちそうだ。
騒がしい車輪の音と共に強めの風が吹き込んだ。それは彼女の頬を叩き髪を乱し、神父が開いていた本の頁を乱暴にめくった。
────いい気味です!
視界の端で慌てて本を抑える神父を捕らえて、彼女は内心ほくそ笑んだ。
清々しい空気。そして、車内には沈黙が戻る。
神父が本を鞄に仕舞っているであろう、ごそごそとした気配を感じながら、ルシールはさらに外にへと目を向けた。叩き付けるような風に瞳が渇いて涙目になるが、それでも、清廉な空気は気持ちよかった。
────そのまま身を乗り出して、後ろを振り返く。短い神父との会話のうちに、さきほどの蝶はもうどこにも見えなくなっていた。
「………………」
彼女たちが通り過ぎた空はこれから行く青空とは逆に曇天へと変わっていた。
雨が降るのかもしれない。いや、もうすでに降っているのかも。
そいうえば、微かにペトリコールの匂いがする。
────あたたかな陽は終わるのでしょう。きっと。
これから訪れる旅の終わりと新しい生活の始まりに重ねて思い、彼女は密かに奥歯を噛みしめる。激しい風で乱れた髪が頬を撫ぜチクチクと刺して、乾いた瞳が生理的な涙を押し出した。
駆ける馬車で窓にしがみついて風に顔を晒すのは思った以上に居心地が悪く、髪もはしたなく乱れたけれどもルシールは頑としてそこから動くつもりは無かった。
けれど、御者からも、そして神父からも咎める声はかからなかった。
────どうだっていいのね。いいわ、だって、あの陰気臭い車内に引っ込むよりはこちらの方がだいぶ良いもの。
苦手なものは多いけれど、昔から乗り物にだけは酔わないのだ。
しばらくすると、ごうごうという風の音に混じって声が聞こえた気がした。
「…………神父さまあ!」
繰り返される間の抜けた舌っ足らずの声。
────神父?
反射的に声の主を探せば、道のだいぶ先、林の途切れたところで懸命に手を振るふたりの子供と神服を身に着けた青年の姿が見えた。
「…………あの子供たちは貴方の知り合いではなくって?」
その途端、ルシールを押しのけてケラソスが窓へと飛びついた。
「ちょっと!」
小さく悲鳴を上げてよろめいたルシールは、彼を睨みつけて抗議しようとし────、耳をつんざく怒声に身をすくませた。
「何故ここに居る! 教会に居ろと言ったろう!!」
自ら発することは数あれど他人の怒声などほとんど聞いたことのないルシールは身をすくませた。
しかも、よく通る声でそう叫んだのは先程までだんまりを決め込んでいたケラソス神父なのだ。
────何なの……!
しかし、荒っぽいやり取りはそれだけで終わらなかった。
ガン! と小窓を殴りつけて御者が叫んだのだ。
「おい、ヤバい、最悪のタイミングだ! 奴らが来たぜ!」
「くそ、来たか」
眉間に皺を寄せてケラソスは乱暴に窓を上まで上げる。そして、身を乗り出して後方を確認した。
「っ、数が多い────駄目だ! カイ、すぐさま戻れ!!」
もう一度、窓の外から神服の青年と子供たちに怒鳴るケラソス。
首をすくめて息を飲んだルシールは、我に返るとこっそりと深呼吸を繰り返して動揺を鎮めた。それから、神父が覆った窓の隙間に目をこらしてもう一度、外の様子を伺う。
────幸い、目はとても良い。
林はだいぶ近づいていて、そこに顔色を変えて馬車の後方に視線を釘付けにした青年神父がいた。彼はすぐに子供たちを両脇に抱え林の中に駆けこんで行く。
「いったい何が…………」
背を向けた神父の張り詰めた空気に気付いて、ルシールは言葉を飲み込む。
怒声をもう一度聞くのは嫌だったのだ。
もっとも疑問の答えはすぐにわかった。
「ちくしょう、マズいマズいマズい! 時間を変えたのがバレてたんだ!」
御者の悲鳴をかき消すようにあちこちから聞き慣れない野太い声が耳に飛び込んで来た。
────これは何? まるで話に聞く戦の雄叫びのような。
ルシールの金の瞳が揺れた。
はしたないと思いながらも、弾かれたようにルシールは窓へと駆け寄った。
「な、何を!?」
「…………失礼します!」
窓の外へと身を乗り出した神父の、伸ばした腕の下へ身を滑り込ませて再び窓の桟に取り付くと神父の身体を押しのけて外を見た。
金の瞳が陽を受けてより強く色味を増した。
子供二人を抱えて走るのはさすがにつらいのだろう、さっきよりも近づいた林の合間に青年の神服と子供たちの褪せた服の色がチラチラと見える。
「…………あっ」
さらに身を乗り出して振り向くと、馬に乗った荒々しい一団が馬車を追うように駆けてくるのが見えた。
「あれは────!?」
「戻れ!」
厳つい手が荒々しくルシールの肩を掴み車内へと引き戻した。
「何を──っ!?」
ケラソス神父の手を振り払おうとしたその時、窓の近くで何かがぶつかって弾ける音がした。
「投石だ。顔を出すな!」
「ひっ!」
「壁に身体を押し付けて、できるだけ身を縮こませて!」
「や、やめて!」
ケラソスは強引に彼女の身体を抱え込むと座席の隅に押し込んだ。突然のことにその胸を殴りつけて抵抗したルシールだったが、続く異様な音にその手を止めた。
小さく大きく鈍い音が何度も続き、何度も車体が揺れる。
屋敷から出た事すらほとんどない彼女は、もちろん投石など見たことはない。
だから、馬車の揺れと怯えた馬のいななきでようやく実感した。
馬車が、自分たちが悪漢どもに襲われているのだ。
「…………ルーシィ。大人しく」
抑えた声が頭上からした。
引きつった顔で上目遣いに見上げれば、太いケラソスの頸があって、それから顎先が見えて。
────髭だわ。
そんな場合ではないのに、顎の下、ほんの少し剃り残したそれに気付いた。
目の前で尖った喉が大きく動いて、息を飲む。
そして、甲高い音が響いた。
揺れとくぐもった音。
紺色の神服が強く押し付けられた。
小さく悲鳴を上げて暴れながらそれを殴りつけると、ずれた腕の下からそれが見えた。
押し上げたはずの窓硝子が細かな紋様と共にきらきらと輝きながら散らばっていて、その床板を抉るように沈む、塊。
「当たりどころが悪ければ死ぬだろうに…………」
汚れた分厚い布で何重にも巻かれた塊を一瞥してケラソスは冷ややかに呟いた。
「彼らは君を狙っている。神の贈り物を授かった令嬢を攫えば金になると思ったのだろう。大人しく隠れていなさい」
贈り物、と聞いてルシールは顔を歪めた。
「贈り物ですって? そんな、…………私は捨てられたのに」
「それは」
口ごもる神父を、今度はルシールが退ける番だった。彼女はケラソスの胸に飛び込むと、すぐに彼を突き飛ばしてさっきまで覗いていたのとは反対のドアに取り付いた。
「!! 駄目だ────!」
爆走する馬車から飛び降りるのは、本来ならとても恐ろしいことだったろう。
だが、彼女はあの密室や状況をすでに限界と感じていたし、知らぬ他人と身を寄せ合うのもまっぴらだった。
何より諦めと自虐的に昂った気持ちが恐怖を和らげ蛮行を後押しした。
扉は固く閉ざされている。
でも。
少し軋んだ音を立てながら力いっぱい窓を引き上げると、大量の風が彼女の乱れた髪を巻き上げた。
「さよなら、神父様!」
それは、ほんの一瞬。
小さく飛び上がると、桟を掴んだその手を離した。
ワンピースの裾が絡まって小さく裂けた。
受け身など知るはずの無い小さな身体が投げ出される。
追い立てる悪漢どもが驚いて手綱を引いて馬を止める。
それ自体が凶器と化した荒れた地面に、その身体が激突する前に────石突がそこに突き刺さった。勢い余ったそれは乾いた大地を真っ直ぐに裂くように抉る。
派手に舞い上がった土埃が辺りを白く覆った。
その中で、目を細め唇を引き結んだルシールは思った。
────乾ききった、汚くみすぼらしい土地だわ。汚れてしまう。
一瞬の事であった。
飛び降りた令嬢を残して、その勢いのまま走り去る馬車。
それによって、耳に残るあの騒がしい音は遠ざかり、静けさが戻った。
ならず者たちの動きは早かった。馬車から飛び降りたものに気付き即座に馬を止めた者。それに気付いて馬首を返す者。それらが、馬を鎮めながら向きを変えてゆっくりとルシールを包囲していく。
激しく回る車輪の音の代わりに、馬と悪漢たちの息遣いがよく聞こえた。
徐々に薄らぐ土埃の向こう、ルシールの手には大鎌が握られていた。
彼らもそれにすぐ気付いた。
本来なら、落下して地面で激突してぼろぼろになるはずの彼女は、どこからか取り出したそれにしがみついて、どうやってか落下の衝撃を和らげて、ここに居る。
土埃がおさまると、ルシールは腰を落としてカテーシーのような優雅さでワンピースの裾を片手で摘まみ上げた。そして、逆の手に握った鎌を後ろ手で閃かせ、己のガタついた靴のヒールを一刀のもとに叩き折った。
「動きづらいけれど、まだこちらの方がいいわね」
くるりと踊るように小さくステップを踏んでから、ルシールが大鎌をするりと掲げた。
我に返った男たちに動揺が広がる。
「…………おい、あいつは『鎌』、なのか?」
「武器の<レイアウト>だ…………!」
「よく見ろ、鎌じゃねえ、刃が無いぞ」
「それに、まだ若い女だ」
ひそひそと交わされる声が徐々に大きくなって、ルシールは眉をつりあげた。
訪れた静けさがどよめきに変わっていく。
────ああ、煩い!
埃を吸い込んだ喉はいがいがして、埃で汚れた身体が気分が悪かった。
「お黙りなさい!!」
すっと背を伸ばしたルシールが大鎌を閃かせた。
耳をつんざく硬質な高音。
それと同時にブンと風を起こして、大鎌はその長さでは届くはずのない位置の男たちを薙ぎ払い、馬上から叩き落した。
「馬鹿なっ!」
「なんだ、あれ!?」
一転して、驚愕と怒りで騒然となったならず者たちはすぐさま牙を剥く。
革のようなものに汚れた布の塊を入れる者、腰に下げた棍棒を引き抜く者。
彼女にとって、それらはみな目障りだった。
「煩い!!」
再び、異質な音が響き渡った。
「ひっ!!」
馬がいななくより早く男たちが石を掴むより早く、ルシールは大鎌を振り抜く。
風が起こり、そして、柄の長さが届く届かないに関わらず、数多の悪漢たちが地響きを上げて馬上から叩き落された。
異音と異常な状況に、ならず者たちの間に恐怖と混乱が広がってゆく。
それは、華奢な少女が持つには異様な大鎌だった。
全体的に薄紫がかった金属で出来ており複雑な装飾が全体に及ぶせいで、より大きくむしろ大男でも扱えるかという代物に見えた。しかも、巨大な鎌には刃が無い。完全な儀礼、もしくは、殴殺用の代物。
それを、まるで扇のように扱う少女。
────それが
「
息を乱しながら、ルシールが大鎌を振り回すと、その度に異音がして鎌の柄が伸びて逃れようとする敵を捕らえる。
それは異様な景色で。
「ルーシィ!!」
銃声が響いた。
振り返ると、引き返して来た馬車から降りた銃を持ったケラソスと神服の青年が見えた。
「…………」
ルシールは鎌を振る手を止めた。
悪漢の大部分はとっくに地面に転がり、残りの者たちも不利を悟って慌てて馬首を返した後だった。
鎌が鳴らしていた高音が止んだ。
代わりに、囁きが聞こえた。
『銃ね、わたしはあれがきらいよ』
顔を顰めるルシールへ薄紫の鎌が静かに語り掛けたのだ。
「そう…………」
そこら中から殴り倒された男たちの呻き声が上がっている。
どたどたと神父たちの足音も近づいている。
「…………私は『鎌』も嫌いよ」
乱れた息を整えながら、吐き気を堪えながら。ルシールがそう答えると鎌は再び沈黙し、溶けるように巨体を消した。
────<レイアウト>。
それは神が授ける
ルシールの授かった祝福は刃のない大鎌の形をしていたが、その力は貴族令嬢であった彼女の人生において今この瞬間まで役立つことはなかった。そして、今も彼女にとって苦々しいものでしかなかった。
「────神様、私はこれから、このようなことをしなくてはいけないの?」
左右で握り合った白い手は小刻みに震えていた。
「…………
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