第14話  人物注釈

八元老 


抗日、国共内戦から建国にかけて革命の第一線の功労者で、文革期に批判を受けて過酷な運命を共有したことは共通項である。


陳雲:貧農の家庭に育ち、小学校卒業後、上海商務印書館で植字工見習いとなる。


建国後は政務院副総理兼財政経済委員会主任に任じられ、財政経済政策の最高責任者となり第一期計画経済を主導。大躍進政策が破綻すると、その是正に奔走する。しかし、陳雲の政策は毛沢東の考えに反するものだった。文化大革命が発動された1966年、副主席を解任される。1969年には中央委員に格下げされ、副総理の職務も有名無実となる。同年、江西省南昌の工場に下放される。鄧小平の復活で復活。1981年、「計画経済を主とし、市場調節を補助とするべきである」と主張。「市場は計画の枠内に閉じ込める」とした鳥篭理論で保守派重鎮として鄧小平の改革開放に対抗。鄧小平が後継者と定めた胡耀邦と趙紫陽が相次いで失脚したのは改革開放の行き過ぎが原因とされ、鄧小平が保守派に配慮することによって、陳雲の存在感が増していった。生涯、経済特区には足を運ばなかったという。


彭真(ほうしん):山西省立第一中学に入学し、この頃、マルクス主義に触れる。建国以来北京市党委第一書記を務め北京市長も兼任。文化大革命が激しさを増し古参党員が次々と迫害に遭うなか、彭真も例外ではなく、紅衛兵が「反革命修正主義分子」と書いたプラカードをかけて引き回す写真は海外にも配信され、世界に衝撃を与えた。鄧小平による改革開放路線には基本的に賛成していた。


楊尚昆:弟の楊白冰と共に「楊家将」と呼ばれ、中国人民解放軍に大きな影響力を持った。成都高等師範学校附属中学校に進学。在学中にマルクス主義に触れる。上海大学で学びながら、上海総工会による武装蜂起の準備活動に加わる。同年11月、ソ連に派遣され、モスクワ中山大学に入学し、マルクス・レーニン主義を学んだ。日中戦争期は党中央北方局書記を務め、華北におけるゲリラ戦を指導した。国共内戦期は党中央軍事委員会秘書長として、軍高級幹部に命令を伝達する立場となる。また、1945年からは党中央弁公庁主任(官房長官みたいな役割)を務めており、周恩来らを補佐して党中央の日常業務を処理した。中央書記処総書記には鄧小平が就任しており、楊尚昆は鄧小平と業務的に密接な関係を持つようになり、鄧小平の信頼を得ることとなる。楊は「毛沢東への反逆」を口実に12年間、1978年まで監禁された。1989年の第二次天安門事件では、鄧小平と党総書記である趙紫陽の間を取り持とうと奔走する。江沢民への権力委譲を進める鄧小平にとって、楊兄弟の軍での権勢は看過できないものとみなされるようになって、鄧小平に引退を迫られた。1993年楊尚昆は国家主席・国家中央軍事委員会第一副主席を退任し、政界を引退。


薄一波: 現役引退も党中央顧問委員会副主任の立場で活動。建国後は、経済、財務畑を歩き、財政部部長(大臣)に就任。文革で失脚。失脚している最中に胡明夫人も睡眠薬自殺を遂げてしまう。1978年、胡耀邦が中央組織部長となり、名誉を回復した。しかし、胡耀邦の総書記解任には保守派として賛同した。また、インフレなどの経済混乱を引き起こしたとして、後任の総書記趙紫陽を批判。息子薄熙来は中央政治局委員兼重慶市党委員会書記を務めたが、薄熙来事件と呼ばれる汚職・スキャンダルの摘発により失脚した。


李先念:財政部部長。後に北京郊外に下放された時期もあったが、中央復帰後は周恩来首相の下で経済政策を補佐し、後の市場経済化の先鞭をつける。しかし改革開放には保守派。陳雲と共に経済特区には生涯足を踏み入れなかった。


王震: 軍人(最終位階は上将)。文化大革命で冷遇されたものの、毛沢東の保護を受け、1975年国務院副総理に就任した。文化大革命終了後は鄧小平の復活を支持したが、政治面では保守的傾向を見せた。趙紫陽総書記の後継者選びでは、陳雲が推薦した江沢民を中央の経験がないことを理由に反対、王震は李鵬を推したが、鄧小平、陳雲、李先念の3人の意志が固いことを悟り、最終的に支持に回った。


鄧穎超:政治協商会議主席(1983年 - 1988年)、を勤めた。周恩来総理夫人。李鵬の養母。文革では迫害はなかったが養女が迫害され死亡。天安門では戒厳令支持。


後に李先念・王震・鄧穎超と入れ替わる形で、以下の3人が入った。


宋任窮(じんきゅう): 日中戦争では八路軍第129師団に配属され、政治部副主任。政治委員を務めた鄧小平と知り合う。文化大革命では鄧小平との関係を問われ失脚。中央組織部長。胡耀邦に代わって冤罪で失脚した幹部の名誉回復事業を引き継ぎ、文化大革命で審査対象とされた230万人以上の名誉回復を行う。


万里:全国人民代表大会常務委員長(1988年 - 1993年)山東省東平の貧民の家庭に生まれる。1936年、山東省立第二師範学校卒業。同年、中国共産党に入党。1952年に中央政府に入り、主に都市建設の分野で活躍する。1958年より北京市党委員会書記処書記、副市長などを務め、彭真の下で北京市政に携わる。しかし、1966年より文化大革命が発動されると、彭真とともに失脚した。87年万里の中央政治局常務委員入りが検討されたが、姚依林が「有事の際、真っ先に騒ぎ出すかもしれない」と反対し、陳雲も同意したため、推薦した鄧小平も提案を撤回せざるを得なかった。天安門事件では、訪問先のカナダで、学生運動を愛国的行動と認める談話を発表し、趙紫陽に近い立場であった。もし彼が常務委員入りしていれば改革派対保守派は3;2となりどうなったかわからない。





当時の党政治局常務委員5人


趙紫陽・李鵬・喬石・胡啓立・姚依林




胡啓立 、1929年10月 –


1951年、北京大学物理学科を卒業。1956年まで同大学の中国共産主義青年団書記、全国学生連合会主席を務める。文化大革命期の1966年から五七幹校に下放される


1972年に寧夏回族自治区西吉県委副書記となり復活を果たす。改革開放派として鄧小平に高く評価されていた。趙紫陽総書記とともに学生運動に同情的な姿勢を見せて戒厳令に反対したため、政治局常務委員を解任され、中央委員に格下げされた。


1991年に序列の一番下ではあったが機械電子工業部(現・情報産業部)の副部長として復活、経済改革を遅々として進めない江沢民総書記への圧力となった。




李鵬:1928年10月20日 -周恩来・鄧穎超夫妻の養子


1945年11月、中国共産党に入党する。1948年から1955年までソ連に留学し、モスクワ科学動力学院で水力発電を学ぶ。帰国後、東北電管局所属の豊満水利発電廠や阜新発電廠で発電作業に従事した。1987年11月で党総書記に就任した趙紫陽の後継として、国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。第二次天安門事件では一貫して強攻策を主張している。李鵬は政局の安定を重視し、経済の自由化には消極的であった。


姚依林(よういりん)1917年9月6日 - 1994年12月11日


1935年に中国共産党に入党。1936年6月天津市党委員会宣伝部長となり、学生運動の指導に従事した。中華人民共和国建国後は貿易部、商業部、中央財政貿易部の副部長(次官)を歴任。文化大革命で失脚するが、1973年に対外貿易経済合作部副部長として復活。保守派の長老陳雲の信頼も厚かった。不正な輸出による外貨流出が止まらないことを指摘し、経済特区の見直しを主張した。天安門事件では、李鵬と共に戒厳令施行の支持に回った。


喬石(1924年12月 - 2015年6月14日)党序列ナンバー3であった。


1940年中国共産党に入党。国際問題の専門家で、政党外交を担当する中央対外連絡部長に就任。その後、中央弁公庁主任、中央組織部長など党中央の要職を歴任した。


喬は楊尚昆によって趙の後継に推薦された。しかし、陳雲・李先念ら保守派長老が推薦した江沢民が後継の総書記に就任。

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池上彰より易しい現代中国歴史講座 北風 嵐 @masaru2355

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