第5話

事務所であんこは母親の傍でお絵描きをよくする。圭吾が「上手だね」と褒めると〈にっこ〉と嬉しそうに笑う。描いている絵は何を書いているのか圭吾にはわからない。「なに?」とは聞かないことにしている。幼い天分を摘んではいけない。


恵子が注意をしている。「言ったでしょ、右手で持つの」。左利きを直そうというのだ。


あんこのお誕生日ということで、圭吾は恵子の手料理をよばれるべく、アパートに招待された。


「私の誕生日では来ないくせに」と、恵子は多少不満であったが、日頃の感謝を表すべく、腕をふるった。市場でマグロの良いのがあったので、ブロックを刺身に捌いていた。左手に包丁を持っている恵子を見て、圭吾は「あれ、恵子さんは右利きじゃなかったの?」と訊いてきた。「私も左利きを父から直されたの。父も元は左利きだったようで、遺伝するのかしら・・。世の中は右利き様に何事も作られているから左利きは不便だというのが父の言い分だったわ。今では左利きの鋏も売っている時代だというのにね。何となくあんこの左を見ているとウチが落ちつけへんの。でもね、何故か刃物を持つ時だけ左なの」と恵子は言った。左手で刃物を持っているのを右利きの者が見るのは危なっかしく、不気味ですらあった。


それから暫くしてローザに接見に行った圭吾が興奮して帰って来た。


「われ関せず」と何事にも鷹揚に構えている圭吾にしては珍しい。


「先生、何かいい事でもあったの?」と恵子が訊いた。


「いいことも最高のいいこと。恵子さん君のお蔭だ」と言って、恵子の手をしっかりと握った。


「先生、何?早く言ってよ」


「恵子さんその前に水をくれ」。水をおいしそうに飲んで圭吾はテーブルに座った。


「恵子さん、ローザは直された右利きだったのだ。この写真見て」。出されたのは殺された夫の写真だった。恵子は殺された人の写真を初めて見た。あまりいいものではなかった。


「この傷は向かって右から左に切られているよね、左では出来ない傷だよ。人はとっさのときは、自分の利き腕で刃物を持つものだよ。彼女は無実だ。ならば、誰が何時やったのか。その5分間だとね。警察に言ってやったよ。後は警察の仕事さ」と圭吾は云って、煙草に火をつけた。


事件は簡単に解決した。犯人は隣の部屋に住む夫婦だった。動機は、隣の夫がバイクでひき逃げをしたとこをローザの夫に見られて脅されていたと言うことだった。ローザが部屋の外に出ている5分の間に、あらかじめ外れるようにしておいたベランダの仕切り板から部屋に侵入して殺害をしたということだった。口論を聞いたという証言は、圭吾によると、「毎日のようにそれがあると、その日もあったように思うものなのだ、真っ先に左隣の主婦がそう主張すれば『そうだったかしら』と思うだろう」と恵子に解説した。


隣の夫婦が警察に逮捕されて行くところがテレビに映された後、無罪を立証した弁護士として圭吾がインタビユーされていた。事務所にも報道関係者が来て、恵子はお茶を出すのに忙しかった。でも、4、5日もすればいつまでも、このようなことに関わっているほど日本のマスコミは暇ではない。また何時もの事務所に帰る。恵子の傍ではあんこがお絵描きをしている。今日は右手を使っている。その絵がテレビなのはわかる。テレビの中の魚のような人物は圭吾なのだろうか?


それから、暫くして、事件の解決をみたローザが子供と一緒に事務所にお礼に来た。事務所に来ると聞いて、圭吾に聞かされていた恵子は、一方ならぬ興味と関心で待った。会ってみて、確かに顔は鼻筋が通っていて美形の片鱗は残していたが、地味な、そこらに普通にいるだろう主婦の姿だった。思い浮かべていた姿を裏切られて、恵子は多少がっかりした。


「これなら、私だって花形になれる」。赤いライトの下で妖艶に踊る自分を想像してみた。小学校6年生の女の子は、大きくなったらきっと美しい娘になるだろう予感をすでに漂わせていた。親子の姿を見て「良かった」と思った。自分も多少役立ったと思うと恵子は嬉しかった。


親子は何度も鄭重な礼を言って帰って行った。帰っていく親子を窓から見遣って、圭吾はぽつんと言った。「僕の観音さん、お幸せに・・」と。


「今回の手柄は恵子さんにあり」ということで、ご褒美に一泊の温泉旅行に親子を連れて行ってくれるという。「温泉なんて何年ぶりだろう。出来れば、私も観音さんにしてぇー」と恵子は思っている。


一件落着!圭吾に女難の相あり。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

旭座の女 北風 嵐 @masaru2355

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る