やわらかで、やさしい獣。

月庭一花

1・トロイメライ

 待ち合わせ場所の駅のモニュメントの前で佇み、わたしは左手首に巻いた腕時計を見るとはなしに見ていた。

 長針がちょうどローマ数字のⅢを指していて、かれこれ十五分近く待たされていることを、カルティエのミニベニュワールは如実に教えてくれている。楕円形の文字盤が、午後の光を受けてきらりと光った。

 ガラス張りになった天井からはやわらかな光が射していて、自分の周囲に幾何学的な光の模様を作っている。構内を行き交う雑多な人たちがそれを気にも止めずに踏みにじっていく。わたしは自分の金色の髪をかきあげ、そっと天井を見上げた。駅の高く細かな格子の向こう側を、カラスが一羽、ゆっくりと西に向かって飛んでいくのが見えた。

 電光掲示板のニュースでは、EUの崩壊に端を発した政情不安のニュースが流れていた。名前も聞いたことのないようなどこかの小さな国で、軍がクーデターを起こしたらしい。きっと大変なことなのだろうな、とは思ったけれど……とりたてて興味を惹かれたわけでもなく、わたしはニュースから目を逸らした。

 そのときだった。

「あの……シェリーさん、ですよね」

 声をかけられて、思わず振り返る。

「女流棋士の」

「元、です」

 わたしは苦笑しながら、大柄な、四十絡みの男を見上げた。まさかわたしを知っている人がまだいたなんて。そう思うと少し不思議な気分になった。男は初恋の相手を目の前にしたように頬を染め、自分もアマで将棋を指しているんです、あなたの指し回しがとても好きでした、と言った。

「あの、握手をしてもらってもいいですか」

「……ええ」

 これも将棋普及のための大切なお務め。

 わたしはにっこりと笑って、右手を差し出した。

 男は幅の広い温かな両手でわたしの手を包むと、ありがとうございます、と言って、去っていった。

 わたしは遠ざかる男の背中を見つめ、そして自分の右手を見つめた。まだ手のひらには男の熱が残っていた。嬉しいのか悲しいのかむず痒いのか、自分でもよくかからない。好きでした、って。過去形で言われてもな、と思う。それに。

 わたしの方から男の人に触れたのは、一体いつ以来だろう。

 ぼんやりとしていると、急に周囲がざわめきだしたのに気付いた。

 空気の中にぴんと一本の糸を張ったような、言葉にできない緊張感がそこにはあった。わたしはそれを肌で感じて、懐かしいなと思い、思わず苦笑してしまった。

 視線を向けると近くの改札を抜けて、白杖をついた深い藍色の着物姿の女性が、静かな歩調でこちらに向かってくるところだった。

 足を止めた周囲の人だかりから、あれってモデルのAkariだよね、嘘、すごい、顔ちっちゃい……といった声が聞こえた。彼女は聞こえているのかいないのか、じっと凝らすようにして、目を細めながらわたしに向かって近づいてくる。

「あら、男の人と握手なんてしてはるみたいやったから、別人かと思ったわ」

「遅れてきて、何よその言い草」

 わたしが憤ると、あかりは口元に手を当て、くすくすと鈴のように笑った。

 ……翡翠の色をした彼女の瞳が、本物の宝石のように輝いている。

「ふふっ、遅刻してしもたんは堪忍かにしてな。午前中だけって話だったのにえらく撮影が長引いてしもうて。まだ時間はあるよね。お詫びに何か冷たいものを奢るから。……ね?」

 彼女はいつだって飄々としている。昔からずっとそうだった。

 わたしは仕方のない人、とため息をつきながら、燈に右腕を差し出した。燈はゆっくりと円を描くようにわたしの右側に回り、肘の少し上をそっと掴んだ。

 歩き出すと彼女の白杖が地面をこする、かりかりという音が耳に心地いい。

「五月やのにえらい暑いねぇ。溶けてしまいそうだわ」

「だってそれ、正絹でしょう? もっと涼しい絽か紗にすればいいのに」

「まあ、そうなんやけどねぇ」

 まだ夏物には早いしなぁ、ほら、イメージってもんもあるやろ。そう言って、燈はまた小さく鈴のように笑うのだった。

 イメージ。その大切さは、わたしも身を以て知っている。女流棋士の世界では、イメージこそが何よりも大切にされていた。それに。

 燈にしたところで今やトップモデルの一員だ。常日頃、周囲からどう見られているのかは、やはり気に掛かるのだろう。もっとも、そういう彼女自身はもう、ほとんど目が見えていないのだが。

 盲目の美人モデル、なんて言われているけれど、その実彼女の目は光や物の輪郭を捉えることくらいならばできる。正式には弱視と呼ばれるものなのだが……どうもその辺りのことがまだ、あまり周囲に理解されているとは言い難い。

 どうしても世間では、白杖を使う人は目の見えない人、という固定観念があるみたいだった。弱視の人間が使用することもあるなんて想像したことさえないのだろう。だから彼女もよく混同されてしまう。それに、誤解させたままの方が燈を売り出すのには適していたのだろう。

 ただ、そのことについて燈自身がどんなふうに思っているのか、わたしは知らなかった。気にしていないのか、それとも多少なりとも恥じる気持ちがあるのか、わたしにはわからない。

 ちらりとお太鼓にした帯を見ると、こちらはいかにも涼しげな鉄線の唐草文様だった。

 駅を出ると、真夏かと思うくらいの強い日射しがわたしたちの上に降り注いだ。遠くの景色が白く、ハレーションを起したようになっている。

「近くに……お店はあるやろか?」

「確か、燐火堂りんかどうって和菓子屋さんなら」

「中で飲み食いできるん? なら、そこでいいかしら?」

 燈は前を向いたまま、少しだけ目を細めてわたしに訊ねた。五月のやわらかな風がわたしたちのあいだを通り過ぎていく。長い黒髪がほんのり赤い彼女の眦を、さらりと掠めていくのが見えた。

 わたしはいいわよ、おごってくれるならどこでも、と答え、小さく笑ってうべなうのだった。

「うち、葛切りが食べたいわ」

 そう言って婀娜あだな笑みを浮かべている姿は、あの頃の……星花女子に通っていた頃のまま、何も変わっていない。ただ、黒い魔女だの死神だのと呼ばれていた頃に比べれば、だいぶ毒気は抜けたようにも思う。

 まさか、燈とこんな風に二人で出かける日が来るなんて、思ってもみなかった。

 人生というのは不思議だ。何が起こるかわからない。

 わたしたちはゆっくりと歩きながら、互いの近況を報告し合った。最近起こった、あれこれを。燈と会うのは気づけば四ヶ月ぶりのことだった。

 けれど棋士を引退し、さして代わり映えのしなくなったわたしの日常とは違って、星花在学中にモデル事務所にスカウトされた燈は、今や有名雑誌の表紙を飾るような、押しも押されもせぬ有名人だ。

 百八十を超える長身と、その純和風的な美貌、そして翡翠色の瞳と目が見えない——正確には極度の弱視なのだけれど——というミステリアスさが、燈を一躍時の人にした。彼女を取り巻く状況は、今でもめまぐるしく変化し続けている。

「そういえば琴羽は?」

 わたしは話の接ぎ穂に、何気ない風を装って、訊ねてみた。先週出た週刊誌に【トップモデルAkariの最愛の恋人 芸能界で再会した運命の二人】という見出しで憶測だらけのいかがわしいゴシップ記事が出ていたので、少し心配していたのだ。

「ゆい? 元気にしてはるよ。今日は収録があって来られないからって、残念がっていたわ」

 わたしはそれ以上何も言えずに無言のまま歩いた。けれど、燈は察してくれたらしい。

「……ああ、あの記事のこと?」

「うん」

「……いいの。別にお互い隠すつもりはないし」

 燈は何でもないことのようにそう言った。けれどもすっと目を細めた燈の心の内をわたしは推し量ることができなかった。

「そういえばいのりちゃんも来るんやった?」

「ええ。金沢から直接になると思うけど」

「サロンのみんなが一堂に会するわけやね。尚のこと……ゆいも来られたらよかたのに、ね」

 ……琴羽がいても、全員じゃない。

 わたしは気付かれないようにそっと唇を噛んだ。

 燈はしかし、わたしの感情の揺らぎに気づいたようで。

 そこからは何も語らず、ただ、歩いた。


 もともと余裕を持って待ち合わせしていたから、最初から喫茶店かどこかで時間を潰す予定だった。燐火堂に着くとわたしは黒糖ゼリーのパフェを、燈は先刻の宣言通り葛切りを注文した。目が見えていないとは思えないくらい上手に箸を使って、彼女は透明な葛を椀から口に運んだ。

 客がちらちらとわたしたちを見ていた。

 金髪碧眼のいかにも外国人なわたしと有名人であるAkariの組み合わせは、やはり人目を惹くだろう。わたしは生まれてからずっとこの国で生きていて、人前にも出るような仕事をしていたから、こういった不躾な視線には慣れた。……慣れたけれど、決して気持ちのいいものではない。

 こういうとき、燈みたいに目が見えないと楽なのかな、と思い、そんなことを思ってしまう自分を恥じた。

「口の周り、黒蜜がついているわ」

 わたしが告げると燈は慌てておしぼりを口元に押し当てた。おしぼりには薄赤い口紅の跡が微かに残った。こういった彼女の子供っぽいところも、逆に隙があって微笑ましく見えるらしい。

 傾きかけた日差しが障子越しに燈の横顔を照らしている。どこまでも黒いその髪は、陽の光を受けてさえ、まるで夜の帳のようだ。

 ふと思う。高校生の頃のわたしは、彼女にはどう見えていたのだろう。わたしの金色の髪は。青い瞳は。陽の光に晒されて白く輝いていた肌は。

 あの頃。

 燈と直接話したことはほとんどない。

 燈はサロンの人間ではなかったから。

 いのりと琴羽とで作った秘密のサロンは、六花と七花の双子を加え、そしてわたしが混ざって五人になった。

 一年生五人だけの、秘密の花園。茶話会。

 サロンには名前がなかった。

 だから、わたしは密かに名前をつけた。

 ……月の庭、と。

 店を出て少し歩くと植物園に併設された小さなホールが見えてくる。すでに客入りは始まっていて、ぱらぱらと人が吸い込まれていく。わたしは燈をいざないながらゆっくりとゲートをくぐった。

 ステージにはピアノが一台。

 それを横目に見つつ席に着くと、

「久しぶりだね、えり」

 すでに着座していたらしいいのりが、斜め後ろの席からわたしに声をかけた。

「いのりの方が早かったのね」

「ええ。燈さんも、お久しぶりです」

「そうやねぇ。えりとはなんやかんや会うてるけど。いのりちゃんとは久しぶりね。もう……」

 燈が視線を宙に彷徨わせると、いのりが小さな声で、三年です、と答えた。

「あの子が……目を覚ましたときが、最後でしたから」

 わたしは胸の痛みを堪えるように、そっと二人から視線を外した。勢い正面を向くことになり、ビルシュタイン社製の黒いグランドピアノに目が吸い寄せられた。

 まさか……彼女のピアノリサイタルだなんて。

 今でも、もしかしたら夢なんじゃないかと思ってしまう。

 あんな事故、起こらなかった。彼女たちは今でもわたしと一緒にいる。

 そう思えたら、どんなに良かったか。

 客電が落ちるまで、わたしは黙っていた。そして、彼女が現れるのを、待ち続けた。

 どのくらいそうしていただろう。

 ピアノにスポットライトが当たった。

 暗がりの中から、小柄な女性が、ゆっくりと歩いてくる。かつかつ、と。小さな足音をさせながら。

 彼女は、少しも変わらない。あの頃のまま、まるで時間が止まってしまったみたいに。大仰な水色のドレスが彼女の動きに合わせて視界の中で揺れていた。

 立ち止まり、客席に向かって頭を下げたその瞬間、目と目が合った。ただそれだけで泣きそうになった。

 燈がわたしの手を握った。

 いのりがわたしにだけ聞こえる声で、えり、と言った。

 わたしは燈の手を握り返し、いのりに頷き返した。

 彼女が着座し、指が虚空で静止する。

 そして。

 軽やかに、嫋やかに。鍵盤の上を流れていく。

 ロベルト・シューマン作曲。『子供の情景』第七曲、トロイメライ。

 ……音が、空間に溶けていく。

 彼女のピアノは……こんなにも抒情的だったのだろうか。

 曲の主題そのもののように、まるで夢の中をたゆたうように。静かに、そして真摯な情熱のこもった演奏……。

 あの頃は気付かなかった。気付けなかった。

 わたしはどうしようもないくらいにぽろぽろと涙をこぼしていた。

 あと少しで。もう少しで終わってしまう。彼女のトロイメライが終わってしまう。

 いやだ、そんなの……嫌だ。

 不意にあの日の記憶が蘇る。

 夕焼けのオレンジ色に包まれた病室で、長い眠りから目を覚ました彼女がわたしを見て、

「あなた、……わたしは知っているよ……」

 そう言ったのを。

 まるで、シューマンが死ぬ前に残した、最後の言葉みたいな嘘。

 曲が終わる。

 次の曲。

 でも、


 彼女はもう、どこにもいない。

 ううん。違う。

 彼女たちはもう、どこにもいない。

 あそこにいるのは、六花でも七花でもない。


 彼女の名前は一花。


 わたしの、恋人。

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やわらかで、やさしい獣。 月庭一花 @alice02AA

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