冬を生きた者たち

 白光きらめく雪原に、二つの影が邂逅する。


「わざわざご足労いただき感謝します」

 対面するマクシミリアン・ストロムブラードが恭しく一礼する。合わせて、セレンも頭を下げる。

 始めて面と向かって挨拶をしたが、印象はやはりよくなかった。口調こそ丁寧だが、表情は厳めしいままであり、黒い瞳もどこか薄暗い。血帯び汚れた漆黒の軍装も威圧感があり、親しみやすさはない。

「先ほどはお見苦しいところを見せて申し訳ない」

「いえ……。それで、お話とは……?」

「ついて来てもらえますか? 大した話ではないですし、交渉の席の延長線です。いきなり取って食ったりはしませんよ」

 冗談のつもりなのか、黒騎士は笑顔を見せたが、あまり面白くはなかった。

 交渉の席でなければ取って食われたかもしれないのか──そんなことを思いながらセレンが頷くと、黒騎士は死骸の山の方へと歩き出した。

 ボロ切れ同然となったマント、そこに描かれた焼かれた騎士の紋章が雪道を先導する。怪我をしているのか、その歩き方はぎこちなかった。脇腹を庇うようにして胸甲を押さえていたし、膝の曲がらない右足には血が滲んでいた。ボロ切れに描かれた焼かれた騎士と同じく、黒騎士もまた傷だらけだった。


 歩くたび、死が近づく。地獄のような光景が、その濃さを増していく。

 槍の穂先に晒された首が延々と連なる。首を斬られ、裸に剥かれ、男根を切り落とされた死体が山を作る。山々の合間には、消えぬ流血、引きずり出された内臓、何の肉かもわからぬ肉片などが散乱している。時折、何か創作でも試みたのか、血と臓物の落書き、死体を燃やして作られた月の盾、人骨を削って組み合わせた十字架などが無作為に飾られている。

 祭りのあとのようだった。ここには死者への慈悲はおろか、人の尊厳さえなかった。死体をついばむカラスさえいない戦場跡は、訪れた二人を除いて完全に死に絶えていた。


 冬晴れの青空に、血帯びた風が吹き抜ける。およそ考えられる限りの残虐と冒涜を尽くした殺戮の中を、セレンは黒騎士に続いて歩いた。


「お、あった」

 しばらく歩くと、黒騎士が死体の山を漁り始める。地面に突き刺さる槍を手際よく引き抜き、穂先に刺さった首を取り、それを投げて寄こす。

「この者をご存知で?」

 濁った青い瞳がセレンを見る。左目には裂傷があり、眼球は抉れている。僅かな金色を残してほとんど真っ白になった髪には、血糊がべっとりとこびりついている。

 首を拾い上げる──やはり彼は死んだのか──どこかで諦めていたのだろう。不思議と感慨はなかった。

「彼らは最期まで勇敢に戦った。弔ってあげなさい」

「……お心遣いには感謝します。ですが、私はもう信仰を失っています。弔おうにも、祈る神がいません……」

「大丈夫なので? 聖女様ともあろうお方が棄教したなどと言っても」

 驚いた黒騎士が皮肉げに口元を歪める。それに釣られ、セレンも自嘲気味に笑みをこぼす。

「別にいいんじゃないですか。私も生臭坊主どもが説く神など信じていない」

 ぶっきら棒な言葉の端々にトゲが滲む。宗教を嫌う人間は少なからずいるが、それを隠そうともしないその様子は、どことなくアンダース・ロートリンゲンを思い出させた。

「死者を悼む気持ちさえあれば、神などいなくとも弔いはできる」

 人骨の十字架を見つめる黒い瞳がどろりと澱む。溢れ出るどす黒い感情は、やはりアンダース・ロートリンゲンのそれに似ていた。


 騎士の首を抱き寄せ、セレンは祈った。祈ったが、言葉は出てこなかった。


 冬晴れの空のどこかで、微かに風が哭く。

「一つお伺いしたい」

「何でしょうか?」

「魔法は使えるのですか?」

「え……?」

「二百年前、〈東からの災厄タタール〉を打ち払ったとされる伝承には、あらゆる超常的な魔法が記されている。そして〈教会七聖女〉は、一般には秘匿とされたその秘儀を継承しているとも聞く。その魔法で死人を生き返らせることは可能なのかを知りたい」

「そんなものが使えたら、私たちはもっと違う出会い方をしていたと思いますよ……」

「でしょうね……」

 〈神の奇跡ソウル・ライク〉──伝承に語られる、語られるだけで誰も見たことのないもの。人々を救うはずの、しかし誰も救いはしなかったもの──そんなものもあったなと、セレンはしみじみと思い出した。

 恐らく、訊いた本人も端から伝承の魔法など信じていなかったのだろう。その笑みは乾いていた。それに釣られ、セレンもまた自嘲気味に笑みをこぼした。


「私は確かに〈教会七聖女〉の一人です。しかし、そんな称号に意味はありません。私はただの人形……、権力者たちの傀儡に過ぎません。何の力もない、ただの小娘ですよ……」

「だとしても、私はあなたが羨ましい。理由はともかく、あなたは選ばれた。逆に、私は選ばれなかった。多分これからも……」

「羨むことなど……」

「私だって何ら特別な力はない。家柄は低く、金も地位も権力もなかったし、それは今も大して変わらない。万の軍を動かせる頭があるわけでもなければ、万の軍を蹴散らせる力もない。ただ駆け回ることしかできない駒ですよ」

 黒騎士が訥々と言葉を紡ぐ。言葉の端々に、思いが滲む。

「だからこそ、私はずっと自分のために戦ってきた。誰への忠誠心もなかったし、国家の大義も神の教義も人の正義も、豚に食わせろと思って生きてきた。誰も信じようとしなかったし、人の愛にも唾吐いてきた。自分の名誉と栄光のためなら、人を使い捨てることさえ厭わなかった。彼らの力無くしては、何も成せはしないというのに……」

 ない混ぜになる感情からか、その声は微かに震えている。

「そして、多くを死なせた……」

 殺戮の中を彷徨う黒い瞳が、一瞬だけ、セレンの抱える首を見る。

「あなたも誰か大切な人を失ったのですか?」

「戦争です。好き嫌いに関わらず、誰かしらは死にます。そもそも、この戦争で何も失わなかった者などいないのでは?」

 黒騎士は笑ったが、その笑みはやはり乾ききっている。

「しかし何か失ったとて、それでもこの光景を私は望んだ。敵を殺し、高貴なる者を跪かせる……。死を築き、死の上に立つ……。それが虚栄であると理解しながら、しかし私はそうして生きてきた」

 静かな言葉に、あらゆる感情が渦巻く。やがて言葉は風に消え、また静寂が訪れた。


 神をも信じぬ者の感情の発露は、〈神の依り代たる十字架〉の信徒たちの告解に似ていた。


「私はあなたのことをよくは知りません。ですが今、私もあなたのことを羨ましく思いました。少しだけですが……」

 告解を聞くのは〈教会七聖女〉の務めでもある。しかし普段は台本が用意されている。今はない。

「あなたの言葉には確固たる意志がある。私にはそんなものはなかった。後ろ暗さや迷いさえ、私には眩しい……」

 言葉を探しながら、セレンは思いを伝えた。自分でも驚くほど、言葉はスラスラと出てきた。

「お互い、ないものねだりですかね……」

 黒騎士がまた乾いた笑みを浮かべる。厳めしかった表情は、少しだけ和らいでいる。

「私は英雄になりたかった。歴史に名を刻む英雄たちのように、大陸東部を灰燼に帰した〈東の王プレスター・ジョン〉のように、全てを力でねじ伏せる、そんな男になりたかった。だが私は英雄の虚栄にさえなれなかった。それなのに、四十歳にもなってまだその渇望を捨てきれないでいる。でかい子供ですよ」

 今度は、黒騎士が自嘲気味に笑う。その目を見て、セレンは微笑み返すことしかできなかった。


「最後にもう一つお伺いしたい」

 今までのやり取りは雑談だったとでもいうように、黒騎士が背筋を伸ばす。膝をついたままではあるが、セレンも表情を引き締める。

「あなたの処遇についてです。今後どうなるかは上の連中次第ですが、いずれも辛い道のりとなるでしょう。ゆえに、あなたの気持ちを確認したい」

 はっきりとした怖気が背筋を撫でる。胸に抱く首が、指先を小さく震わせる。

「残念ながら私にあなたをどうこうできる権限はないが、一応、現場指揮官として意見はできます。あなたの意志が尊重されるよう、できる限り取り計らいます」

 言葉の一つ一つが重く圧しかかった。セレンは言葉に詰まったが、黒騎士は急かすようなことはしなかった。ただ槍に寄りかかりながら、待ってくれた。

 〈第六聖女遠征〉は失敗に終わった。今後は虜囚の身である。全ての決定権は〈帝国〉にあり、選択の余地はない。

 〈帝国〉からすれば、第六聖女が何者であれ、その存在は外交カードの一つに過ぎないはずである。生かすも殺すも、全ては〈教会〉との交渉次第だろう。

 〈教会〉という国家からすれば、敗北の責任は旗印が負うべきとなるだろう。指導者層の教皇たちからすれば、〈教会七聖女〉はこのような事態の責任を擦りつけるために存在するのだから、やはり守ってはくれないだろう。国民からすれば、信仰を捨てた聖女など、異端として処理するどころか、存在すら抹消したいだろう。


 いずれも辛い道のりとなる──恐らく、マクシミリアン・ストロムブラードの言葉に偽りはない。生きるも死ぬも、辛いことに変わりはない。


「それでも、私は生きていたい」


 確かな言葉で、セレンは思いを告げた。

 殺し合いを目の当たりにしてから、セレンはずっと死にたくないと思って生きてきた。もちろん今でも死にたくはない。しかし今は、生きなければいけないと思った。

 多くの犠牲の上に、確かに生かされた命がある。

 人はいつか死ぬ。全てのものに終わりはある。やがて時は流れ、この戦いも冬の色に消えゆくだろう。そこで確かに生きていた人々の意志も、いずれ語られることもなくなり、どこかに消えてしまうだろう。だからこそ、確かに生きた彼らを胸に刻み、忘れないようにと思った。第六聖女の肩書は関係ない。生き残った者として、最期まで生きていこうと誓った。


 冬晴れの空の下、血帯びた風が二人の間を吹き抜ける。


 セレンは首を抱えながら立ち上がると、改まって向かい合った。

 誰もがそれぞれに意志を燃やし戦った。胸に抱く者も、滅び去る最期の瞬間まで、この冬を生きた。

「ストロムブラード殿、私からもお願いがあります。どうか、この者たちに相応しい葬儀を……」

「わかりました。彼らの信仰に則って、必ずや」

 信仰を捨てた聖女が神を信じぬ騎士殺しに葬儀を頼むのも変な気がしたが、セレンは頭を下げた。黒い瞳は少しだけ澱んでいたが、多分約束を違えることはないだろうと思った。


「最も真摯なる聖女よ。このような貴重な時間を作っていただき、本当に感謝します」

 どこか芝居がかった口調の黒騎士が、挨拶のときと同じように恭しく一礼する。

「あなたと話せてよかった。おかげで、自分がまだ戦えることが確認できた」

 死に満ちた雪原の先、遥かなる地平線のどこかを見つめながら、黒騎士は呟いた。


 事の終わりを吹き抜ける風は穏やかだった。それでも、漆黒の軍装にまとわりつく死の色は、最後まで褪せることはなかった。

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最後の騎士 ~第六聖女遠征の冬~ 寸陳ハウス @User_Number_556

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