最終話 Permanent Love


 シゲさんのところへ行こう、と誘ったのは思い付きだった。美海は帰ってきたばかりで、そんな余裕はないのかもしれない。けれどどうしても、美海と話したかった。このチャンスを逃せば、もう二度と――たとえまた、彼女が図書館へ来たとしても――もう二度と、話せないような気がした。


 美海は僕を見つめたまま、しばらく口をつぐんでいた。けれど、壁時計が20時を指した時、美海はうなずいてくれた。


「営業時間外だね」


 そう言って美海は笑った。戻ってきてから、初めて見る笑顔だった。美海がシゲさんのことを、この町の人のことを憶えていてくれたことが嬉しかった。沈黙する時間たちに別れを告げて、僕たちは動き出す。




「シゲさん、シゲさん」


 昔は21時くらいまでは開けてくれていた喫茶店。疲れるんだよ、眠くてね、と言って年々営業時間は短くなっている。シゲさんは確か80歳が近く、奥さんの明子さんもきっとそのくらいだったはずだ。


 悪いことをしていることは分かっていた。けれどこの瞬間、この場所しかない。そんな気持ちに駆られていた。


「なんだい、うちにゃ盗むものなんてないよ……おお、シュウ」


「ごめんシゲさん、中に入れてくれないかな」


「なんだぁ? 今何時だと思ってるんだ、もう店じまいだよ」


「まだ8時半だろ。昔は開けてくれてたじゃないか」


「昔は昔、今は今だ。――入りな、何かあったんだろう」


 シゲさんは僕の後ろについてきた美海を見て、言った。


「おや、見ない顔だねぇ」


 その一言が、どれだけ美海を傷つけたことだろう。僕はこの一瞬で、ここに連れてきたことを後悔した。


「シゲさん、この子は――」


けれど美海は静かに笑って、いいの、と言った。


 一番奥の丸テーブル。人がめっきり来なくなった今でも、僕の特等席のつもりだ。昔、ここで美海とよくジュースを飲んでいた。将来のことなんて何も考えずに、ただ日々を衝動的に生きていた。沙織さんと出会ってからは、ここでよく紅茶を飲んだ。沙織さんはコーヒーを飲めない僕をからかい、それがとても心地よかった。こんな日々がずっと続くのだろうと思っていた。美海は東京で頑張っていて、俺と沙織さんはいつか一緒になるのだろうと思っていた。もしかしたらその気持ちの中に、美海を忘れたいという甘えがあったのかもしれない。沙織さんはそれを見抜いていた。


 「柊真君は純愛を取り戻すべきだよ」


 純愛を取り戻す、なんて変な言い方だ。まるでそこに純愛があったみたいじゃないか。僕の美海への想いは、そんな綺麗であったかいものではなくて、捨てられるのが怖くて怯えるような独占欲だった。けれど今、そんな甘えた気持ちを捨て去る決断を迫られている。このままだと、沙織さんは僕の元を去るだろう。今何かを話さなければ、目の前の女の子だって、潮の満ち引きのように寄せては遠くへ去っていく。


 もう会うことがないと思っていた、片眼の少女に。


「また会えてうれしいよ」


 取ってつけたような歓迎のセリフだった。何かを話さなければならないことは分かっているのに、いざ口に出すと自分の伝えたい言葉は全く出てこない。そもそも、僕は美海をここに連れてきて、何を伝えたかったのだろう。突然、何もわからなくなる。いつもそうだ。いつも、肝心なところで何もかも消えてしまう。


 美海は黙ったまま、コースターを眺めていた。


「ほいよ」


 シゲさんが震える手でマグカップを置いた。体力的にも限界が近い、とシゲさんは漏らしていた。それは癌が見つかる前のおじさんのセリフと似ていた。


 この町は、緩やかに終わっていくのだろう。それを眺めながら、僕はどこへも行かずに、図書館で本に囲まれて生きていく。


 いや、もしかしたら都会だって――東京だって同じかもしれない。


 この国は、この世界は――緩やかに終焉を待っている。けれど誰もそれを口にしないだけなんだ、きっと。


「これコーヒーじゃないか、シゲさん」


「夜中にたたき起こされた仕返しだよ」


「夜中じゃないだろ」


 シゲさんはそれには答えずに、美海を見てごゆっくり、と言った。


 最近眼も見えん、と言っていた。美海の眼帯には気が付いただろうか。


「……あの女の人と話したの」


 あの日、沙織さんにデートに誘われたあの日、帰ってきた美海を見て僕は、情けなくも逃げ出すようにしてその場を離れた。それを今取り返そうとしても、もう遅い。


「沙織さんだね」


「そうなんだ。名前は言わなかった」


「どんな話をしたの」


「経緯を聞いた。店の。私、お父さんが死んでしばらくして、一度帰ってきてたの。その時家の前であの人がせわしなく商品を整理していたから、怖くなって逃げ出した。誰なのか分からなかったから」


「……そっか」


「でも、まさか美海ちゃんがこの町に帰ってくるなんてねー、私のこと、良く思ってないでしょう。思われるわけないよね」


 沙織さんがそう言っていたことを思い出す。


「だけど、あの人と長い時間話して、悪い人じゃないんだ、って分かったの」


「変わってるけどね」


 そうだね、と美海は笑った。


「……あの人と、付き合ってるんでしょう、柊真」


 久しぶりに名前を呼ばれた。7年ぶりに、美海の唇が僕の名前を呼んでくれた。


「沙織さんがそう言ったの」


「ううん、何となくそう思っただけ」


「……そうだね。けど、もうダメみたいだ」


「なんで?」


 美海が帰ってきたから、ではない。遅かれ早かれ、こうなっていた気がする。僕は沙織さんを見ながら、遠い過去の美海の背中を見ていた。


「僕が悪いんだ」


 コーヒーを口にする。苦くて吐きそうになる。


「私も、ダメだった。仕事も、恋愛も」


 美海もコーヒーを口にした。昔は僕と同じで飲めなかったはずなのに、顔色一つ変えずに飲んでいる。


 もう昔とは違う、それはとてつもなく悲しいことだった。


「私、この町でやり直そうと思う」


 美海は言った。僕は静かにうなずいた。


 美海は持っていた黒のポーチから、あるチラシを取り出した。そこには香織さんと、ハンサムな男性が映っていた。


「香織の――ああ、香織っていうのは私の親友なんだけどね、この子が主演の映画、今度の金曜日から始まるの。この町の映画館でもやるんだって。あの女の人が教えてくれたの」


 美海は香織さんのことを初めて紹介するみたいに言った。けれど僕は彼女のことをある程度知っている。美海は、香織さんのことを親友、と言った。


「あの人――沙織さん、また旅に出るって言ってた。お店を頼んだよって、私に」


 僕もこの町でやり直そう。美海と、一緒に。


「一緒に観に行こう、今度の金曜日」


 沙織さんの、いないこの町で。


 永遠の愛を離さない、とチラシには書いてあった。


 店の奥から明子さんがやってきて、それと入れ替わるようにしてシゲさんが奥へと帰っていった。明子さんはテーブルの上のコーヒーカップを見て、


「あらあらシュウちゃん、苦いでしょう」


と言いながら砂糖とミルクを持ってきてくれた。その瞬間、美海と目が合った明子さんは、


「あら、美海ちゃん」


と言って笑った。


 僕が驚いていると、美海はか細い声でうん、と言い、そこからまるでスイッチが入ったかのように泣き崩れた。


 ティッシュを取り出そうとポケットをまさぐると、身に覚えのないものが手に触れた。


 抜き取ってみると、それは1枚のタロットカードだった。大きな太陽が、静かに微笑んでいる。いつの間にポケットに入れたのだろう。


 そこにはマジックのペンで、こう記されていた。


「しばらく旅に出ることにします。2人の幸運を祈っています。今までありがとう。また、会いましょう」


 僕は泣き続ける美海にティッシュを渡した。そして泣き止むのを待って、


「お帰り、美海」


と言った。


 美海は昔と変わらない美しい声で、ただいま、と言って笑った。


 僕たちの海のような涙のしずくが、美海の頬を伝って熱いコーヒーの上に落ちた。

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