第3話 Violent Days


「もうすぐ、美海が帰ってきます」


「きっとこの町を見て回ってたんじゃないかなぁ。そろそろ帰ってくるだろうね。自分の、本当の居場所に」


 私が乗っ取ってしまった、彼女の居場所。


 沙織さんは、そう自嘲的に笑った。


「ねえ柊真君。私に初めて会った時、どうしてこんなことをしたのか、って訊いたよね。どうして、大金をはたいてこの店を買い取ったのか、って」


 沈黙が流れる。そう、確かに5年前、僕はそう訊いた。美海を応援したいと言ったおじさんに癌が見つかり――それもかなり進行していた――夏原商店の終わりが訪れるのは時間の問題だった。そんな時、自称旅人の沙織さんがふらりとこの町に現れ、「この店、私に売ってください」と言ったのだった。


 第一印象は最悪だった。どこの誰かもわからない女が、大金を突き付けて僕たちの思い出を侵食してきた。僕の眼には、いや、町の人々だってそんな風に映ったはずだ。だから僕は訊いたんだ。どうしてこんなことをしたのか、と。


「簡単な答えでいいなら、単純に気に入ったから、だった。この町も、人も、海も。夏原のおじさんは小旅行が好きで、どこかに行くたび異国の珍しいものを持ち帰っていたみたいだしね。多くの人にその価値は分からないみたいだったけど、本当に見る人が見ればすごいものだったりするんだよ」


 そう言いながら、沙織さんは店先のガラス玉を覗き込んで目を細めた。


「……でも、そんな答えで町の人が、君が、納得してくれるはずなかった。当たり前だよね。金持ちが貧民に当てこすって恩着せがましく人助けをするのか、と君は言った。そう映っても仕方のないことだよ」


「……すみません」


 おじさんは店を手放す代わりに、莫大な治療費を工面できた。美海におじさんの病気のことは伝わっていたはずだが、彼女は一度も帰ってはこなかった。僕は、おじさんが実の父親かと錯覚する程度には献身的に付き添った。けれど、おじさんは2年前にこの世を去った。


 最後に、僕と沙織さんにありがとな、と言って。


「今でも町の人には良く思われていないと思う。それでもいいんだ、私。自分で決めたことだから。だけど本当に、金持ちの道楽なんかじゃないの。真剣に、君やおじさんやこの町に暖かさを感じた」


「――暖かさ」


「私が旅を始めた理由はたくさんあるけど――居場所を探していたんだと思う。自分が心温まる、そんな場所を」


 沙織さんは店の奥に進み、仰々しい柄がプリントされたタロットカードを切り始めた。


 おじさんの死後、沙織さんは海を見ながら静かに言った。


 私の妹、おじさんの娘さんとユニット組んでたんだ。mimi☆oriってね。


 僕は今でも、その時なぜあんなに泣いたのか分からない。沙織さんを責めるつもりも、香織さんを責めるつもりも、ましてや美海を責めるつもりもなかった。ただ僕の眼は泣くのを止めなかった。砂浜に粒が落ちて、波が寄せて全てを洗い流した。




 小さい頃から、天性の美女、とか、アイドルになりなよ、絶対売れる、とか言われ続けてきた。親も、学校の先生も、友達も、彼氏もそう言った。私はそれを言われ慣れ続けて、特に誉め言葉とすら思わなくなっていた。いつしか母は、躍起になって私を芸能界入りさせようとしていた。今思えば、それは私のためではなく、自分自身の自尊心のためだったのだと思う。私は東京やアイドルといった生活が息苦しいことが分かり切っていたので、適当にあしらっていた。旅に出たい、とずっと思い続けていた。


 妹は私と対照的に自己顕示欲が強く、自分のことを周りに見てほしいと願うタイプの人間だった。彼女は同じ遺伝子を受け継いで生まれ、自分だってかなり可愛いのに見向きもされないことに怒りを感じていた。そして高校を出る直前、私が芸能界に入る、お姉ちゃんは出て行って、と宣言した。私は喜び、手始めに東北へ向かった。


 両親はひどく錯乱し、私にも妹にも、もう帰って来るな、と告げた。




 さびれた旅館で香織の姿を見つけたのは偶然だった。静かで落ち着いたホテルのロビーで、テレビだけが騒々しく楽しそうだった。それは何かのバラエティで、今をときめくアイドルユニットmimi☆ori、と大きくテロップが出ていた。画面いっぱいに香織の姿が映り、美海と呼ばれた女の子は見切れていた。そのバラエティをしばらく眺めていたが、それはひどくつまらないものだった。アイドルユニットとしての番組出演なのに、しゃべっているのはほぼ香織だけだった。香織は何かにとりつかれたかのようにジェスチャー付きで大げさに騒ぎ、隣の美海はただ、うん、とか、そうだね、とか言うだけだった。共演者はそれを面白がり、美海ちゃんにもしゃべらせて、もっと美海ちゃんの声聞きたいよー、とまくしたて、そう言われれば言われるほど、香織は前に出てよくしゃべった。


 ユニットとしての寿命はそう長くはなかった。次第に、テレビに映るのは香織だけになり、しばらくするとソロとして活動します、という香織の声がスタジオから聞こえた。香織は祝福されていた。称賛され、崇められていた。神様に近い存在になっていた。


 親は私をこうしたかったのだ、と悟った。


 美海ちゃんはどうしているのだろう、と思った。


 それからしばらくして、くだらないゴシップ誌の表紙に、「元トップアイドル失明!? 原因はユニット内の不和か!?」 という見出しを見つけた。




「沙織さんは、香織さんが美海の眼を――と思っていますか」


 柊真君がぎこちなく訊いた。ずっと心の中で渦巻いていた疑問だろう。


「妹だからね、そりゃ信じたいよ。けど、その可能性はある」


 客観的に見て、ね。


 そう笑うと、柊真君も曖昧に笑い返した。


「ねえ、別れようか」


 人生は時々旅に例えられる。本当にその通りだと思う。出会いがあって、別れがあって、人々は壁にぶつかりながら歩き続ける。


「嫌です」


 いつかは、終わりがやって来る。私が目的地を見つけたように、香織が頂点に上り詰めたのと同じように、柊真君と美海ちゃんは原点へと帰ってきた。


「柊真君は純愛を取り戻すべきだよ」


「でも」


「この町に、たったひとつしかない映画館。そこでデートをしよう。今度の金曜日」


 それが最後になるだろう、と思っていた。


「香織が主演の恋愛映画なんだ。こんな田舎でも上映されるなんて、ほんとにすごいよ、私の妹は」


 柊真君は何も答えなかった。


 足音が聞こえる。この家の、主が帰ってきた。


 彼女は、父親が死んだことを知っている。私が父親の店を引き取ったことを知っている。私が香織の姉であることを、知らない。




 確証はなかった。僕も毎日図書館に勤めているわけでもないので、入れ違う可能性は充分にあった。けれど、美海はきっと最終日に本を返しに来る、そんな確信があった。そしてその予想は的中した。美海は2週間前と同じように、僕と対峙した。


「……面白かったですか」


 返事はない。僕は諦めながら、バーコードにかざす。


「これで返却が完了しました」


 小さな声で、美海が言った。


「昔を思い出した」


 いい意味だと思いたかった。けれど美海の頭の中が、あの時と同じように分からない。


 脈絡なく、美海は続けた。


「……付き合っていたひとがいたの。彼も暴力的なひとだった」

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