第2話 Important Things
「んしょ、んしょ、んー?」
沙織さんは、夏原商店の奥の物置で屈みながら、それを探していた。
「確かここにしまったと思ったんだけどなぁ……あ、あった!」
彼女が嬉しそうに見せてくれたそれは、大きなサイズの有名な女性用雑誌だった。表紙を飾っているのは、美海と、美海のパートナーだ。
「香織にも問題はあったと思うよ。いや、厳密に言えば、そういうのって本人たちではなくて、プロデュースとかマネジメントとか、そういう話になっていくんだろうけど、それでも香織に問題はあると思う。だって2人は、パートナーだったんだもん」
ふう、と息をついて沙織さんは振り向く。その端正な顔は、今日のような汗ばむ陽気でも一点の曇りも見せない。麦わら帽子を目深にかぶり、にいっと笑った。
「でも、まさか美海ちゃんがこの町に帰ってくるなんてねー、私のこと、良く思ってないでしょう。思われるわけないよね」
「沙織さんと香織さんは、関係ないですよ」
「ねぇ、
息をのむ。僕のファーストキスは、ほかでもない沙織さんだった。後悔の念なんて生じるはずがない、僕にはもったいない相手だ。けれど僕は、あの時美海を引き留めて、抱き寄せて、口づけをしたかったんだということを憶えている。町を出ていく前の美海について、僕は誰にも詳しく話していないのに、沙織さんにはなぜかわかってしまう。年齢不相応な麦わら帽子も、彼女にかかれば一流のファッションだ。
「僕は沙織さんが好きです」
「ありがと」
でも沙織さんは知っている。僕が一番好きなのは、沙織さんではなく美海であることを。沙織さんの瞳は風と一緒に穏やかに揺れていて、あの頃の美海の熱のこもった瞳とは対照的だった。
「私、この町を出ていく」
初めてその言葉を聞いた時、遠くに買い物でも行くのかと思った。今思えば間抜けな話だ。僕が平易な小説やテレビゲームにはまっている間、美海は真剣に自分の人生と向き合っていた、僕には想像もできないスピードで、大人になっていた。
「なんだよ、欲しいものでもあるの?」
「私の欲しいものは、ここでは手に入らない」
「え――」
美海の両眼が、熱を帯びながら輝いていた。
この子が生まれたときね、瞳が海みたいだったの。この町の、綺麗な海の色。
おばさんの言葉をふいに思い出した。
「一次オーディションに受かったの。次は東京である」
「オーディション……なんだよ、それ」
その言葉は、モールス信号みたいな機械的な暗号のように聞こえた。オーディション。オーディション。S・O・S、S・O・S。
「美海はおじさんとおばさんの店を継ぐんだろ? 違うのか?」
「こんな田舎町の商店なんか、すぐに潰れる。それより、私は自分の可能性を試したいの」
「可能性って……」
僕は美海の可能性について想いを巡らせた。このままこの町で静かに平和に暮らし、お互い大人になって結婚する。おじさんはとても喜んでくれて、おばさんのところにも挨拶をしにいく。そのうち子供ができて、大きくなったら海に連れていく。子供は初めての砂の感覚を覚え、はしゃぐ。あんまり遠くに行くなよ、なんて言いながらみんな笑っている。それが僕の思い描く、美海の可能性だった。けれどそれは、捕らぬ狸の皮算用というか、単なる自己満足の妄想でしかなかった。美海は、もっともっと違う場所で、もっともっと違う未来を見据えていた。
「私、アイドルになりたい」
「アイドル……」
アイドル。アイドル。S・O・S、S・O・S。
「何言ってんだよ、おばさんが亡くなってから、おじさん一人で切り盛り大変じゃないか。おじさんを見捨てるのか」
語気が荒くなる。本当は、僕を見捨てるのか、と言いたかったのかもしれない。
「……柊真」
「確かに美海はきれいだ。次のオーディションも受かるかもしれない。でも東京だなんて、アイドルだなんて、僕たちからすれば全く未知の世界だ。そこにはここほど光も当たらないだろうし、海もないだろ。人もここより、ずっとずっと多くて窮屈だよ、美海。なぁ、ここにいようよ。今の生活だって楽しいだろ?」
「人生は一度きり。お母さんが死んでそう思うようになったの」
おばさん。美海のおばさん。美海のおばさんならなんて言うだろう。
「この町では体験できないような、全く別の世界があの街にはある。私は広い世界で、自分がどこまでやれるか試したいの」
「そんな必要、ないよ」
「どうして柊真が私の人生を決めるの」
「そ、そんなつもりじゃ――」
美海の人生設計において、僕は単なる不随した存在だった。僕は彼女を、文字通り伴侶、ずっとそばにいてくれる人だと思っていたのに。
「……さっきのは嘘。もう三次審査まで通ったの」
「へ……?」
「芸能界入りはもう決まってる。明日には東京に行って、事務所でプロデューサーさんから話を聞くの。柊真の反応を見たくて、嘘をついただけ」
目の前が真っ暗になった。眩暈がする。
「……それ、おじさんは」
「知ってる」
「嘘だ……」
「柊真なら、応援してくれると思ったのにな」
美海が背を向けた。長い黒髪が、風になびいた。
「さよなら」
僕は半狂乱になりながら、夏原商店へ急いだ。けれどそこに美海の姿は見えなかった。
「美海、美海、美海……!! あ、お、おじさん!」
おじさんは何も言わずに、目だけでおう、と言った。
「お、おじさん、美海のオーデションのこと……」
舌が回らなかった。
「ああ……」
おじさんは僕の言葉を手で遮った。みなまで言うな、とでも言いたげに。
「中、入れや。茶でも飲むか」
客は誰もいなかった。いつもの光景だった。
そこに美海がいないこと以外は。
「大事なことは、あいつが何をやりてえかってことなんだと思うんだよな」
「でも」
「柊真、お前と美海は幼馴染だから俺はお前のこともよっく知ってる。お前は小説が好きだ。静かな場所が好きで、大人になったら自室から海を眺めながら小説を書きたいと思ってる」
そんなこと、誰にも言ったことなかったのに。
「小説家っつうのは厳しい世界だ。一発当てるのも相当難しいのに、それだけじゃあ食ってはいけねぇ。自分の書きてぇものも書けねえ日が来るかもしれねえ。自分の伝えたいことと、読者の求めるものがまるっきり逆かもしれねぇんだ。それでも、お前が小説家になりてぇと言えば親御さんは応援してくれるだろう。それと同じ話だ。お前は小説家になりたい、あいつはアイドルになりたい、だから応援する」
おじさんの頭には、もうほとんど髪が残っていなかった。ふさふさの髪の毛は、おばさんがいなくなってから――まるでおばさんの所有物だったかのように見る見るうちに消えていった。
「おじさんの、店は」
「俺は女房と店を開きたかった。だが女房のいねえ今、あいつの言う通り先は見えてる。残念な話だがな」
「僕も手伝うよ、3人でやればなんとかなる」
おじさんは静かに首を振った。
美海は翌日、船に乗って東京へと向かった。
もう、7年も前の話だ。
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