第7話 マトリョーシカ
テスト期間が終わり、近南大学は長い春休みに入った。2ヶ月間ほどある春休みであるが、仁豊野たち研究者には休みはない。いや、結果さえ出せればいくらでも休めるのだが、そう簡単に出るものではなく、結局年がら年中研究をしなければならない。
仁豊野は春休み期間の間に、国内や海外で講演の依頼をいくつか受けていた。学会もあるため、多忙な春休みとなることを覚悟していた。
一方の手塚はというと、やはり来年度もポスドクとして研究室で研究を進めていくことになりそうだ。しかし、以前よりも熱心に研究に取り組むようになり、その姿を見て仁豊野も天童教授も陰ながら応援していた。
手塚に秘書呼ばわりされた松芝は、就活が本格的に始まるため、インターンシップや説明会とこれまた忙しそうで、春休みはあまり研究室に来られないようだ。
仁豊野はAIについての講演のため、中国にいた。
「はじめまして、仁豊野新です。今日はどうぞよろしくお願いします。」
仁豊野はコネクトームプロジェクトの他に、記憶の保存についての研究をしているが、この技術はAIの開発に利用できる可能性があり、講演では主にこうしたAIについての依頼が多い。
「みなさんは、AIについてどのようなイメージがありますか?素晴らしい技術、便利なもの、といったイメージですか?それとも、怖いもの、恐ろしいものといった、ネガティブなイメージですか?近年のAI開発は急速に進んでいますが、それでもみなさんは一般人には扱えない高度な技術だと思っていませんか?いいえ、AIは、既に僕たちの身の回りに溢れています。例えば・・・」
講演が終われば帰国し、直ぐに国内の学会や講演もある。空いた時間で博士論文のための研究も進めなければならない。しかし、そんな多忙な中でも、いつも仁豊野の頭の中には一つの心配事があった。ワトキンズ教授だ。
最後にメールを送ってから、既に1ヶ月が経過しようとしている。ワトキンズ教授の身に何かあったのか、ワトキンズ教授のもとに入った泥棒と何か関係はあるのか、仁豊野はいつも頭の中でそういうことを考えていた。
「仁豊野君、お帰り。」
「天童教授、お疲れさまです。」
日本に帰国した翌日、仁豊野は研究をするために近南大学の研究室にいた。明後日にはまた東京で、これまたAIについての講演をしに行かなければならない。国内外を飛び回る仁豊野であるが、これでもまだ学生である。
「中国から帰って来たばかりだというのに、今度は直ぐにまた講演か。大変だね。」
「ええ、まあでも必要としてもらえることは有難いですよ。その前に、少しやっておきたいことがありまして。」
「やっておきたいこと?」
「はい。まあ、まだ計画を立てるだけですけど。そのうち、記憶のマッピングをしようとおもうんです。」
「どういうことだね?」
「記憶は海馬でつくられますが、貯蔵する場所はあまり分かってませんよね。ペンフィールドの実験から側頭葉が一つの貯蔵場所と考えられますが、正確なことは分かってません。また、大脳基底核には手続き記憶が貯蔵されているというように、長期記憶でも貯蔵場所は異なると考えられます。そこで、どの記憶がどの部分に貯蔵されているのかをマッピングしようと思ったのです。」
「なるほど。つまり、貯蔵場所ごとの記憶と脳の構造を一つ一つ調べることで、その情報をもとに模擬的な脳をつくるということだね?」
「そうです。まあ、詳しい方法や計画はこれから考えます。」
そう言って、仁豊野は研究室に籠って一人論文を読み漁った。
気が付けば外は真っ暗になっていた。もう夜の10時を過ぎていた。仁豊野は下宿先に帰り、昼過ぎには東京へ向けて出発しようと考えた。
仁豊野の下宿先は大学から徒歩で15分ほどのところである。基本的には徒歩で通学している。夜の道を一人歩いていた。この辺りは夜10時にもなると人通りが少なく非常に静かである。今度の講演では何を話そうか、そんなことを考えながら歩いていたが、下宿先まであと半分ぐらいのところでなんとなく後ろを振り返った。いや、人の気配がしたのだ。
( 気のせいか・・・ )
特に誰か人がいたわけではなさそうであった。
部屋は2階建てアパートの端で、アパートの住民のほとんどが近南大学の学生である。隣もそのようだが、恐らくそれも3月末までだ。というのも、隣の住民が引っ越して来てから3年以上、もうすぐ4年が経つ。順調にいっていれば、なおかつ近南大学大学院に進学しなければ、今年で卒業だからだ。時の流れに感慨深さを感じつつ、仁豊野は部屋のドアを開けた。
間取りは学生マンションらしく6.5畳のフローリングの部屋に、トイレとキッチンとユニットバスが付いている。
「晩ご飯は・・・、まあ、明日食べればいいか。」
食生活はいつもこんな感じである。生活力は限りなく乏しい。四六時中研究のことを考えているためである。
結局、シャワーを浴びてそのまま寝てしまった。
翌日、仁豊野はこのところの疲れもあり起きたのは昼前であった。朝昼兼用のカップ麺を食べ、2時頃に東京へと出発した。
新幹線で東京駅に着いたのは夕方5時を過ぎた頃だった。
講演以外特に予定のない仁豊野は、少し東京駅周辺をぶらぶらすることにした。あてもなく歩いていると、何やら嫌な予感がした。
( 誰かがついてきている!? )
思わず振り向き、さらに辺りを見回すが、あまりの人の多さによくわからなかった。
( また気のせいか・・・。 )
そう思ったが、ここ最近よく尾行されている気がするので、仁豊野は急いで予約していたホテルへと向かった。
しかし、仮に尾行されているとして、そもそも尾行される理由は何なのか、そして、それとここ最近の泥棒騒ぎには関係があるのか、あるとすればやはり研究についてなのか、仁豊野はホテルに着いてからしばらく考えていた。
「今後もこうした課題を解決し、よりよい未来のために精進していきます。みなさん、ご清聴ありがとうございました。」
翌日東京のとある大学で行われたAIについての講演は好評であった。仁豊野が話終えると、会場内は盛大な拍手に包まれた。
しかし、仁豊野の頭の中は考え事でいっぱいであった。
一つはやはり尾行されているのか、そしてそれは研究と関係があるのかということである。
さらにもう一つ、仁豊野はワトキンズ教授のもとで最新の研究成果について話を聞いてから、ここ最近の宇宙の話題とダークXについて、共通点があることが非常に気がかりであった。というより、仁豊野はその共通点から導きだされる一つの可能性を否定し続けていた。しかし、その可能性を一つの仮説として提唱すれば、ダークXの謎と宇宙の謎について説明できてしまうのだ。
帰りの新幹線の中で、仁豊野は自らも未だ完全に受け入れられていないこの仮説を、天童教授と手塚に話すことを決めた。
「今日は突然呼び出してすいません。」
東京の講演から帰って来た仁豊野は、研究室に天童教授と手塚を集めた。
「おい仁豊野、一体何なんだよ。」
「手塚さん、教授。今日は僕の、この世界の事実を完全に覆す理論を提唱します。」
「仁豊野君、それは一体?」
天童教授も手塚も、真剣な眼差しで仁豊野を見つめた。
「その前に、前にワトキンズ教授のもとへ行ったときに聞いた、ダークXに関する最新の研究についてお話しします。現在、ダークXはワトキンズ教授以外に発見していません。また、ダークXは黒く、中心に向かって細胞質を飲み込んでいく様子が確認されています。」
「確か、不要物除去機能であると考えられるんだよね?」
教授は深く頷きながら、確認するように仁豊野にたずねた。
「はい。しかし、このダークXについて、ワトキンズ教授の更なる観察により新たな説が浮上しました。それは、飲み込んだ物質は体積が無限に小さくなるという説です。」
「無限に!?」
「そうです。この話を聞いたとき、ダークXと同じような存在のものについて、僕は一つ心当たりがありました。しかし、このときはまだたまたま似ているだけだと思っていました。ですがその後、たまたまだと思えなくなることが起こり続けました。そのきっかけとなったのが、ワトキンズ教授の行ったある実験です。ワトキンズ教授は、ダークXに飲み込まれた細胞質は体積が無限に小さくなるということを確認するために、ダークXの周辺に着色した細胞質を注入する実験を行いました。それも、12月の中旬のことです。そしてその1ヶ月後、0.08光年先に新たな星を発見したというニュースがありました。計算すると、星が誕生したのはその1ヶ月前、つまり、ワトキンズ教授が最初に細胞質を注入する実験を行った時期です。」
「それがどうしたんだよ?」
「手塚さん、前に手塚さんが言っていたこと覚えてますか?」
「前に言ったこと?」
「ネットで騒がれてるとか何とかっていうあれです。」
「あー、宇宙と神経細胞が似ているっていうあれかー。あれが一体何なん・・・、おい、まさか!?」
手塚は目を大きく開け、仁豊野を見つめた。
「はい、最初は僕も考えたくありませんでした。ですが、そう考えると辻褄が合うんです。つまり、ワトキンズ教授が注入した着色された細胞質が誕生した星であるということです。これにより、ある仮説が立てられます。それは、ワトキンズ教授が発見したダークXが存在するアストロサイトこそが、この地球が、太陽系が、銀河が存在する宇宙なんだという仮説です。
これが、世界の真の姿なんです。」
しばらく誰も何も言わなかったが、あわてて手塚が口を開いた。
「ちょっと待てよ!やっぱりそれはめちゃくちゃ過ぎないか?あり得ねーよ、だいたい宇宙は無限に大きいんだぜ?」
「ですが、他にもここ最近の宇宙の異変について説明できます。」
「他の異変って何なんだよ?」
「太陽活動の低下です。」
近年、太陽活動が低下していることは何度もニュースに取り上げられていた。そのことについても、仁豊野は考えていた。
「太陽活動の低下、すなわち、太陽の温度の低下は、宇宙全体の温度の低下によるものと考えられます。」
「宇宙全体!?」
仁豊野は研究室のホワイトボードの前に立ち、ペンを走らせた。そして、書き終わると再び二人に向かって話し始めた。
「現在、依然として太陽活動は低くなっています。1月の観測の時点で10ヶ月連続で黒点が観測できていません。仮に例のアストロサイトが宇宙であったとすると、こう考えられます。観察するためアストロサイトをマウスから取り出したことで、アストロサイトの温度が下がり、その結果宇宙の温度が下がり、それにより太陽の温度も低下した、と。」
「ちょっと待ってくれ!宇宙ったって、相当温度は低いはずだぞ!それに比べてマウスの体温は39℃だ。つまりアストロサイトがまだ取り出される前は、30℃以上あったはずだ!だが宇宙はそんなに温かくなかった!」
仁豊野は手塚に落ち着くようにジェスチャーを送り、話を続けた。
「確かに、手塚さんの言う通りです。ですが、アストロサイトを取り出した時期と太陽活動の低下が顕著に現れた時期は重なっています。これだけではありません。仮に例のアストロサイトを宇宙としたとき、もう一つ謎が解けます。ダークXです。ダークXの特徴を思い出してください。」
ここまで静かに聞いていた天童教授が、はっとしたような様子を見せ、答えた。
「ブラックホールだね!?」
「そうです。ブラックホールは極めて大きな密度により強力な重力が発生したものです。あまりに強い重力のため、あらゆるものを中心に向かって飲み込んでいきます。さらに、飲み込んだものはその強力な重力によって、体積が無限に小さくなっていきます。一方ダークXも、同じような特徴が考えられています。まさに、ブラックホールそのものです。」
「仁豊野君、つまり君は、我々の存在する宇宙はたった一匹のマウスの脳にある細胞であるということを言いたいんだね?」
「はい。まさにマトリョーシカのようなものです。宇宙の中に宇宙が存在し、その中にも同じ宇宙が存在するのです。この奇妙な構造こそが、宇宙の、世界の、本当の姿です。」
再びしばらくの間沈黙が続いた。当然である。こんな仮説を、一体誰が思いつくだろう。
この沈黙を破ったのは教授であった。
「仮に君の仮説を正しいとすると、ここ最近の泥棒騒ぎも説明がつくよね?」
「はい。なぜなら、あのアストロサイトを手に入れるということは、文字通り宇宙を手に入れるということです。そしてあのアストロサイトが宇宙であるということに気付けば、世界中の国が、組織が、血眼になって探しだし手にいれようとするはずです。恐らく、いくつかの組織はこの事実に気付いている。」
手塚は何かに気付いたかのように突然大きく目を開き、仁豊野に近寄りながら答えた。
「つーことは、俺たちも危ねーんじゃねーか!?どこかの組織から狙われてるかもしれねーってことだろ!?」
「そうですね。僕たちだけではありません。世界中の神経科学者は、ダークXと通じていたり、重要な情報を持っている可能性があると思われているはずです。恐らくここに泥棒が入ったのも、ダークXやコネクトームに関する情報を手に入れるためだろうと思います。そして、今最も危険なのは、ダークXを所持しているクレイグ・ワトキンズ教授です。」
「仁豊野君、そのワトキンズ教授とはその後連絡はとれたのかい?」
「いえ、あれからまだ連絡がとれていません。」
「てことは、やべーんじゃねーか!?ワトキンズ教授は誰かに連れ去られたんじゃねーか!?」
手塚はこの信じられない話を冷静にしている仁豊野に少し苛立ちながら、声をあらげた。
しかし、仁豊野はやはり冷静に話を続けた。
「恐らくそう考えられます。つまり、もうすでにダークXと宇宙の関係について気付き、手に入れた組織がある、ということです。」
「仁豊野君、もしそうだとするとワトキンズ教授は・・・。」
滅多に動揺なんてしない天童教授も、さすがにかなり動揺していることがうかがえる。
一方の仁豊野は、相変わらず冷静である。仁豊野は再びホワイトボードを使って話し始めた。
「一体誰がワトキンズ教授を捕らえているかは分かりませんが、恐らく無事です。なぜなら、あのアストロサイトが宇宙だなんて、ただでさえありえないような話です。僕だってずっと考えていましたが、今でもまだあまり信じられていません。つまり、ダークXを手に入れてもそれが本当に宇宙なのかは確かめないと分かりません。となると、ダークXを手に入れても、まずはそれが本当に宇宙だと確かめようとするはずです。」
「つまり、ダークXを手に入れても、ワトキンズ教授が必要だということかね?」
「その通りです。しかしそうだとすると、ワトキンズ教授を捕らえている組織、長いので組織Aとすると、組織Aは何らかのアクション、つまり実験を行うはずです。」
「それはつまり、アストロサイトが宇宙かどうかを確かめるためだね、仁豊野君?」
「そうです。」
「では、一体どういう実験を行うと思うんだい?」
「細胞質を新たに注入し、星の誕生を観測するという方法もありますが、星は光が地球に届くまで観測できません。いち早く確かめたいなら、太陽活動の意図的な操作です。つまり、あのアストロサイトを保存する環境の温度を変化させ、太陽活動が変化することを確かめるということです。」
「ちょっといいか?もしそれが本当に宇宙だったとして、それを手に入れるってことは・・・」
手塚はどうやらこの一連の話に少し置いていかれそうになっていたようだが、あわてて仁豊野にたずねた。
「先ほども言いましたが、文字通り世界を手に入れるということです。あのアストロサイト・・・、これもめんどくさいのでUアストロサイトとしましょう。つまり、Uアストロサイトを手に入れた組織が、世界の実権を握ることができるということです。もはや宇宙を手に入れた組織に歯向かうことなどできません。」
「仁豊野君、だとするとこのままいくと今後世界は組織Aによって動かされるということだね?」
「冗談じゃねーよ!そんなこと許されるわけねーだろ!」
「もちろんです。ですが、一体どうすればいいのか。」
「仁豊野君、手塚君、今日は少しこのことについて考えてみよう。手塚君も少し落ち着いてね。」
「天童教授、すみません。こんな話に巻き込んで。」
「まあ、私もあまり信じられていないんだがね。ただ、君は今まで冗談なんて言ったことがなかった。これも、君が真剣に考え続けた結果導き出した仮説だ。しかもそれを裏付ける現象もいくつも起こっているんだ。とにかく、みんなで考えてみよう。それから、このことは絶対に口外しないように。」
天童教授がそう言ったまさにその時、研究室のドアが勢いよく開いた。
研究室の3人は驚いて体を硬直させていた。入ってきた人物は、見覚えのある顔であった。
マトリョーシカ 低山狭太 @a_orizae
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