3-3 復讐の天使

 空には雲ひとつなかった。遮るもののない日差しは容赦なく地上に降り注ぐ。

 寄せてはかえす青い波を横目に、アルは先を急いだ。潮の香りにまじって時折、手にしたユリの花束の甘い香りが鼻をくすぐる。

 砂に足元をすくわれ、砂浜を行くアルの体は右に左に揺れた。足は確かに前へ出しているのだが、先へ進んでいるのかどうか怪しい。面倒なので靴は途中で脱ぎ捨ててしまった。

 砂の一粒一粒は指の間をすりぬけていくほど微小であるのに、互いに手をとりあうと巨大な岩のように行く手を阻む。踏み出した足がゆっくりと砂地に沈んでいく感覚はまるで地獄に飲み込まれていくかのようだ。あがくとかえって足を取られる点でも、砂浜と地獄は共通している。

 女は、白のビキニ姿でビーチベッドに横たわり、日光浴を楽しんでいた。ほどよい肉付きの体をおしげもなく披露している。ブロンズ色に輝く長い手足が艶めかしい。

「ジョンストン夫人。それとも、シスター・ローザと呼んだほうが?」

 顔の半分を覆わんばかりのサングラスの縁から青い瞳の満月が昇った。太陽を背に立つアルをまぶしげに見つめる女の瞳が三日月ほどに細くなった。

 長かったブロンドの髪は短く切られ、ブルネットに染められている。だが、マイアミビーチの海よりも空よりも青いその瞳の持ち主は、死んだはずのジョンストン夫人に違いなかった。

「シヴィルよ、神父さまファーザー

 ジョンストン夫人、いやシヴィルの口調は軽やかだった。最初こそ捨てたはずの名前を呼ばれて驚いたものの、呼びかけた人間が顔見知りのアルだとわかると、懐かしそうに目を細めた。

「どうぞ、アルと。僕が神父の役をしていた芝居の幕はもうあがりましたから」

「私、あなたの神父役、気に入ってたの」

「脚本を書いたのはあなたでしたね」

「証人保護プログラムで保護されているのに、よくここがわかりましたのね」

「金の流れを追いました。そうしたらここにたどりついた――」


 夫人の墓参りをした際、シスターから夫人の母親も自殺だったと聞かされ、ふとある考えが浮かんだ。

 夫人は生前、自分の死後、資産は教会に行くように取り計らってあるとアルに漏らしたことがあった。もしかしたら、夫の犯した罪を償うがごとく、夫人は自らの命を絶ってその遺産を教会に捧げたかったのかもしれないと思ったのだ。

 夫人の遺産が教会にわたったのではないかと尋ねるとシスターは首を横に振った。

「いいえ。確かにあの子は慈善活動に熱心で、この教会にも多額の寄付をしてくれましたけれど、遺産どうこうということはありませんわ」

「しかし……」

 そうだ、正確には教会ではなく、母親がわりだったというシスターに、だった。

「母親がわりに面倒をみてくれたシスターにすべての資産を譲ることにしていると聞きましたが。あなたがそのシスターでは?」

 すると意外な答えが返ってきた。

「あの子の面倒をみたというシスターでしたら、シスター・ローザですね。彼女でしたら亡くなりました。十年も前も昔ですわ」

 これ以上関わるなという心の声を無視して、アルは夫人の遺産の行方を調べた。

 夫人の遺言により、信託が設立されていた。受託者トラスティーはシスター・ローザ、受益者ベネフィシャリーには、教会や慈善事業団体が名を連ねている。だが、それらの慈善事業団体のうち、いくつか実態の不明なものがあった。名前だけで実際には何の活動も行われていない。それらの団体には共通点があった。代表者はすべて、マイアミ在住の女性。それがシヴィル・マッケイだった。


「それは?」シヴィルは目ざとく、アルが手にしたユリの花束をとらえた。

「あなたにです」

「まあ、いい香り」

 顔ほどはあろう大きさのユリに鼻を近づけ、シヴィルは香りに酔った。

「ユリは大天使ガブリエルの象徴です。受胎告知の際にもユリを手にしている。大天使ガブリエルは復讐の天使でもある……。あなたは復讐のため、僕を利用した――」

「あなたはもうすべてを知ってしまったのね」

 サプライズパーティーの計画が台無しになってしまったと言わんばかりに、シヴィルはブロンズの肩をすかしてみせた。

「私たちは――」

「私たち?」

「私とノーマン弁護士。いいえ、ノーマン捜査官と言うべきかしら。連続少女暴行殺害事件に関して、FBIはずっと犯人を追っていました。そしてついにジョンストンの存在を突き止めました。でも彼を追い詰めるだけの証拠がなかった」

「だから罪喰いを利用して自白を取ろうと思いついた。あなたのアイデア?」

「ええ。罪喰いの存在は聞いて知っていましたから。私の影響でカソリック信者となったジョンストンに自白をさせるには、告解をするのだといえば説得しやすかった」

「あなたの姉は、父親に殺されたのではない。実は連続少女暴行殺害事件の被害者だと知ったのは?」

「二十一の時。自分の不幸な生い立ちについてはシスター・ローザから聞いて知っていました。姉が父に殺されたことも、母が自殺したことも。姉にとっては血のつながりのない父ですが、私にとっては実の父親です。私は父と正面から向き合おうと決心しました。それまでの私は、姉を殺し、間接的に母を殺した父を憎むばかりでした。シスター・ローザは、私に父を憎むのはやめなさいと忠告してくれました。そんなことをしても、失われた過去が戻るはずもない、憎しみはあなたの生を蝕むだけのものだと。それで、私は父に会うことにしたのです。和解できるかどうかはわからなかったけど、一歩前に踏み出すにはそうする必要があると思ったので。

 父は……すっかり年老いていました。私が生まれる前に逮捕されてしまったので若い頃の父を知るわけではないけれど、きっとハンサムだったのでしょう。面影は少し残っているものの、私ぐらいの年齢の子どものある年には見えませんでした。父というよりは、祖父といったほうがしっくりくるようなやつれぶりでした。

 父は私に会うなり、涙をこぼしました。私が母に似ていると言って。そして姉にも……。父は、姉を殺していないと言いました。逮捕された時から父が無実を訴えていたのは知っていました。でもそれは言い逃れだとばかり思っていました。でもそうではなかった……。父は、犯人が姉の死体のそばにいたところをたまたま通りかかっただけだったのです。そして犯人にされてしまった。父と姉とは折り合いが悪かったせいで、父が姉を殺したと警察は頭から決め付けたそうです。父は犯人の顔をみていました。そう言ったのに、警察は父の訴えを無視した……」

「目撃した人物はジョンストン」

 シヴィルは悔しそうに唇を噛んでうなずいた。

「最初、父は自分が目撃した男の正体がジョンストンだとはわからないでいました。中年の男とだけしか記憶していなかったらしいですが、もう一度会えば名指しできるほど犯人の顔が焼き付いたそうです。ある時、新聞でジョンストンの写真を見て、自分が目撃したのはこの男だと気がついたそうです。姉の死体を車のトランクからひきずりおろそうとしていた中年の男、みなりこそ写真では立派だが、間違いなくジョンストンだと。

 その話を聞いた時、初めは信じられませんでした。ディヴィット・ジョンストンといえば、物流王として名をはせていた人物です。そのジョンストンがなぜ姉を殺さなければならないのか。でも父の妄想とも思えませんでしたから、私はジョンストンに近づいていろいろ調べてみることにしました。そしてジョンストンが姉を殺した犯人だと確信したのです。私は、姉の命を奪い、母を自殺に追い込み、父を陥れて、私が得るはずだった幸せな家庭を壊したジョンストンに復讐すると決意しました」

「ノーマン捜査官とはいつ?」

「はじめ、私はひとりで復讐を遂げるつもりでいました。ジョンストンと結婚したのも復讐の機会をそばでうかがうためでした。FBIが連続少女暴行殺人事件で彼を追っているとは結婚してから知りました。あちらから私に接触があったのです」

 新婚の若い妻になら寝物語に昔の殺人事件を告白するとでも思ったのだろうか。FBIはよほど切羽詰っていたとみえる。それとも、シヴィルの美しさに惹かれたノーマン捜査官が先走ったのだろうか。

「FBIは、自白を欲しがっていました。私に隠しマイクをつけて、それとなく事件についてしゃべらせるよう仕向けてくれないかと頼んできたこともあります。私ははじめ、殺してやろうかと思っていたのだけれど、次第に、世間のさらし者にして罰を受けさせようと思うようになって……」

 ジョンストンの罪の告白を得るために、罪喰いことアルが表舞台に登場させられることになった。

 利用されたとわかっても、アルは何とも思わなかった。罪喰いを利用して人が何をしようと、無関心でいられた。しかし、ひとつだけ気になることがあった。

「トムじいの罪喰いをビデオに撮影して、偽の地獄の入り口をしかけたのは?」

「罪喰いをしないと地獄に堕ちるとでも思わせないと罪喰いに応じないかもしれないと思ったから」

「随分都合よく、罪喰いの様子のビデオが撮影できたものですね。あの日、トムじいが事故にあわなければ――」

「ただの偶然だわ」

 こともなげにシヴィルはさらりと言ってのけた。利用した道端の石がその後どうなろうと知ったことではないと言わんばかりの冷淡さだった。

 トムじいを撥ねた車はスピードを出していたという。乗っていたのはノーマン捜査官か。

 FBIはシヴィルを利用したつもりでいただろうが、利用されていたのはFBIの方だったのかもしれない。

 ジョンストン逮捕に協力した彼女は、証人保護プログラムによってまんまと姿を消し、シスター・ローザに身を変えて、ジョンストン夫人の遺産を受け取った。それだけではない。疑心暗鬼にかられて書き変えられたジョンストンの遺言により、信託の受諾人としてジョンストンの巨額な資産をすべて受け取ってもいる。今は、シヴィル・マッケイとして昼間からビーチでのんびりする生活を謳歌する毎日だ。ジョンストンは死んだのだから、復讐も遂げたことになる。

「パメラ看護師のことは?」

「知らなかったわ。知っていれば、何かしてあげられたでしょうが」

 シヴィルは残念がるようなそぶりをしてみせたが、それは嘘だった。パメラは誰かによってジョンストンが娘を殺した犯人だと知らされ、ジョンストンのもとへとやってきた。呼び寄せたのはシヴィルだろう。ジョンストンのそばにいれば復讐心がたきつけられて何かしでかすだろうと、同じ被害者遺族としてその心理状態を知るシヴィルはパメラの復讐心も利用しようとしたのだ。

「彼女のほうでは気づいていたようです。あなたがヒ素を盛っていたことに。でも黙っていた。そしてあなたの罪を背負った――」

 ヒ素を盛っていたとアルが知っていたので、シヴィルは動揺したようだった。だがそれもほんのつかの間だった。

 パメラがジョンストンの看護師として派遣される前から、ジョンストンの健康状態はおもわしくなかった。それはシヴィルがジョンストン夫人としてヒ素を盛っていたからだ。ヒ素を盛られていると知ってからジョンストンは医者と看護師パメラ以外は近づけようとせず、シヴィルはヒ素を盛る機会を失ってしまった。しかし、シヴィルが睨んだ通り、思わぬところでパメラの復讐心に火がつき、シヴィルの手足としてパメラが動き、ヒ素を盛り続け、ジョンストンを死に至らしめた。

「本当に、かわいそうなことをしてしまいました。あの方、いずれ地獄に?」

「ええ」

「……私も落ちるのかしら、地獄に」

 シヴィルは伏し目がちに尋ねた。恐怖というよりは好奇心から尋ねたようで、怯えたところがまったくなかった。

「その時は僕を呼んでください」

 アルはそういって立ち去ろうとした。

 それまでさえぎられていた太陽の光をまともに顔にうけて、シヴィルは手をかざして日差しを遮った。細めたブルーの瞳はイノセントな輝きを放って美しかった。

 さんさんと降り注ぐ太陽、どこまでも青い空と透き通る海。地上の楽園で生を謳歌するシヴィルは、自分が死に臨んで罪を悔いる日が来ようとは想像もつかないようで、天使の微笑みを浮かべているばかりだった。その笑顔は不思議とサタンの美しい笑みと重なるのだった。

「あなたには僕が必要だ。いつか僕が必要になる日がきっとくる――」


 ゴージャスな体を惜しげもなく晒して若者たちはビーチバレーに興じていた。

 彼らは死を恐れていなかった。まぶしい太陽に照らされて、若さと美は永遠に続くものと思っている。逆に若さと美とは儚いものと知っているからこそ、彼らは今この時の愉楽に貪欲になるのかもしれない。

 砂浜を器用に歩く若者たちを見ていると、アルはどうしようもなく不安にかられる。

 この砂浜のどこかでサタンが自分の手の中に落ちてくる獲物に狙いをつけている――そんな気がしてならないのだ。

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罪喰い -Revenge- あじろ けい @ajiro_kei

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