3―2 孤児
ニューヨーク、マンハッタン。ダウンタウンのとある一角に、ジョンストン夫人が幼い頃を過ごした教会はあった。洒落たカフェや個性的な店がすぐそばにひかえているというのに、ネオゴシック様式の教会に一歩足を踏み入れると、祈りのための静謐が迎え出てくれる。
アルは教会を抜け、裏手へとむかった。夫人の亡骸は遺言によって教会の裏手にある墓地に埋葬されていた。
季節は春から夏にむかいつつあった。青々とした芝の間に、腰ほどの高さの石碑がまばらに並んでいる。墓地の隅には巨木があり、緑の葉を一面にまとっていた。
夫人の石碑は真新しい分だけ、周囲から浮き上がっていた。表にはガブリエル・ジョンストンとあった。生年月日と死亡年月日が刻まれている。まだ三十三歳の若さだった。墓の前にはしおれた花束がいくつも置かれてあった。慈善活動に熱心だった夫人を慕った誰かが置いていったものだろう。アルはしおれた花束を手に取り、もってきた白バラのブーケを墓前に供えた。夫人の好きな花を知らなかったが、何となく清楚な白い花が似合う気がしたからだ。バラは貴婦人らしい佇まいの彼女にもっともふさわしかろうと選んだ。嫋やかに見えて実は強いバラは、犯罪者の夫を支え続けた芯の強い彼女にぴったりだった。
「きれいなお花をありがとうございます」
背後から穏やかな調子の女の声がした。年老いた
「ガブリエルのお知り合いの方でいらっしゃいますの?」
おっとりとした物腰、丁寧な口のきき方が夫人にそっくりだった。母親のようだとアルが思ったのも無理はなかった。夫人は孤児としてこの教会で育てられたと言っていたから、自然とシスターたちのような柔らかい物腰が身についたのだろう。
「ええ、まあ」
アルは口を濁した。熱心なカトリック信者であった夫人が、禁忌である罪喰いを依頼したのだとは到底言えるものではなかった。
幸い、シスターは、アルと夫人の関係を詮索しなかった。
「結婚してここを出ていったのはついこの間とばかり思っていましたのに、こんな形で戻ってくるだなんて……」
「娘」として養い育んだ夫人が、よもや自殺して果てるとはシスターも思っていなかったのだろう。言葉のはじに悔しさがにじんでいた。
カソリックでは自殺を強く戒めている。熱心なカソリック信者であった夫人がそれを知らなかったはずはない。それなのに、どうして自殺という死を選んでしまったのか。アルは悔しかった。自殺そのものが罪であるから、夫人の魂は地獄に堕ちてしまった。アルを呼んで罪喰いをしていたら堕獄を回避できたかもしれないというのに夫人はそれをしなかった。夫人を救えたかもしれないとおもうと、アルは悔やんでも悔やみ切れない思いで胸がいっぱいになった。
「私たち、毎日あの子のために祈りを捧げていますの」
シスターはゆっくりとした動作で腰を折り、手にしていたユリの花を墓前に供えた。
「大天使ガブリエルが受胎告知の際に手にしていた花ですね。九月二十九日、聖ガブリエルの日に拾われたので、そう名付けられたのだとか」
「ええ。あの日、あの子の母親はこの教会であの子を産んですぐに亡くなりました。それで私たちが引き取って育てましたの」
「母親は、お産が原因で亡くなった?」
「いいえ……」
シスターはふうとため息をもらした。
「どういう運命なのでしょうね。あの子の母親も自殺だったのです……。あそこに大きな木が見えますでしょう。お産の後、私たちが目を離した隙にあの木で首を吊って……」
シスターの目線の先に、新緑もまぶしいプラタナスの木があった。生命力に満ちた木にそんな不吉な過去があったと知ると、美しいまだら模様の幹がとたんにまがまがしいものに見えてくる。
「かわいそうな境遇の子でした。あの子には十歳近く年の離れた姉がいたのですが、父親、といっても母親の再婚相手ですから義理の父親ですわね。その人に殺されたとかで。姉が殺された時、母親はちょうどあの子を妊娠中でした。彼女はどうしようもなく、教会を頼ってきたのです」
「そうして、亡くなった……」
「はじめから死ぬ覚悟でいたのかもしれません。でもお腹の子だけは産もうと決心していたのでしょう……」
シスターはアルの手から枯れた花束を引き取り、去っていった。
墓地には再び死者のための静寂が訪れた。アルは夫人の墓碑にそっと手を触れた。思いのほか冷たかったので、まるで熱いものに触れたようにアルは思わず手を引いた。
アルは初対面で触れた夫人の手を思い出していた。綿毛のようにみえたその手は触ると大理石のように冷たかった。もうあの手に触れることはできないのだ。あの美しい青い瞳も二度と魅力的な瞬きを放つことはないのだ。
ガブリエル・ジョンストンは死んだ。
ガブリエル・ジョンストンは死ななければならなかったのだ。
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