水
中原恵一
水
水。
水、だ……?
寒さに蝕まれた、俺の、体。
からだ、からだ……。
ここはどこ……?
俺は知らない間に記憶を失ったのか?
いや、そんなはずは……ない。
ちゃんと覚えてる。
問題は違う。思い出したくないのだ。
でももう分かってしまった。
何故寒いのかも、
何故ここに自分がいるのかも、
何もかも。
そして何より重要なこと……。
そうか、もう助けは来ないんだ。
なアんだ。
それだけ分かってればいいじゃないか。
そうだ……俺の名は、確か……。
そンなこと、この際どうでもいいのかもしれない。
妙に人生を諦観した俺は、ねっとりした海水の抵抗を感じながら仰向けに倒れ込んだ。
刹那。
俺の体がふわりと浮く。
重力が無くなってしまった。
そう思ったのもつかの間、俺は猛烈に遅いスピードで、後ろへ後ろへズブズブと沈んでいった。
寝転がるには、思いのほか時間がかかるようだ。
顔が上に向くにつれて視界は自然と開けてゆき、目の前に広がる現実の全貌が明らかになる。
視界を埋め尽くす、闇。
これ以上ないほど黒色に近い色。
それは全てが一様に黝い、暗澹とした光景――
と、言ってみても仕方ないだろう。要はそれ以外暗くて何も見えないのだ。
ここまで本当に真っ暗なのは、故郷の町に帰っても停電でもしない限り拝めないだろう。
幾ら田舎とは言え、我が町にだってちゃンと電気は普及しているし、夜になれば妖しげなネオンサインの煌めく繁華街に変身するのだから。
しかし耐圧ガラス越しに見えるのは、一インチ先も見えないほど闇が支配している世界だ。
下はどうか。
地面を踏み締めていることぐらいは、靴の裏から伝わってくる足の感覚で分かる。
砂か岩かまでは分からないが、比較的起伏の少ない地形らしい。
結論。
どこかの大陸の平原みたいに、だだっ広いだけの、何にもない、場所。
恐らくはそんな、生存にとって悲惨な場所である、というのは想像に難くない。
不意に潮が満ちるように虚しさがこみあげて来る。
フラッシュバックする、海底都市に住んでいた頃の日々。
俺の住んでいたD−549地域は、移住したスオマライネンの楽園だった。
海底火山から放出される熱を利用した発電装置の開発は、海の底に暮らす人々に多大な恩恵をもたらした。
我々が入植を始めたのは他の国々より何十年も遅かった。
にも関わらずこれだけの発展を遂げたのは、偏に効率的な教育システムによって生み出された優秀な人材と、「血の通った人形」のおかげだった。
あの日、俺は娘と深海水族館に行った。
五才になる娘だった。
あの日の彼女は、俺の髭の生えた顎を見て笑った。
一張羅の可愛げなワンピースを来て、馬鹿みたいに金切り声を上げてはしゃいでいた。
照明の落とされた展示室を、むしろ子供は楽しんでいた。
そして彼女を取り囲むように並べられた水槽には、今ではもう絶滅した数々の貴重な生き物たちが、マリアナ海溝の熱水噴出口の周りに作られた飼育施設の中を得意げに泳ぎ回っていた。
目の前を通り過ぎていった、フウセンウナギ、チョウチンアンコウ……
あるいは海底にビッシリ生えたハオリムシの様に、この海が故郷だったらと思う。
だが俺の肝臓を満たしているのは浮力調節のための油ではなく、長年の深酒で硬化した肝細胞なのだ。
不思議な話だ。
全ての生命は海から誕生したのに、俺は海の中では生きられないというのだ。
俺の五感はとうに死んでいる。
もう目が効かないことは分かった。
聴覚は?
俺は耳を澄ます。
呼吸器から零れるゴボ、ゴボゴボという泡の音と振動だけが、俺にとってこの世界の音だ。
役立たずな鼻も舌も無視すれば、触覚しかない。
こんな場所にいると、脳も危ないだろう。
三半規管は狂い、視交叉上核は体内時計の調節を止めたかもしれない。
今頃の俺の虹彩は光を取り込もうと躍起になって、猫の瞳のように大きくなっているに違いない。
それとも俺は盲目になってしまったのだろうか?
ありえない話ではない。そう疑いたくもなる。
でも。
ちょっと面白い仮説を立ててみよう。
飽くまで、仮の話だ。
もし現実に光がないとしたら?
眼窩に微塵も光線が入ってこないのだとしたら?
もしも俺が、日光の届かない水深962メートルの海底で、潜水艇もなしに身一つで放り出されたのだったなら?
もっと言ってやろう。
住んでいたコロニーの地熱発電施設が、監視員の不注意で引火し、爆発して、電気の供給・酸素の生産が一切停止してしまったら?
住民に避難勧告が出されて、友達も同僚も一斉に大型連絡艇に乗り込んで逃げてしまっていたとしたら?
そして今俺が背負い込んだ潜水服の酸素ボンベには、後二時間分の空気しか入っていないのだとしたら?
俺は、ある特殊な場合においては、冷静な思考と判断がその人間に理性にとどめを刺してしまう、という単純な事実を知った。
何せこの水深は低酸素層に含まれており、シリコンゴム製の簡易水中人工肺すら使えないのだ。
そうこうしている内に、漸く俺の背中が地面に接触した。
このまま常しえの静寂に包まれて、ゆっくりと眠りにつきたい気分だ。
しかし寛ぐには、自分が纏っている服がひどく煩わしいものに思えた。
頑丈な合金と合成繊維でできた潜水服は、着たままでは寝返りさえ打てそうにない。
イライラして、この重たい鎧を脱ぎ捨てたい衝動に駆られる。
強烈な水圧から俺の身を守ってくれているこの厚い装甲は、関節を曲げにくいどころか、閉所恐怖症を招きそうなぐらい狭苦しいものだった。
もう汗ばんだ顔、脇や背中さえも拭うことさえできない。
俺はヘルメットに取り付けられたヘッドランプの存在に気づいて、頭上を弄った。
やっとのことでスイッチを探り当てると、電気をつける。
か細い一筋の光に照らしだされたのは、ふわふわと漂うマリンスノー、あるいは白い灰の帳だった。
ここが、俺の墓場だ。
墓場にしては茫漠としすぎて、俺の死に場には似つかわしくないかもしれない。
そして俺は今、寂寥感というよりは達成感を感じながら底なしの暗闇へと落ちていく感触に身を委ねている。
水 中原恵一 @nakaharakch2
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