第17話

 まともに歩けない状態ではあったがなんとか切符売り場まで辿り着いた女は財布を取り出そうとした。しかし、どこかおかしい。


「……」


 身体中に手を当てる女。しかし、どうしても求めている感触がないようで、二度三度同じ場所を探っている。


「……どうして」


 ぶつぶつと呟きながらも焦燥した表情を露わにし、なおも自身の身体を弄り続ける。しかし、一向に望むは見つからないらしく、困惑と焦燥に取り憑かれている。


「……」


 彼女が何を探しているのかは明白である。財布だ。切符を買お為に財布を出そうとして、なくした事に気がついたのだ。

 実は先程転倒した拍子に落としたのだが、女は気付かず離れてしまったのである。金は今の彼女にとって生命線であり、それを失うという事は、即ち……


「……」


 女は無言で歩き出した。先程自分が倒れた場所へ再び戻ろうとしているのである。しかし、長い時間をかけて引き返してきてもそこに財布はなかった。敷き詰められたタイルの上にはゴミやチリばかりしかない。


「……」


 一縷の望みが絶たれた女は力なく駅の出入り口へと歩みを進める。金も持たず何処へ行こうというのだろう。ルンペンにでも身をやつそうというのか。小汚いホテルにすら嫌悪感を抱く人間が、街の野で生きてゆけると思っているのだろうか。だとしたら憐憫を禁じ得ない。そのような恥知らず、彼女にできるわけがないのだ。

 しかし、縋るもの、頼るものがない彼女にとっては他に取る手段がないのだろう。

 立つ事さえままならず、不安定な足取りで進む女には悲壮感が漂っている。一歩地を踏む度に躓き、沈みそうになる彼女が、いったい何処へ辿り着けるのだろうか。




 行き先は、彼女が息子と旦那を殺した時、既に決まっていたのかもしれない。







「おい」


 女を呼び止める声。


 日が暮れ始めた頃。人通りの少ない路地で女は数日の男に囲まれたのだが、その先頭にいる人物は、彼女が警察署で会った、あの横暴な刑事であった。




「……分かっているな」




「……知りません」


 女は無理に逃げようと通り過ぎようとしたが、一人に羽交い締めにされてしまった。



「やめてください! 離してください!」



 もがくようにして身を揺らすもまったくの無力で、暴れれば暴れるほど女の痩躯が軋み固められていく。



「殺人。死体損壊遺棄。誘拐。監禁の容疑で逮捕だ。お疲れさん」


 刑事は事務的に令状を突きつけ、さも呆れ返ったような顔をして罪状を述べた。



「知らない! 私はやってない!」



「それは通らないよ。浴室の死体に、祖父母宅の杜撰な隠蔽工作。川にあった車の走った跡が道に残っていたし、山に埋まっていた包丁などからあんたとあんたの家族の遺伝子情報が検出された。物的証拠ばかりなんだよ。それと、逃げるならもう少し考えるべきだよ。至る所で防犯カメラに映っていたから、どこにいるのか筒抜けだ」


 淡々と述べる刑事の言葉にひたすら「うるさい」と喚く女の顔はぼろぼろに崩れ、花の滝が如く落涙激しい。これまでの鬱積が破裂するかのような激しい感情が、夏の快晴に響き渡る。


「私がどうしてこんな目に遭わなければならないの! ずっと我慢して、我慢して我慢して我慢して! 耐えてきたのに!」


 絶叫が大気を切るも虚しく静まっていく。女を見る周りの人間の視線が白い。


「……人を殺したからだろ」


 冷たく言い放つ刑事の論は正しい。しかし、しかし……女にとってその論は、受け入れがたい、暴虐と差別であった。



「じゃあ今まで私を蔑ろにしてきた人達も捕まえてよ! 私をいいように使ってきた人達を! 私に自由をくれなかった人達を捕まえてくださいよ! どうして! どうして私が……私だけが……」



 言わねば気が済まなかった。

 叫ばずにはいられなかった。

 女は自ら受けた屈辱を吐き出さずにはいられなかった。


 だが、それは……



「話は、警察署で聞くさ。ゆっくりな」



 突き抜ける縹色染まった世界に鳴蝉が響き、女のすすり泣く声が溶けていく。この瞬間、女の全ての希望が潰え、女の全てが絶望へと変わり、女の全てが無意味となった。白熱する太陽が女に掛かった手錠を照らす。その輝きは暗くギラつく虚無を映していた。女に掛かった、黒く深い、虚空の心を……



 その後、女は死刑を求刑され首を括られたのだが、刑が執行される頃にはもう、彼女の事を覚えている人間は皆無であった。


 死に向かう女が何を思っていたかは知る由もない。忿怒か悲哀か、あるいは期待か……終始無表情の顔からは伺う事はできなかったが、獄中に彼女が呟いた一言だけは、暗く沈むその心中に、唯一煌めきを垣間見る事ができたのだった。


「殺した事は、悔いてない」





 宙にぶら下がる女の死体は、同じ言葉を吐いているように見えた。長く暗闇に囚われた彼女の人生において、唯一自由となったその瞬間は、確かに、光り輝いていただろう。


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安直な殺意 白川津 中々 @taka1212384

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