無限大の距離

貴志博充

無限大の距離

 彼が亡くなってから、もうすぐ三年になる。


 特に親しくはなかった。小学校から大学まで同じクラスだったというだけ。いつも彼は人気者で、僕は日陰者だった。何かの折に彼と僕が全く同じ履歴を持っていると分かると、周りの連中は不服そうな顔をした。いや、そんな気がしただけかもしれない。同じ地区に生まれて勉強がある程度できれば大学まで同期なんてそこまで珍しくもないことなのだが、そう思い込んでもおかしくないほど、彼と僕の間にはさまざまな要素において断絶があった。


 大学の入学式の後のガイダンスで、彼は僕の姿を見つけると心底嬉しそうに隣の席に座ってきた。まさか学科まで一緒になるとは思わなかったね、と。僕は黙って頷いて愛想笑いをした。それが、彼と僕が言葉を交わした最後から二番目の機会だった。


 高校までと同じように、彼はすぐ人気者になった。一方、僕は新しい人間関係の中で、さして積極的に他人に関わろうとせず、そのような態度にふさわしい位置が定まるのを待っていた。だいたいの役割が固まったのはちょうど一学期目の終わり頃だった。彼はバスケ部に入部して、早くも次期キャプテンの座を勝ち取った。教授とも懇意になったようで、研究室に出入りしているのを何度か見かけた。夏休みは大震災の復興ボランティアに参加したらしい。もちろん、お似合いの彼女もできた。僕はといえば、文芸部に入部し、ろくに小説も書けないまま先輩の酒だの夕食だのの使い走りに明け暮れ、学科の勉強にもいまいち興味が持てず、夏は自動車免許の講習でつぶれた。恋愛の相手など見つかるわけがない。


 似たような日々が二年間繰り返された。彼は有意義な時間を過ごし、僕は無意味に時間を浪費した。その間、僕が彼の存在を意識した回数は数限りないが、彼が僕の存在を意識したことは一度もないだろう。


 無意味な二年の最後に、僕は初めて恋をした。正確には、「僕が初めて自分の恋心を表に出した」と言った方がよいだろう。「僕」「恋」なんて字面を見ただけでおぞましい。失敗することは目に見えていたが、拒絶されるとまでは考えていなかった。「気持ち悪い」と吐き捨てられて、僕は茫然と公園を後にした。彼が同じことをしたらうまくいったのではないかと馬鹿なことを考えた。相手は同じ学科の人間だった。翌日、僕は授業の合間に彼らが楽しそうに話しているのを見かけた。頭の芯がどんより重くなって、気付いたら下宿でベッドに突っ伏していた。次の日からはなんとか授業に復帰したが、学科の誰からも冷ややかな視線を浴びせられているように感じた。


 三年生になると、僕の成績はみるみるうちに落ちていった。一応研究者志望だったが、担当の教授との面談の際には「今のままではどの大学院も無理だ」と厳しい調子で言われた。その後に続いた励ましの言葉は耳に入らなかった。嫌なことがあると学問のがの字も忘れてしまう人間には、研究者としての資格がないだろうと思った。一方、彼は既に教授に太鼓判を押され、国外の一流大学院の受験のためにいくつかの論文を執筆していた。彼の存在は僕にとって救いだった。妬まなかったといえば嘘になる。だが彼はきっと、僕などが想像さえできないような高みまでのぼりつめる可能性を持っている。彼が優秀な研究者として、また、教養豊かな人格者として研ぎ澄まされていくのを、僕は遠くで眺めていたかった。そうすれば、どんな泥沼のような人生を送ろうと我慢できる気がした。


 一学期の終盤。落第候補の学生向けに教授が出した補習レポートが仕上がったのは、締切日の夜九時。大学内は閑散としていた。図書館から一直線に教授の部屋へ走っていき、渋い顔をする教授にさんざん平謝りして、僕は校舎の外に出た。蝉の鳴き声がうるさい上にうだるような暑さだったが、月はとても綺麗だった。この日は珍しく気分が良かった。教授の心証を一段と悪くしたとはいえ、単位の心配がなくなったからかもしれない。僕はそのまま正門には向かわず、校舎の裏手にある竹林に足を踏み入れた。大学が売りにしている江戸時代の日本庭園と茶室があるのだ。蝉の声が遠のいていくのを感じながら、飛び石を軽快な足取りで踏みしめていった。誰かが縁側に座っていると気付いた時にはすでに遅かった。よりによって彼だった。恐ろしいものを目の当たりにしたような表情で僕を見つめていた。まずい、と思った。こんなところで、こんな時間に、こんな人間に会えば。怖いに決まっている。


「ごめん、お邪魔しました」


 僕は小さな声で謝って立ち去ろうとした。


「ちょっと待って。ここ、よく来るの?」


 背中に声をかけられて、おずおずと振り向いた。彼はいつの間にかぎこちない笑顔を作っていた。


「そ、そうだね、わりと来るかな」


「へー。好きなの?」


「いや、あの、単に、幽霊が出るとか言って、誰も近づかないから」


「あ、なるほどね」


 そこで会話は一度途切れた。僕は、じゃあこれで、と歩き出そうとして、またも彼に呼び止められた。


「よかったらちょっと話していかない?」


 その時、彼から見た僕は、さぞ気持ち悪かっただろうと思う。目を丸くして、口をパクパク無意味に動かして、何歩も後ずさりして。それでも彼が無邪気に笑っているので、僕はやりきれなくなってうつむいた。


「何も話せることなんてないよ……つまらない人間だし……」


「いやそんなことないって」


 彼が近づいてきて肩に触れようとしたので、僕は思わずその手を払いのけた。いい音がした。


「ご、ごめん」


 寿命が十年は縮まった。おそるおそる顔を上げたが、彼は怒っていなかった。なぜか――とても寂しそうだった。


「ごめんなさい」


 もう一度言った。彼は力なく、大丈夫、と答えた。彼に元気がないのは珍しかった。だが、どうしたの、とか疲れてるの、とか声をかけることはできない。そんな勇気はない。僕は彼の友達でもなんでもないのに。


 彼は足を引きずるようにして縁側に座り込んだ。僕はその隣に腰を下ろす勇気もなく、そのまま立ちすくんだ。再び沈黙が落ちた。彼と僕の息遣い以外には、何も聞こえない。やがて、僕たちに降り注ぐ月光が薄くなった。雲がかかったのだ。間もなく雲は月を覆い尽くした。


「……小学校の時さ」


 彼が口を開いた。その視線はどこか夢見るように、眼前の竹林に向けられていた。近くでカーン、カーンと硬い音がする。風にあおられた竹同士がぶつかって音を立てている。


「俺、おまえに助けられたんだよ。覚えてる?」


 彼が何人かの仲間と木登りをしていて、木の上から派手に落ちてしまった時のことだろうか。僕は近くの砂場で遊んでいた。あんなにたくさんの血を見たのは初めてだったから、大泣きして先生のところまで走っていったのだ。僕がまだ、彼をさほど意識していなかった頃だ。


「覚えてるけど……助けたとまではいかないんじゃないの」


「いや、おまえ救急車の中までついてきてくれたじゃん。立派に助けてるよ」


 そんなこともあっただろうか。僕にとってはどちらかといえば良い思い出のはずなのに、すっかり忘れている。


「中学の時も、女子に付きまとわれてたの、さりげなく遮ってくれたし」


 あれはどちらかというと、そのメンヘラ気味の女子と一緒の委員会の仕事があったからだと思う。そして、どちらかというと彼を助けたいという気持ちよりも嫉妬の方が大きかった。


「高校の時だって、生徒会に立候補した時のスピーチ原稿考えてくれたじゃん」


 それは一言、文芸部だったから、で済む。それ以外に僕と彼の行動があからさまに交わったことはなかったはずだ。


「図書館で勉強してる時間もよくかぶってたよな。こう考えてみると、結構関わりあるよね。今までなんとなくずっと一緒だった気がしてたけど」


 カーン、カーン。竹のぶつかる音が響いている。意外と観てるんだな。僕は初めてそう思った。僕の方がむしろ、自分自身をまともに観ていないのではないか。そんな思いが、不意に胸の奥の方から湧き上がってきた。僕は何か、なんでもいいから言おうとした。彼が次に口に出すだろう言葉を封じ込めるために。しかし、代わりに飛び出そうになったのは嗚咽だった。僕は慌ててそれを飲み込んだ。曇っていてよかった。


 そして、僕の予想は全く裏切られることになった。


「おまえ、いいやつだよ。自信持って、もっと胸張ってた方がいいと思う」


「え……?」


 僕はぽかんとした。彼は竹林に視線を固定したまましばらく何か言い淀んでいたようだったが、やがて立ち上がった。やはり、笑っているのに悲しそうだった。


「俺、これから用事あるから、またね。次会った時、よかったら研究の話でもしよう。おまえの研究テーマ、俺も興味あるんだ」


 さっと手を振って飛び石を渡っていく。


「あ……うん、……ありがとう!」


 彼に聞こえたかどうかは分からない。彼が去ってからすぐに雲が途切れて月光が戻ってきた。僕はまだ温かい縁側に腰かけた。頬がゆるむのを抑えることができなかった。これからでも遅くはないのかもしれない。遠くから見守るだけでなく、せめて近くで声援を送ることもできるかもしれない。僕はふと、終始彼の顔にちらついていた悲しそうな表情を思い出した。だが、それが何を意味するのかは分からなかった。まして、それが彼との最後の会話になるとは思いもしなかった。




 次の日、彼は大学に来なかった。次の日も、そのまた次の日も。しばらくして、彼を応援する会みたいなものが、彼と特に仲良くしていた連中を中心に立ち上がった。末期がんが見つかったから手術するのだと、僕のところに千羽鶴を要求しにきた同期の男から聞いた。以前からその兆候はあったのだと、ほとんど部外者である僕に対しても、その同期は悲しみを抑えきれない様子で話した。親しい人間には伝えていたんだな、と僕は思った。それから、なぜあの夜彼があんな場所にいたのか理解した。僕は、彼の貴重な時間をほんの少しでも奪ってしまったことに罪悪感さえ抱いた。


 僕は乞われるままに千羽鶴を四、五羽折った。何羽くらいが、さして交流もないクラスメートとしてふさわしいか分からなかった。結構折り紙得意かもしれない、と僕はどうでもいいことを考えた。そうでもなければ自分が保てない気がした。色紙も渡された。「応援しています、病気に負けず頑張ってください」とだけ書いた。鶴と色紙を同期の男に渡し、ありがとう、と涙ぐまれて、僕は軽く会釈した。どこの病院にいるのか。手術はいつか。できれば面会に行ってもいいか。そんな質問が頭の隅をかすめたが、僕にはそれを問うことは許されていないだろうと思った。単なるクラスメートなのに、出過ぎたまねをと思われる。それに、きっと訝しがられる。僕はまた、冷たい視線を浴びせられることになる。そんなのは……これ以上、耐えられない。


 手術は成功するだろう。僕は必死でそう思い込んだ。だって、僕なんかと違って、この国のため、世界のために発揮できる才能を持っているのだ。彼が輝かしい未来を迎えるのは、運命であり、義務なのだ。悪夢のような明日しか待っていない僕の、生き続ける理由なのだ。彼が死ぬはずはない。だから僕が、わざわざ余計なことをして、また学科の連中の不興を買う必要もない。だいいち、僕が彼に対してできることは何もない。何もないのだから。




 彼の死は、ある朝教授を通じて伝えられた。教室のあちこちからすすり泣きが聞こえてきた。僕はどういうわけか涙も出なければ沈痛そうな顔さえ作れなかった。笑い出してしまいそうな気さえして、慌てて顔を伏せた。悪い冗談だ。一週間もすれば彼は教室に現れるだろう。真に受けるなんて、みんなバカだな。――教授が冗談を言わない性格であることは分かっていた。人の生死をジョークにするような良識に欠ける研究者に、彼が師事するわけがない。


 彼は亡くなったのだ。


 亡くなったのが術後か術中か、あるいは手術前なのか、原因は医療ミスか、あるいは不可抗力か。そんなことさえ、僕は今でも知らない。彼と仲の良かった連中なら、もっと詳しく聞かされているのかもしれない。しかし、僕は彼の大勢いるクラスメートの一人にすぎなかった。小学校からずっと同じ道を辿ってきたにもかかわらず。


 ぼんやり午前の授業をやり過ごした僕に、告別式の連絡が回ってきた。真っ先に泣いた同期たちは、かけがえのない彼を永遠に喪ったことをおそらく理解していたが、この時僕は、自分が彼の死に対して冷静に対処できるとたかをくくっていた。行くべきなのだろうか、と僕は考えた。僕は彼の友達ではない。少なくとも僕はそう思っているし、学科の連中もそう思っている。それでも周りの人間がやたらと気にする世間体とやらを考えれば、同じ学科のよしみで、ここは行くべきだろうか?


 僕はふらりと教室を出た。食堂で昼食を食べながら考えをまとめよう。早めに結論を出さなければいけない。すぐ前を誰かが重い足取りで歩いている。僕は何気なく通り過ぎようとして歩調を早め、ちらりと横顔をかすめ見てから、後悔した。ばっちり目が合っていた。


「なんの用」


 目が赤かった。彼と一番仲が良かったのは、そういえばこの人だったな、と思った。僕は胸が張り裂けそうになった。この人がここまで彼の死に痛めつけられているのに。僕は彼を悼んでいいのだろうか? 僕が……この人に拒絶された僕なんかが。


「あのさ……彼の告別式、僕、出る必要あるかな?」


 僕はつとめてにこやかに訊いた。唇の端は引きつっていたと思う。涙もまぶたの下まで出かかっていた。だが、あの人の低く押し殺した声で、全ては引き潮の海のように静かに引いていった。


「はぁ? 出たいかどうか自分じゃ分からないような奴は、出る必要ないよ。大して悲しいとも思ってないだろ? そんなふうに笑って。よく平気でいられるな」


 あの人は拳をぎゅっと握りしめた。その瞬間、僕は最低な人間だ、と思った。二度もこの人を不快な気分にさせる。この人が悲しみのどん底にいるところへ、要らぬ言葉をかけて。


「あ……そうだよね……行っちゃダメ……だよね」


 これ以上口を動かしてはいけない。そう思ったのに、僕の唇は、僕の失言とあの人の怒りが押し付けてきた勝手な理屈を復唱していた。


「自分で決めろ。けど少なくとも、オレは、あいつがおまえに来てほしいと思ってるとは、考えられない」


 あの人は、怒りを込めて、一言ひとこと言い聞かせるように僕に向かって吐き出した。そして、


「おまえは芯から気持ち悪い人間だ」


 と、とどめに言い残して踵を返した。どこに行くのか知る由もない。そんなことに気を配る余裕もなかった。僕は自分の頬を温かいものが伝っているのに気付いて、ふらつきながら近くのトイレの個室に入った。少し前、月夜の晩に竹林の茶室の前で彼と向き合った時の一連の記憶が、今更のように実感を伴って心の奥に沁みていく感じがした。あの時、僕は彼と約束したのだ。次に会う時はお互いの研究の話をしようと。そして僕はその時思ったのだ。これからでも、彼と親しくなりたいと。他人に許可を求めてはいけなかった。これは、彼と僕の問題のはずだった。あの人と僕の問題じゃない。人を悼むのに、理由なんて要らなかったのに。




 結局、僕は彼の告別式に出席しなかった。以来、一周忌にも、墓参りにも、一度も行ったことがない。今更行ったところで、誰に見とがめられるわけでもないだろう。だが、僕は未だに彼の前に出る勇気がない。置き去りになった気持ちをどう整理したらいいか分からないのだ。


 彼と僕の共通の知り合いがそのことで僕をどのように言っているかは知ったことではない。案外何も思っていないかもしれない。僕は彼にとってその程度の存在なのだ。また、そのようになろうと常に努めていたのだ。


 僕は大学を卒業し、小さなSEの会社に就職した。もともとプログラミングは得意な方だった。でも、やっていることはなんの足しにもならないスマホアプリの開発だし、残業も多い。ときどきつらくなって、僕がこんなふうに無駄遣いしている命を、彼に分け与えることができたらどんなにいいだろう、と考える。その方がずっと幸せだったと思う。世界も、彼も、僕も。


 もうすぐ盆と三周忌がやってくる。同期の彼らは墓参りに行くのだろうか。いずれにしろ、僕には連絡が来ないのでお呼びではないのだろう。


 今朝、僕は夢を見た。


 大学の、あの竹林に囲まれた茶室の縁側に僕は座っている。隣に彼の気配があるが、体を動かすことはできない。ただ頭上の月を覆う雲が徐々に薄れていくのを、彼とともに眺めているだけだ。月が完全に僕たちの前に現れたら、彼が行ってしまうことを僕は知っている。カーン、カーン。竹が僕を急かすように鳴る。僕は重たい唇をなんとか動かして、ずっと伝えたかった言葉を伝えようとする。だが、声が枯れ切っていて出ない。雲の最後のひとかけらが消えた。彼は飛び石の上を軽やかに走っていく。それは地の果てまでずっと続いている。

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