夜にできる影

白川津 中々

第1話

 愛するという事を男は知らなかった。

 歳の頃は四十。それなりの企業に勤め、相応の役職に就き、相当の報酬を受け取り、一抹の憂いもない生を謳歌しながらも、男は孤独の虚無に苛まれていた。

 男には三つ離れた妻がいた。歳上の女房である。彼女は男の上司であったが結婚を機に退職。それ以来、フリーランスとして働いている。

 二人の関係は良好であった。少なくとも、周りからはそう見えていた。現に男は不貞もせず文句も言わない。妻が体調を崩せば付き添い、時に起こすヒステリーにも柔和に対応し信頼関係を築いていた。それは上司と部下の関係の頃から互いをよく理解し支え合ってきた仲であるのだから当然といえば当然であるように思える。しかし、その理解と信頼こそが、男に一つの疑問を浮かばせるのであった。「自分と妻の関係は愛ではなく、信によってのみ繋がっているのではないか」と。

 男は常に妻の期待に応えようとしてきた。公私ともに彼女の希望を叶えようと、口に出さぬ要望にも万事抜かる事なく。阿なれば吽。凹なれば凸と符合するようにしていたのだった。この迎合主義ともいえるような極まった柔軟性の行き着いた先が二人の結婚であった。男は妻が求めているもの。つまり、自身の独占権を与えるべく、左薬指に所有物の証を嵌め込み、妻に同じ物を献上したのだ。

 生真面目な男は妻が笑いを求めれば破顔し、怒りを求めれば声を荒らげ厳しく非難をした。しかしその実男は無感動であり、ただ与えられた役割を演じているだけだった。

 その行為に男の愛はなかった。それが裏切りのように思えて、男は苦悩していた。しかしありのままを妻に述べる事はできない。妻がそんな事を望んでいないからである。背信と信認の二律背反は、男に落ちる影をより深淵なものとしていたのだった。


 それでも男は今日も妻の為に生きるのであった。妻が気になっていた様子のケーキと、それに合う貴腐ワインを買い、今から帰ると連絡を入れて車に乗り込みエンジンをかけるのだが、一連の行動にはやはり愛はなく使命感しか存在しない。カーステレオから聞こえるラジオのような軽薄具合である。


 男は悩む。もし、妻が「愛が欲しい」と望んだ場合、自分は何をしたらいいのかと。

 唇を交わせばいいのか。抱けばいいのか。それとも、月の裏側にでも連れて行けばいいのか。どれも正しいようであるし、間違っているようにも思え、男は眉間にしわを寄せながら頭を抱えるのである。


 カーステレオからScorpionsのStill Loving Youが聴こえてくる。


 悲恋の哀歌を聴きながら、失う愛があればまだよかったと溜息を漏らし、男はゆっくりとアクセルを踏み車を発進させた。

 

 日の沈む街に光が灯されていく。その煌めきが暖かいのか冷たいかは誰にも分からない。

 しかし、それでも、夜の闇は一人で過ごすにはあまりにも暗く、長い。

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