指の首飾り

 今ではないいつか、ここではないどこかに、バラモンの教義を勉強する、アヒンサカという敬虔な、好青年がおりました。彼はヴァードラという師匠の下で、心身ともに磨きをかけ、数多の門下生の中でも、ひときわ惹かれる何かがありました。

 ところがある日の事、師ヴァードラは宮廷に招かれ、王様に講義を施すという、名誉を頂戴したのでした。彼の留守にしている間、あろうことかヴァードラの妻が、容姿端麗なアヒンサカを、我が物にしようと言い寄りました。妻はかねてからアヒンサカに、思いを寄せていたのです。


 しかし、真面目なアヒンサカは、夫人との密会を拒みました。人格を研ぎ澄ませようとして、潔癖を求めたアヒンサカは、夫人の想いを斥けようと、厳しくこう述べました。

「私にとって師は父です。同じく夫人は母として、今日まで慕って参りました。どうして父の悲しむ顔を、子である私が望むでしょうか。夫人、どうか分かって下さい。この関係性を超えたなら、更に悲しい未来が訪れるのです。」

 妻は失望をにじませて、アヒンサカに問いかけました。

「なぜ、どうして悲しい事だといえるのですか?私はあなたをこんなにも、欲しているというのです。隠れて関係をもつことなんて、みなやっているではありませんか。それをなぜあなたは、求めに応じてくれないのです?一人の女の悲しみを、慰めることもできなくて、どうして悟りなど得られましょう。」

 青年は近づく妻に醜さを感じ、腕で遠ざけ、答えました。

「お腹がすいたからと言って、毒を食べてはなりません。それは結局は自分の身を、滅ぼしてしまうことになります。」

 そういうとアヒンサカは、これ以上迷わされないために、ヴァードラの家から去りました。


 ヴァードラ夫人の熱情は、アヒンサカとすれ違いました。弟子はこの妻から見て、自分を毒に例えることで、距離を保とうとしたのでした。しかし、そのたとえ話が、妻には逆に伝わりました。「毒のような悪妻は、受け入れられない」…他にも男と連れそって、関係を持っていたこの夫人には、やはりご自分でも不倫というのが、心のどこかで礼節を欠く、後ろめたいものだと分かっていました。それがこうしてアヒンサカに、きっぱり拒まれたことによって、より強調されて形となって、痛感させられたのでしょうか。

 しかし夫人は自分の思いが、遮られたことに心を痛め、また自身の存在の小ささを、突きつけられたのでございました。冷静な判断を失った、夫人の中には焼けるような、妬みの毒がふつふつと、煮え立ったのでございます。


 夫人はアヒンサカの手が触れた、肩の後ろから胸へかけて、ほつれた服を大げさに、自分の両手で引き裂きました。そして、宮廷から戻った夫に、涙ながらに訴えました。

「アヒンサカが私を襲いました。むりやり暴力を受けたのです…」


 嫉妬からうまれた妻の嘘を、ヴァードラは信じてしまいました。

「しかし、普段あれほどまで、自分に懐いていたアヒンサカが、そんなことをするなんて、なんとけしからん男だろう。表では従順そうに見えて、裏では師である私の妻に、こんなことをするなんて…。」


 みじめにうろたえる男は、土間の暗がりに目を向けます。

「なにより二面性のある者は、自分の悟りを自身が偽り、未だ身につかぬ悟りでも、達成したと吹聴しがちだ。もし彼がその悪行を、実際にしたというのなら、修行者としての見込みはない。彼を野放しにせず、より重い報いを与えてやれ。」

 怒りに燃えるヴァードラは、愛する妻の言うことから、普段の弟子の振る舞いの方を、信じられなくなりました。本来ならヴァードラは、アヒンサカの良識を、師たる彼自身こそが、信じねばなりませんでした。しかし、この未熟な師には、優れた彼という引き出しに、いったい何が潜むのか、分からなくなってしまったのです。


 手に塩かけて育てていた、一番弟子とも言える彼の、品行に問題があることは、師にとって大問題でした。このことがひとたび門外に漏れれば、やっと宮廷との間に、結ばれた信頼関係が、水の泡となるでしょう。

 そのような都合も災いし、ヴァードラは騙されているとも知らず、アヒンサカの背徳に、復讐をすることに決めました。


 しばらくしてヴァードラは、アヒンサカを呼びつけました。そしてにこやかな仮面の裏に、憎悪の匂いをひた隠し、この無実の青年に、忌むべき呪いを告げました。

「お前に私が教えられる、修行は最後の一つとなった。この最後の苦行を成し遂げれば、すぐに悟りを得られるだろう。」

 悪魔に憑かれたヴァードラは、座敷から鉄剣を取り出すと、顔をひきつらせる弟子に、変わらぬ笑顔でささやきました。

「お前が真のバラモンへ、なるために残された最後の道は、近くの村人を百人、天へ帰すことなのだ。」


 アヒンサカはいぶかしみ、師を見上げました。しかし師は気にすることもなく、刀をアヒンサカに押し付け、また話を続けました。

「実はわたしは、我慢ならぬことがある。私はかねてからいうように、多くの物事を悟った身だ。しかしそれを分からぬ人々が、私を妨げ罵声を浴びせ、偽りの像を私に描く。私が悲しむのはよいのだが、しかしそれは風上に向かって、砂を投げるのと同じだ。彼ら自身の身を汚してしまう。それが悲しくてならぬ。」


 師のヴァードラは孤独でした。例え多くの弟子に囲まれても、それをしのぐ大勢が、彼を非難しています。今でこそ宮廷から、招かれる厚遇を得ましたが、しかし彼の向かうところには、いつもでまかせが飛び交います。それでも師はこの人々を、愛さなければならぬという、聖者の身分がかたく縛るのです。

 唯一彼の家族だけが、彼を癒すよるべであると、弟子のアヒンサカは知っていました。だから妻の誘惑は、決して応じてはならなかったのです。


 刀は確かにずっしりと重く、何を語るでもなく、その冷たい柄がただ、アヒンサカの指の肉に食い込みました。

「もちろん怪しむ気持ちも分かる。並大抵の精神力では、人を殺すなど業が深くて、とても耐えかねるだろう。しかし、此岸と彼岸とを、橋渡しするときにこそ、得られる興の高みがあるのだ。一番弟子であるお前だから、私も安心してまかせられる。

 実行した証拠として、指で首輪を作りなさい。殺される者は気に留めるな。悟りたる者の刃にかけられて、人柱となる以上、悪い世界に帰ることはあるまい。」


 “人間の枠を超えろ”、信頼を寄せる師の言葉に、アヒンサカは胸の奥が、壊れるような心地がしました。そして、悟りを求めるためとはいえ、他人の命を絶つことに、ためらいを感じたのでした。しかし、愛する師のことばです。その嘘を必死に受けとめて、町の辻をさまよい歩き、ついに一人の通行人を殺めてしまったのです。

 最初の一人を殺めた夜、アヒンサカは心臓が、口から流れて溢れるくらいの、嫌悪を感じたものでした。しかし人をやめた鬼は、二人三人と切るうちに、すっかりその恐怖心も、麻痺して働かなくなりました。

 悲しみだけが彼の心に、唯一留まっておりましたが、しかし、しかし、彼はまじめすぎました。転がる屍に目つむり、この地獄を早く終わらせるため、誰に愚痴をこぼす事もなく、黙々と人々を斬りました。被害者は増える一方でした。同時に指を通した首輪も、日に日に大きくなりました。


 誰の目にも、彼は人間と映りませんでした。師のヴァードラも、彼とはとっくに、縁を切ったと公言し、遠慮することをしりません。

 人々はアヒンサカを、「殺人鬼・アングリマーラ (指で作った首輪)」 と呼んで恐れ、近くの村から人は離れ、いよいよ村そのものが、とても生活できなくなりました。民は国王にこの鬼を、討伐してくれと乞い願いましたが、兵士らの捜索の目を逃れ、アングリマーラは辻斬りを続けました。


 その頃、ある精舎に滞在していたブッダは、精舎の近くにあるこの村で、村人たちが昼夜を問わず、道を歩くのを嫌がるほど、恐ろしい殺人鬼がいるという、哀れなうわさを聞きつけました。

 ブッダを見た人々は、口々に止めようとしました。そっちに行ってはいけないぞ。アングリマーラという殺人鬼が出るぞ…しかしブッダも独りきりで、悲しみの感情に呼ばれるように、道を歩いてゆきました。



 99人の殺人を終え、99本の指を繋ぎ、殺人鬼は百人目の、標的を探しておりました。さて彼が見つけたのは、まだこちらの存在に気付かぬ、老いた女でありました。この歩く女の背後から、切りかかろうと追いかけると、その女は角を曲がってゆきました。さて女が折り返して来る、様子の無いのを確認すると、抜身の刀を構えた鬼は、街角から躍り出て、強く地面を蹴り離しました。


… 一人の沙門が、象のように、そこに立っていました。


 その僧侶は、落ち着き払った様子のまま、こちらに興味もなさそうに、確かな足取りで通り過ぎて、元の道を戻ったのです。アングリマーラは呆然として、少し考えると、ひどく驚いたのでした。

「この辺りを通るのに、通りがかりの隊商すら、護衛の兵士をつけて来る。皆に怖れられるほど、俺は人を殺してきた。気付いていないならまだしも、俺を目に留めながら、歩いて通り過ぎていった、一体彼は、何者なのか 」

 混乱したアングリマーラは、標的を、離れ行く女――彼の母であることには、最期まで気がつかなかった――から、この僧に移し替えました。足音を気にする必要もないと考え、剣を構え直しながら、無言の沙門のあとを追いました。


 しかし彼は不思議なことに、ゆっくりと歩き続けるブッダに、なぜか追いつくことができなかったのです。夢の中でもがくように、脚は自由を失いました。

 緊張の裂けたアングリマーラは、遂に立ち止まって叫びました。

 「沙門よ、止まれ!」

 ブッダはこちらを振りむくでもなく、しかし首を少しだけ動かして、殺気立って焦る殺人鬼に、静かに、強く、告げました。

「…私は止まっている。動いているのは、お前の方だ。」


 沙門は息ひとつ切らさず、最初と同じ位置に佇んでおりました。

「アングリマーラよ。

 私は諸々の生きとし生けるものたちに向け、

 姿勢を正して、あなた方の前に立っているのだ。

 しかし、お前はどうなのか。

 必死に生きる他の命に対して、

 自制と慈愛とを欠かすことなく、

 向き合っているといえるだろうか。

 それこそ、私の決して揺らがず、

 そしてお前が私に追いつけない、

 たったひとつの答えなのだ。」


 この言葉を聞いて、瞬時に悪夢から覚めたアヒンサカは、目の前に立つ沙門が、自分を救うために現れた、生き仏であることに気付きました。アヒンサカは月に照らされた、指の首飾りを外し、悲しみから膝をつき、深く頭を垂れました。

「あなたこそが目覚めたる者、どうかお教え頂きたい。私は今やっと自分の、罪深さを見つめ直しました。しかしもうこの罪は、赦されることはないでしょう。私の帰る世界など、やはり地獄しかないのでしょうか。」

 向き直って見下ろすブッダは、アヒンサカの悲しみに、寄り添って仰いました。

「アヒンサカよ、生き直しなさい。新しく生まれたあなたは、誰よりも“不殺生”の戒を、守る者となることだろう。この先、どのような努力をしてでも、これまでの罪を償いながら、人間として生きていくなら、私の下で学びなさい。」



 ブッダと弟子にかくまわれ、アヒンサカは人間としての道を、再出発することになりました。そこに、ブッダを尊敬する、国王と兵士がやって来ました。通報を受けてアヒンサカを、捕えるためにやってきましたが、アングリマーラの回心と、今後の更生をブッダから、直接約束されたこともあり、王と兵隊は退きました。


 殺人鬼として名の知れる、アヒンサカにとってこの生活は、実刑そのものが伴うような、苦しいものでありました。町に托鉢にでかけるたび、当然のごとく村人は、奪われた家族の敵として、アヒンサカを責め立てました。棒で打たれ、石を投げられ、毎日血まみれになって、宿舎に帰りつく、そのような日を繰り返すのです。しかしどれほど傷をつくっても、釈尊の弟子・アヒンサカは、心が穏やかなままでした。


「ブッダよ、私はかつて愚かさのために、多くの命を根こそぎ奪いました。今では目を覆いたくなる、切り取った指をくくってぶらさげ、アングリマーラと呼ばれました。しかし、今や三宝に帰依して、悟りの智恵を得ることができました。

 雲が夜空を覆っても、いずれ月の光が差しこむように、正しい教条は鮮明に、そこに輝くものなのです。私もできることならば、道に迷える誰かにとって、月の安らかな光が届くよう、祈る修行者でありたいものです。」




 おそらくヴァードラが殺人を命じ、その咎めの描写がないのは、実行犯でなければ捕まらない、法律が未熟な時代だったからと、私は推測しています。

 実際に人を傷つける行動を、とるのは良くないことでしょう。しかし、実際に人を傷つけることさえしなければ…補っていえば、心の中でなら私達は、人を傷つけるようなことを、平気で画策しても良いのでしょうか。


 人々の、許すとか許されないとか、裁きや救いは、いったいどこから来るのでしょう。あなたはどう、思いますか。



文訳参考:https://kouhei1112.wordpress.com/2008/03/23/

(「鴦崛摩経(おうぐつまきょう)~アングリマーラ(央掘摩羅)」)

https://home.hiroshima-u.ac.jp/soho/message_old/message2009.9b.html

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親愛なる人々への童話 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11

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