舞踏会にむけて
星の降るような、あたたかい夜空が、窓の外を覆っています。そんな闇に浮かぶ星々を、うっとりとした顔で見上げている、ある町娘がおりました。なぜといえば、その娘は、翌々日にお城にて、催される舞踏会に呼ばれ、すっかり心を奪われていたのでした。
さて、若い娘は意気込みました。今回舞踏会に呼ばれたことは、町娘にすぎぬ彼女には、なんとも珍しい事です。もしかしたら、もう二度と、お城の堀の向こう側の、ピカピカの芝を踏む機会なんて、訪れないかもしれません。そう考えれば考えるほど、娘は待ち遠しい気持ちで、夜の空を眺めていました。そしてつい闇の中に、鼻歌まで届ける始末です。
しかし、娘にはそれと同時に、心を曇らせる不安事も、確かにあったのでございました。何の変哲もない町娘として、生まれ育った私などが、失礼なことをしやしまいかとの、不安の雲がなびいていたのです。
娘にとっては初めての、お城の催しとはいえど、上品な貴族やその家族、城仕えのお役人だって、連日舞踏会にやって来るのは、想像に難くありません。そんな中で彼らに並ぶ、上等なドレスなんてものや、宮廷特有の仕草や挨拶を、ひとりの町娘がどうして持ちえましょう?あのきらびやかな人々の、目に留まることを期待して、踊りを踊る必要があるのですから、それだけ考えても娘には、なんだか難しそうな気がしてきました。
「どうしましょう。お城でのしきたりなんて、私に学ぶ縁がなかったから、細かい振る舞い方なんて、にっちもさっちもわからないわ。身につけておけばよかったかしら。急に招待されることが決まったものだから、仕方のない事ではあるけれど。いざ今に考えてみると、言葉づかいもお洋服も、失敗して悪目立ちしてしまえば、きっと恥をかくにちがいないわ!本当にどうしましょう!」
王子様の目に留まることは、流石に娘も期待しておりません。しかし呼ばれる招待客は、皆がみな、より高位の貴族の、寵愛をわが身に受けようと、身なりからなにからしっかりと、めかしこんでくることでしょう。そんな中、より集まった、貴族の面々から拒まれ、ましてや反目を受けてしまえば、貴族に憧れている町の人にまで、のけ者にされることは請け合いです。そうなってしまえば今後は、ただ町を歩くことさえも、難しくなってしまうでしょう。
やがて娘の心の中は、素敵な服に身を包み、どうしてもお城で踊りたいという想いが、むくむくと満ち満ちてきました。どうすれば叶えられるかと、澄んだ夜空を見上げましたが、お月様は軽蔑でもしたのか、うす雲に顔を隠してしまって、その明かりだけがぐんぐんと、西の空を進むのでした。
あくる日、娘は中心街へ、ひとり出かけて参りました。家族のご飯をつくるために、パンと少々の葉野菜を、買いに来たのでありました。その折で町娘は、庶民の自分でも手に入る、安いドレスはないだろうかと、衣服屋の前を歩いてみました。が、街も舞踏会を明日に控え、なんとなく、浮足立っている様子でした。
この城下町には、見栄っ張りの、ドレスや髪飾りを買おうとする、お高くとまったお嬢様方が、たくさんたくさんおりました。そこで彼女らの足元を見た、好機到来の服飾屋が、じりじりと値段を釣り上げたため、とても町人に買える服なんか、見つけることができません。町娘にとって幸いな、唯一のことを挙げるのなら、ほかの庶民の娘もまた、服の新調をできなくなり、結果としてみすぼらしい金を持たぬ町娘が、自分ひとりでなくなったことくらいでした。
「失礼しちゃうわ。私はお金がない家の娘として、お城へ行くことになったんですもの。服屋があれほどいじわるでなければ、このお金で買うことができたかもしれないのに…働いてるお父様や、お兄様の稼ぎも、それ以上に、よければよかった…」
娘は赤くほっぺたを膨らませて、食べものを売る市場へと、踵を返して去りました。
さて、城下町の石段を、登ったり下ったりしながらの、静かな川を沿う帰路についた午後、そこには普段見ることもない、珍しい男がおりました。異国風の恰好をした旅人が、どうやら具合が悪いらしく、道の脇にせり立っていた、岩壁を背もたれ代わりにしながら、休んでいたのでございます。
むき出しの崖にそのままに、身を預けていたこともあり、山吹色だったであろう旅装束は、ほとんどすすけておりました。なにより具合が悪そうな、苦い顔の旅人は、額に脂汗をかき、肌に土埃や草ワラなどがはりつき、決して清潔とは言い難いのです。
しかし旅人は娘を見ると、助けてほしい一心で、よろめきながらやってきました。
「ああ苦しい、助けて下さい。私の飢えを助けて下さい。」
この旅人はもう何週間も、森をさまよいつつ、身を引きづりきながら、葉の上の朝露だけで、生きてきました。そして昨日、やっとのことで、川に出ることができたので、渇きを癒すことができました。しかし、今度は飲んだ水が悪かったのでしょう、夏に不釣り合いな凍える寒気が、この旅人を襲ったのです。旅人の体はこの高熱に耐えるために、食べ物を欲しがったのでありました。
その説明を受けたなら、同情をかけることもできるでしょう。が、そのような事情があったとしても、周りのものが見ただけでは、分かることもありません。何より手に入れたばかりの、家族のパンを与えることが、娘にはちょっぴり惜しく思われました。
そこで、汚らしい病人を退けるため、娘は街の方を指差して、ただ言いました。
「向こうが街で、すぐ市場があります。そこでなら、お金がわずかでも、くずきれのような食べ物なら、手に入れることはできるでしょう。私は所詮、庶民の娘。それほどまでに余裕はなくってよ。」
さて、少女がそう言い終えると、指を差した道の先から、数人のお嬢様方が、談笑しながらやって来るのが、二人にはっきり見えました。美しいドレスに身を包んだ、薔薇のような娘たちは、貴族の娘ではありません。森に面したこの郊外へは、馬車に乗って来るのが貴族です。彼女らはやっとこドレスを買い付け、着飾って散歩にやってきた、ちょっぴりお金持ちな町娘でありました。
この着飾った娘たちに、病人は臆せず近づいて行きました。そして、「たすけてくれ」とすっかり枯れた声で、手を伸ばそうとしたように見えました。
すると、その娘たちは表情を変え、まるで家畜に触れるかのような悲鳴を上げ、一層強くはねつけたのです。
様子を見ていた貧しい町娘は、思わず「あっ」と声を上げました。気の毒な旅人の痩せた体は、木の枝のような軽さで、後ろ向きに倒れてしまいました。
「なんてこと、なにもそこまでしなくても、よかったじゃないの!」
と、町娘は責めました。ばつがわるそうな顔をして、ドレスのおてんば娘のひとりは、この目撃者に言い返しました。
「どうか恨まないでちょうだい。もし立場があなたでも、きっとこう思うはずよ。せっかく買ったドレスが、靴が、指輪が、えも知らぬ乞食に汚されてたまるもんですか!悪いのは、驚かせてきたこの物乞いと、タイミングよ…!」
そういうと、娘たちは逃げるように、その場から去りました。
言われたことを内心に、自分で唱えてみた娘は、自分も恥ずかしくなってきました。確かに先程、娘は思ったのです。服を手に入れられないことが、「失礼しちゃう。」と。
服を買えていたのなら、服を汚されることを恐れ、自分でもこの女たちのように、病人をはねていたのでしょうか。
「……。」
娘は黙って見送る病人と、自分が買ってきた籠の中身を、交互に見比べました。更に自分の事ばかり考えていた、さっきまでの自分を思い返しました。純真な娘は、今度はそれが良い事と信じ、病人の手をとって言いました。
「これは私が買った、家族のための食べ物だけれど、もしほんの少しでよければ、これくらいならあげるわ。どうぞ、お食べなさい。」
娘はパンきれをさしだしました。それはほんの小さな、ひとかけらのパンでしたが、病人は泣いて喜び、「あなたに神の御加護がありますよう」と娘の前に跪いた。
涙に目を腫らした旅人は、思い出したように荷物の中から、銀でできたロザリオを、お礼にと取り出しました。熱にもうろうとしながら、そのよく磨かれた首飾りを、娘に差し出し、こう言いました。
「実は、私には、満足な金もありはしないのだ…。だから本当は、街へいこうが、このまま飢えて倒れてしまうことは、本当は自分でもわかっていたのだ…。あまりに、苦しいので、本当は君に、命乞いの言葉なんかでなく、ナイフを渡したかったくらいだ…!どうせ、助けてなどくれないと、思っていたのだから…」
旅人は血走った目を細め、最後に笑うと、こう続けた。
「しかし、君にパンをもらうことで、僕は、最後に、誰かと繋がることが、できた。この十字架を受け取ってくれ。旅の中で見つけたものだ…」
そう言ってその病人は、娘に十字架を渡すと、すぐに娘から汚れた身を、離しました。娘が十字架から目を上げると、不思議な旅人はもうどこにも、いなくなっておりました。
娘は家に帰ると、今日、見知らぬ旅人に与えた、善いおこないを思い出しながら、機嫌よくご飯を作りました。帰ってきた外働きの男たちは、この機嫌のよい後姿を、不思議に見たのでした。
「やれやれ、舞踏会の洋服の事は、もう諦めたのか。よかったよかった。これで俺らが着せられていた、重い肩の荷が下りた。」
「あら結局、私は大して身なりも変えぬまま、お城へ行くことになったのに、それを思っても、お父様もお兄様方も、よかったと思うんですのね。」
娘は悪態をついたが、男たちは聞こえぬふりをし、夕飯を催促するのであった。
夜になっていよいよと、月が高く登りました。舞踏会は翌日です。燭台を消した真っ暗な、家主の眠る家をこっそりと、娘は外へ抜け出しました。近くで草笛を吹くような、ノスリが鳴いたような気がしたからです。
ネオン街もないこの時代、月と星の光だけが、ぼうっと外を照らします。たいへん危ない事ですが、娘は闇の中でなに気なしに、家の周りを歩きました。
「鳥さんの夜鳴きは、私の気のせいかしら。大分遠くから聞こえたみたい。」
そう思ったのも束の間、娘はそこに人影を求めました。
昼は衰弱の極みにあった、黄土色のぼろきれが、夜風にはためいて音を立てました。熱病から逃れて這い出た男が、月の光にあてがわれ、こちらを見ておりました。
娘は旅人の、人間離れした純粋な目に、なにかはっとするものを感じました。
「あら、昼間の旅のお方ですか。確か鳥の鳴き声を、追ってきた筈だったのですが。あなたが笛でも吹いたのですか?」
「いいえ、吹いてはおりません。しかし、あなたのおかげでこうして、どうにか元気になれました。それを伝えたかったのです。大変お世話になりましたが、ところで綺麗なお嬢さん、昨日とは表情が随分異なります。今は安らいだような、しかしさびしそうにも見えます。」
「…」
娘は少しうつむきました。そして不安そうに指をもじもじさせると、彼女は打ち明け始めました。
「実は、私は、お城で踊るのです。もう明日の晩には、そこにいるでしょう。ですが、私は庶民の娘。美しく着飾ることもできなければ、容姿も相応しくありません。いかにしてこの葛藤を、鎮めることができるでしょうか。私は自分が、嫌になります。」
それを振り払うように旅人は言います。
「そんなことはないさ、君は美しい。君もきっと、見ればわかるだろう、胸を張るべきその姿が。昼間にさし上げたそのロザリオをごらんなさい。」
厚い手袋が少女の細い節のような手を差した。細い指にはロザリオが、月にきらりと輝いて、包まれるというよりはむしろ、少女を守るかのようでした。
ですが少女は、旅人の言う意味がよく分からず、
「なんだって、ぼやけるだけの銀で、私が美しい事が分かりましょうか。たとえこれが鏡であっても、醜い私を移すだけだわ。あなたがどう言ったところで、慰めには及びますまい。」
と嘆いてみせました。年頃の娘というものは、こういうものでございます。
旅人は話題を変える事にしました。この娘の悩みは、娘自身が口に出すほど、思いつめたものではなかったので、それを知っていた旅人は、あえて何も言わず、別の方向からかたたえようとしたのです。
「君は身なりや、服装の事を、とやかく言っているけれども。お城に招かれるからと言って、くさくさせずに、呼ばれたのは舞踏会だということを、思い出してくれないか。でなきゃ、楽しくないだろう。踊りだったら少しくらい、私にも覚えがあります。ちょっとは役に立って見せましょう。」
旅人はそう言うと、まじめくさった顔でうなずきました。
舞踏会当日の夕方、娘はお城のお堀に来ました。少々上の空でありましたが、娘は結局できるだけ、誰かに迷惑を掛ける前に、早く帰る事に決めたのでした。娘は質素で清潔な、小奇麗な麻の服を身に着けておりましたが、それは城の来客というより、あたかも給仕のようでした。もっともそれはそれで、可愛らしくはありましたが。
城の壁には赤い灯が、ちらちらとあたりを照らしていました。それに照らされた人々の、なんと美しい事でしょう。彼女らはただ着飾るだけで満足する、出来損ないではありませんでした。集まった町娘たちは、お互いに城壁の内側で、再会できたことを喜び、祝い、またこの日に仕上がったお互いの美しさを、口々に称え合うのが聞こえました。貧しい町娘を襲ったのは、みじめさと疎外感、そして悔やみでありました。
城の石橋の前まで来ると、例の旅人の声が聞こえました。低い低い響くような、誰に聞こえるでもないその声を、娘は不思議に思いました。どこから聞こえてくるのか分からないのです。
「きょろきょろしても、見えません。私は魔法で、あなたに呼びかけています。昨晩結んだ約束を、こうして果たしに参りした。いいですか、お嬢さん。そのまま城へ入るのです。私の事はお気になさらず、前だけ向いて門を通りなさい。」
なお一層不自然なことに、守衛も誰も、招待されているはずのない、この男には目もくれなかったようです。いつのまにか少女の後ろで、立ちあがった旅人は、城の奥へと促します。
「だから言っただろう、私は魔法を使えるのです。早く会場に行きましょう。さあ、大広間に入ったら、王子様からのご挨拶。それを聞いたらお待ちかね、今宵のパーティが始まるとも!」
旅人は、自分よりももっと薄汚れた姿のまま…に娘には見えました。その事実が、娘の感じるためらいを、言葉にするのを妨げました。
「でも、でも…」
大勢の人々の前で、すっかり緊張してしまった娘は、憂鬱な顔をしました。
(やっぱり、私にはできるとは思えないわ。私はみんなの陰に隠れて、このまま帰ってしまいたいの。皆は明らかに美しい。それを心から祝福できない、私自身の罪深さに、どうけじめをつければいいというの?)
「おやおや、言ったじゃないか。ダンスを楽しんでくれって。」
「だって、踊り方だって分からないわ。」
「では」
自由に踊ろうではありませんかと、旅人は手袋を脱いで、娘の可憐な手を盗みました。大げさな旅の恰好から、覗くように差し出された指は、餌にありつけぬ小鳥のように、恐ろしく華奢でありました。
伴奏はまだ始まったばかり。狼のような貴族たちは、城下町の来客を一瞥しておりました。女性たちは誰が自分を選ぶかと、舌なめずりをしましたが、上品な人形のように取り繕い、壁づたいにひしめきました。
しかしその人形たちから、黄色い布きれに連れ出された、上品なスズランの花が、飛び出しました。貴族たちはぎょっとして見ていましたが、驚きと喜びに彩られた少女の顔を見ると、この城に咲いたそのいたいけな花に、皆が目を奪われました。
「人々は“自由”と共に踊る。」
旅の青年は踊りを上手く引き立てた。一歩ひいては、一歩詰め、揺れる波のような心地よさと、力強さがありました。
「“道徳”という鏡で身を整えて。」
娘もまた、踊りました。踊ることがこんなにも、楽しいことだと思ったことは、これまで一度もありません。町娘の胸元では、鈍く光る十字架も、踊っているかのようでした。
「身の尊き卑しきを捨てながら、」
娘は暑さを感じていました。その暑さは前日に ドレスを変えなかったことが、恥ずかしいからでしょうか?
いいえ、そうではありません。患っていた旅人に、パンを分け与えたときから、この熱は娘と共にありました。娘もかつて暗い闇の中に、眠っていたのでございます。それがあの時正しいおこないを、選びとったことにより、正義という名の“理性の灯”が、この娘の心でしずしずと燃えておりました。
「いつかは終わる、夏の宴を。」
踊っている間、旅人は風の吹くように、詩をささやき続けました。首から下げた十字架が、娘の細い胸にトントンとぶつかります。
昼間はみすぼらしいと、見るからに嫌ったこの旅人に、手を引かれて踊るこの一瞬一瞬が、いたいけな町娘を酔わせました。そして娘はいつまでも、ただこうして、踊り続けることができたならと、城中の人々の感嘆の目を、一身に浴びるのを知らぬまま、舞い上がるのでありました。
楽しまなければなりません。その資格は娘をもう持っていたのです。月は温かい喧騒の夜を、機嫌よく通り過ぎてゆくのでした。
自由の中で、必要なもはなにか、皆様はどう、思いますか。
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