狩られるもの

 あるところに、毒を持ったヘビがおりました。


 毒を持っているといっても、そのヘビはあまり怖くはありません。なぜならヘビはもう、息も絶え絶えで死にかけていたからです。ヘビは体を病んでしまい、ネズミ一匹も捕まえる事が出来なくなっておりました。もうヘビには、体を満足に動かす元気が、なくなってしまっていたのです。

 季節は深まって秋のこと、色づいた葉がもうじき地面を覆うことでしょう。いつも冬は厳しい新雪が、山の動物たちを苛めにやってくるのでした。ヘビも穴籠りをいそいそ始めるべき頃合いでございましたが、体の狂った彼はただ、乾いた木枯らしが空を吹き渡り、聞こえぬ筈の音に耳を傾けることが、遺された唯一の安らぎでございました。


 気付くとヘビは、自分の後ろに、真っ黒な毛色の猫が立って、こちらを見下ろしているのが分かりました。しかし、首を向ける事もやっとのヘビは、この敵として見下ろす黒猫に、あらがうことはできません。

 黒猫の刀身のような、取りつきようもない視線が、動けないヘビの身を刺します。それはかつて、ヘビがもっと若かったときに、追い詰めた獲物に向けていた視線と、同じものでございました。


 ヘビはこの黒猫に、八つ裂きにされることをも覚悟しました。ヘビは野生で生きる中で、獲物を狩って生きておりました。その殺伐とした生き方に、あまりに慣れすぎてしまったため、ヘビは今度は自らが、この熱を帯びた黒い生き物に、とって食われる獲物でしかないことを、簡単に受け入れてしまったのです。

 鋭い爪がヘビの身の上をなぞり、しびれる痛みが彼を捕えました。ですが、生きることを諦めたヘビは、瞼の無いガラスのような目と、毒のしみだそうとする牙を、明後日の方へ放り出して、次に身を討つ痛みを待ちます。


 ところが驚くべきことに、遠くでもなく近くでもないどこかから、声が響いてきたのです。建物の陰の暗がりか、日の当たる空の下か、ヘビがもっと元気なら、目を白黒させたことでしょう。

「こら、猫!何を苛めているんだい!動けなくなった生き物をいたぶるなんて、お前はよっぽどスープにされたいようだね!」

耳がキンキンとするような、大きな叱り声を受けて、黒猫は身を強張らせました。

「だってだって魔女様!確かにこいつはもうじき死んじまうよ、だがどうにかして、こいつを家の庭からよせなくちゃなんないぜ!でも、もしかしたらコイツが暴れるかもしれないだろ!?そうでないにしても、毒に指を触れちまうかもしれねぇし、それだとばっちいかもしれない!」

「お黙り!口のきき方に気を付けるんだよ、この黒毛玉!この魔女様なら、毒ごときになんて怯むもんですかい!役立たずの愚図猫め!鍋に入れる前に冷たい川の水で、お前の首根っこから尻尾の先まで、洗ってやんなきゃならないね!」

黒猫は再びぞわぞわと身を震わせると、どうやらどこかへ走り去っていきました。


 ヘビが何事かと様子を伺うと、森の乾いた空気が震えた刹那、そこに魔女は最初からいたかのように、土草を歩いてヘビを見下ろしました。革靴が草を踏んでキュッと音を鳴らしました。

 魔女が自分でヘビを助けたのにも拘らず、彼女はいざこの弱々しいヘビを見ると、「なんだ、ただの老いぼれヘビか」とでも言いたげに、退屈の感情を顔ににじませました。

「やれやれ、この死にぞこないを甦らせるのは容易い。だが、ただでこのヘビの生死をひっくり返すのも、気が進まないね。おいヘビ!」

 ヘビは疲労困憊のなか、魔女の気まぐれの関心が、自分に向いているのを感じ取りました。息も絶え絶えのヘビにとって、過ぎたことであるに違いありませんが、魔女の声はあまりに五月蠅く、死にかけの身に響くことを、耐えがたいと思い始めておりました。

 

「お前を、助けてやる。だが、代わりに実験中の試薬品を、お前が消化できたらの話だがね。せいぜい被験体として、私に感謝して味わいなさい。お前の汚れた死体ごときで、私に庭掃除の手間を掛けさせるんじゃないよ!いいね!?」

 考える力はかすかに薄れ、うつらうつらとしながらも、ヘビにはそれを拒む理由はありませんでした。魔女の指がヘビの口にあてがわれ、たった一粒の錠剤が、口の中に滑り込んできました。


 薬を飲まされたヘビは、しばらくはまどろんでおりました。ですが急転直下、まるで唐辛子の瓶を倒したように、じわりじわりと肉が熱を帯びました。そしてたちまち、やつれた体に力がみなぎるのが、自分でもよくわかりました。見えなかった目から鱗がとれ、彼の前に鮮明な、世界が再び開かれました。

 なんということでしょう、ヘビの眼は見えるようになりました。この不思議なことをやりのけた、恩人の顔をよく見ようと、ヘビは眼を走らせました。

 こうるさい魔女の声は、可憐な妙齢とも、たくましい中年ともとれる、どうでもいいような声色でしたが、しかし顔つきは尚更に判別しがたく、美人は美人でありましたが、娘と呼ぶには背が高すぎます。毛髪はどうやら若いようでありますが、体つきも肌も、年頃の女には見えず、ゆったりと身にまとう服が、彼女に関する情報をひた隠しておりました。

 渋い色と、厚ぼったい素材。これが、今でいう白衣、薬品をこぼしてもいいような、魔女のいつもの服でした。引き締まった筋肉を、美しいと考える、野生のヘビにその容姿は、趣味の良い物とは映りませんでした。


 ヘビはこの女がなぜ助けたのか、いまだに理解はしかねます。理由などはさしてない、ただの気まぐれにすぎないのです。しかしそれでもどんな仕組みか、説明くらいはしようもあるでしょうか。

 私がこの“へそ曲がりの”魔女の代わりに筆を執るなら、それはヘビが初めて出会った、「慈愛」の感情でございました。自分が必死で守ってきた、力ありきのわが身の安全を、彼女の利益とは無分別に、タダ同然で与えられ、ヘビは困惑してしまいました。

 年老いて痩せたヘビではあるけれど、ヘビはこの時に至るまで、誰かから愛を与えられたことはありませんでした。冷たい雨の降る夜も、木が枯れるほどの強い日差しでも、ヘビは自分自身で身を固めていました。彼は孤独のうちにあったのです。


 周囲に気を配り、生き残るために神経を使い続けた毒蛇。それが、努力を投げ出した途端に、運よくではございますが、彼に与えられたのでありました。

 初めて受けた恩寵が、彼の胸の中に浸み込むと、心臓のあたりがじんわり熱くなりました。そして、彼は合点が行った様子で、ははあ、これが“恋”なのだな。と、かつて聞いた名前を思い起こしました。この言葉は、自分に無縁でありました時には、頭のどこかで藁布団をかぶせておいたものでした。いまここで、失っていた筈の命を拾われ、巡り合った気持ちです。ヘビにとっては初めての、やさしい気持ちでしたから、恋という言葉を使っても、正確でないかもしれません。ですが、このざわつきを、彼は恋と呼ぶことに決めました。

 そうか、初恋か。……初恋か。


「なんだい、いつまでもこの庭に留まりやがって!あっちにいきな!」

そう喚き散らす魔女でしたが、魔女はこのヘビを無理にどけることはせず、立ち去るのを待ちました。

 ヘビはするすると庭の隅に身を寄せました。視界の端で動き回っていた健康なネズミを、あっという間に一匹捉えて飲み込むと、薬の効果か恋の症状か、高まっていた心臓はすこし落ち着きました。そして、熱くなりすぎた体を休めようと、小屋の軒下の陰ったところへ、身を滑らせました。

 平気な顔こそすれど、もういちど魔女を振り返ると、もう魔女の関心はどこかへ移ってしまったらしく、こちらをみてはおりませんでした。すっかり色づいた木々を見ながら、不機嫌そうな顔でため息をついておりました。その顔さえ離れがたいと思ったヘビは、しばらく、この恩人の家の辺りを、ねぐらとすることに決めました。


 体の軽くなったヘビが、魔女の部屋を窓越しに、横目だけで見てみると、部屋には使い方に見当もつかない木製の道具や、大きな銅釜や木版が乱雑に置かれ、おおよそ綺麗とは言い難い部屋でありました。あのときの黒猫が、部屋の家具の隙間から顔を覗かせておりました。

 不意に目のあった黒猫は、臆することなく近寄ってきて窓辺に陣取り、ヘビを睨みました。そして、いかにも嫌なものに声を掛けるように、声を低くして言いました。

「おい、ヘビ。元気になったくせに、いつまでそこにいるんだよう。」

 勇敢な猫ではございませんか。窓と言ってもガラスなんてまだない時代。ヘビと猫との間には、十字の枠木しか、さえぎるものは御座いません。


 それよりすっかり元気になったヘビにとって、もはやこの猫は捕食対象でございました。黒猫を黙らせようと体を起こしましたが、ふいに光が翻るように、魔女があのとき黒猫の弱い者いじめを叱ったことが、ヘビの記憶上にひらめきました。

 魔女の家の中と外とを行き来するこの猫は、魔女の信頼を自分以上に背負っている事にはなるでしょう。(そう考えれば魔女の口の悪さも目立つというものではありますが。)ヘビは黙って黒猫を見返した後、顎を再び腹の上に戻し、身を丸めて休めました。

 また猫が何か不満を垂れたようですが、ヘビは無関心そうにそっぽを向くだけでありました。


 秋が過ぎ、冬がやってきても、魔女の薬を飲んだからか、ヘビにはぽかぽかとした心地がして、今年の冬はずっと起きていられそうな気さえいたしました。

 人間である魔女は、季節が変わってもその生活は大きく変わることはありませんでした。晴れた日は山菜やキノコを採りに山へ入り、雨の降る日は本を読みました。また、ぐつぐつと煮立つ鍋をかきまぜ、ぶつぶつと不機嫌そうになにかを唱えると、黒猫に八つ当たりのように小言を言いました。

 ヘビは晴れた日は決まって、魔女の視界に入るために、窓辺で日を浴びる時間を作りました。魔女はヘビをかわいがるでも駆除するでもなく、ただの一瞬だけヘビを見るか、或いは黒猫がいないときの代わりとして罵るかくらいの接し方しかしませんでした。ですが、ヘビはただそれでよいと思うのでした。


 冬の日の事でございます。

 その時ヘビは獲物を探すでもなくふらふらと、庭の先に続く森をうごめいておりました。彼の獲物とする小さな動物は、冬となった今は穴の中に潜り込み、すっかり眠り込んでいるでしょう。

 元来小食でありましたから、獲物がなくとも怖いとは思っておりません。彼自身もいつもは冬眠をしていることもあり、この生き物のすっかりいなくなった山を、物珍しいといった様子で、ひとりぼっちで散策しておりました。


 しかし、のんきなヘビでも目を丸くするような、とびきりの出来事が起こりました。

 決して穏やかでない、どすん、ばたん、と強く物々しい音が、魔女の家から響いてきました。あれほど散らかった部屋でしたから、重い木製の無意味な家具が、書棚や机から落っこちでもしたのかと、ヘビは小屋へ戻ってみることにしました。


 やっとこ小屋へ着いたヘビが、目を皿にして部屋を覗くと、まず世界の始まりよりも淡白な、そして次に、忌々しさから青ざめる情景が広がっておりました。

 ヘビが淡白な印象を受けたのは、あれほど汚かった部屋から、すっかり物が無くなっていたからです。黒猫の姿も、家主の姿も見当たりません。

 いいえ、家主の息ようなものが、部屋に残っておりました。

青ざめもするでしょう、魔女の血だまりでした。床にべったりと塗り広げられた、その血は紅く、それでいて、気味の悪いほど美しかったのでした。

 窓から中の様子を覗いたヘビは、いったい誰がこんなことをしたんだと動揺しました。そして、ここにいるべきか、それともここを去った方が良いのか、考えあぐねておりました。


 彼女が魔女と言っても、その正体は人間です。人間は自分と違って毒牙は持っていないけれど、それを補う薬品を作れます。そして鋭い爪も持たないけれど、代わりに道具を使って、器用なことをやってのけたりもします。

 そんな人間である魔女を、コテンパンに圧倒する敵はなんだろうか、決して弱くはないはずだ、そう警戒していると、間もなくこの惨事を起こした敵が、どかどかと足音を鳴らしながら、何もなくなった家に入ってきました。


 それは、彼の想像よりもずっと、か弱い生き物でありました。いや、弱いといってはいけないかもしれません。

 それは人間の群れでありました。せいぜい魔女と同じ、しかし徒党を組んだ人間という生き物でありました。 

 

 異端審問官のザックは、なにもなくがらんどうになった家に戻り、他に持ち出して調べられそうな家具や道具はないかと部屋を見渡しました。しかし、この家の書物も家具も調合薬も、もはや運び出してしまい、ぽっかりとした家が遺されていただけでした。

 これはもう魔女の部屋ではなく、吐き出された魔女の血が塗られただけの、ただの遺構でございました。家主のいなくなった家など、時の経過の多い少ないに関わらず、壁のつくりさえ関係なしに、みな似たように泣いているのです。この光景を見るのは一度ではありません。

 ただザックは平常心を保つ為に、自分に言い聞かせます。僕も好きで魔女狩りの仕事をしている訳ではない。が、ここで魔女狩りをしなければ、家族を養う事も出来ないので、自分の心に嘘をつきながら、いやいや仕事をしているにすぎないのだ。そうして魔女かどうかなどに気も留めず、疑いのかかった人間を捕まえて回るのが仕事です。


 しかし、この日は何やら勝手が違っておりました。今回は確かに、魔女は本物だったのであります。であればこそ、家に魔法がかかっていたのでしょうか、いつも無感覚に考えを閉ざすザックでしたが、この日は家の中で脚を止めて、考えてみたくなったのです。

「これはみんなの為になる仕事だ。人々から尊敬される。」

そこまで考えて、ザックは思いました。

「ああ、私を囲む、人々とはいったい誰なんだ。本当に尊敬しているのだろうか。尊敬してくれているのは、本当に人々なのか?これほど身も蓋もない酷なことを繰り返して、尊敬を得てもそれは嬉しくないのではないか。」

 魔女の血は青や黒と言われている。

 しかし、この魔女も血の色は赤だった。床に張り付いた血糊を見る。

「赤じゃない血なんてあるのかい、ばからしい。いやしかし、そうは言っても、自分の仕事を悪く言うのは、良くないことに決まってる。」


 これでいいのだ。これはよいことなのだ。だから仕事として命ぜられている。余計なもめごとはおこすまい。

 悩みに目をつむり、言い聞かせるように考えをまとめ、家から出ようとした異端審問官ザックは、なにかに身竦められるような気がして、突如脚を動かすことができなくなりました。遠くから呼びかけられる、仲間の声に従って、上体を動かそうとしますが、腕も前後に動かすことも叶わず、体は前に傾けられません。

「どうした?」と仲間達が小屋の中へ駆け込むと、汗だくになったザックはやっと後ろによろけ、自分たちがおおとり物をしたばかりの床に、どたっと座り込んでしまいました。

 指の先に、魔女の血が触れ、ザックの爪を濡らします。ですが、そんなこともお構いなしに、ザックは天井の一点を凝視しておりました。仲間たちもやっと視界にとらえ、その敵に恐れおののきました。


 天井を支えるためにくみしだかれた梁。うす暗いその隙間から、遠くでも近くでもないその高みから、そいつはこちらを睨んでいました。これまでに見たこともないほど、巨大なヘビでございました。毒蛇は目を爛々と輝かせながら、「人間を殺すなどわけのないことだ」と、こちらを嘲笑っておりました。

 審問官たちは声すらあげることを許さぬ恐怖が、得体のしれないたった一匹のヘビから受けていることを知りました。そして彼ら全員が、そのヘビが、自分をこそ狙っているような、錯覚を投影し、鼈甲色の眼を恐れました。

 対してヘビには恐れる感情はありませんでした。恋い慕う魔女を失ったヘビは、どうすることもできない真っ黒な殺意にとらわれました。自分の身はなりふり構わず、なみなみとしたたり落ちた復讐心という毒が、彼の理性を焼きただれさせていたのです。


 たとえ誰か一人を殺せば、その他の人間に自分が殺されるのでしょう。しかしヘビは、あってないような自分の死など、どうでもよく思われました。それよりも今はただ、この殺意の赴くまま、彼女の死をこの審問官らの死によって贖わなければならない、そう燃えるヘビがそこにいました。

「では、どの一人を殺そうか。確実に殺せる一人をこそ、選ぼうではないか。それは最初に見つけたその一人、そう、尻餅をついているそいつこそ、」

殺すのに相応しい、そうヘビは考えました。


 直後、違和感を覚えたのはヘビの方でございました。またもや幻聴が聞こえてきました。それはキンキン声とは異なり、懐かしく、切なくなるような、初めて聞く声でありました。

「許しておやりな―――許しておやりな――今はその時ではない。」

ヘビは混乱しました。それは魔女の声でありました。ヘビがあれほど慕った魔女が、やつらの野蛮さを許せというのです。

「許しておやりな―――許しておやりな――今はその時ではない。」

魔女はこの残虐な人間たちの方が、純粋に慕ったヘビよりも、大切だとでも言うのでしょうか。それは彼女が人間だからでしょうか。


 ヘビは自分の理解の超えた声に、七転八倒の苦しみを覚えました。この怒りを、憎しみを、手放してなるものかと、小さな狩人は打ち震えました。ですが、これは悲しい物語。

 ヘビは彼らへの執心を、遂に振り払いのけたのでありました。


 ヘビは繰り返し自分に問いかけ、やはり恋という呼び名は間違っていなかったのだな、と納得しました。彼の心臓は大きく跳ね上がったのです。

 最初からヘビは、この女には適わなかったのでした。魔女に許せと呼びかけられたなら、怒りを捨てざるを得なかったのであります。


 それはヘビにとっても危険を意味しました。殺意の減衰を見て取った審問官らは、自分達に降りかかった呪いが解けたことに、瞬時に気付きました。動かせるようになり次第、速やかにこのヘビという危険を、片付けてしまいたいと怯えていた人間たちは、筋肉の硬直がほどけた途端、もはやほとんど何かを考える暇もなく、背中に携えていた杖をするりと握り、光の速さでヘビを殴りつけました。


 力の限り殴られたヘビは、首から背中にかけて、肉は細切れになるほどの痛みを覚えました。ヘビはもがきながら土間に落ちました。そしていっせいに人間たちは、ヘビを袋叩きにし始めました。

 ザックは数歩後ろでこの光景を見ておりましたが、彼の恐怖の対象は、もはや変わっておりました。今まで我々を追い詰めていたヘビよりも、必死の形相で叩き潰そうとする仲間を恐れ、ヘビのように這いながら、魔女の小屋から必死で逃げだしました。


 ヘビを倒そうと殴打する彼らは、力の加減を忘れるほど、あまりに怯えすぎておりました。恐怖という毒に浸された彼らは、ヘビを叩きおとした最初の一撃が、家の骨を壊していたことを見逃していました。

 這い出したザックは自らの後ろで、何が起こったかを確認する余裕もなかったのです。ミシミシミシッ!という家の悲鳴が森へ響くと、彼らの絶叫は、崩れ去る小屋の轟音にかき消されて、聞こえなくなってしまいました。ザックは動かなくなった脚をかばいながら、身を腕だけで引きずって、魔女の死体を移送した街へ降りて行きました。



 しかし、あの豪胆な魔女ならば言うでしょう。

「そんなに悲しい物語じゃないさ。この魔女様にとってはね。」

魔女にとってはなんでもお見通しでありました。そして死ぬ瞬間までとっておいた彼女の微笑は、彼女の家族に向けられました。


 倒壊した魔女の家の残骸に、ヘビは身を丸めていました。可哀そうに、すっかり冷たくなり、身を縮めるヘビですが、その口元は不思議と笑っているように見えました。

「ついこの前の秋のある日、偶然にもであった魔女は、救ってくれたのであったなあ。その時に息絶えていた筈の俺の命、偶然に拾ったに過ぎないこの安い命に、なんの未練を持ち得よう。ああ、魔女よ、短い時ではあったけれど、またお前に会いたい、俺はそう願っている。」


 あのときは伸びて放り出されていたヘビの死体でしたが、今はその毒牙と眼を、自らの体で包み隠し、肉と肉の間に、すっかりしまい込んでおりました。


 すると、不思議なことにこの魔女の家にも、天使の梯子がおろされました。天使が冬空の下に舞い降りてきて、毒に警戒する必要のなくなったヘビの体を迷いなく抱きかかえ、魔女のもとへと送るべく、力の限り翼をはためかせました。


 野蛮な動物どもを吐き出して潰れた家を、一匹になった黒猫はじっと見ていましたが、やがて宙を舞った埃が地に身を伏せたのを見届けると、黒猫は森の奥へと走り去っていったのでした。

 ある冬の日のことであります。



 恩人が危害を加えられてなお、私達にその危害を許すようにこいねがったとき、皆様はどう、想いますか。

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