エピローグ

 


 五月も終わりにさしかかった夜の、生温い空気に吐き出した紫煙が混ざった。港に来たのは、随分と久しぶりな気がする。

 僕はいつも通りに海の目の前の手摺にもたれかかって、息を吐きながら真下に打ち付ける波をぼんやりと眺めた。


 およそ一か月前、ここで落としてしまったUSBメモリのことを思い出す。

 僕は自分の心に溜まっていくどろどろとした汚いものを、あのUSBメモリに吐き出していたのだと思う。生活の中で湧き上がる自分の汚い感情を作品として並べることが、僕にとっての文章だった。

 綺麗なものなんて一つもなかった。現実で知ることのできない愛を知ったふりをして並べた。憧れ止まりの死に囚われて命を軽々しく並べた。


 でも、それで良かった。


 他人のことを認められない僕が、愛せない僕が、人からそれを貰おうなんて初めから無理な話だったのだ。小説を書くことで、自分の中の何かが認められるかもしれないと思うことだってあったけれど、上辺だけのような文章じゃ誰の一番にもなれないことは明らかだった。


 それなのに僕が書くことをやめられなかったのは、やっぱり僕自身を捨てきれなかったせいだ。


 思考を波音が弾いて、瞬きをする。真っ黒な波が押し寄せては消えていく。USBメモリは今頃どこへ行ったのだろう。僕を、置き去りにして。

 あれは僕の分身のようなものだった。毎日のように書いては保存していった小説も、詩も、遺書も。死にたいと思う日には港へ来ることにしていた。結局、僕は一度も飛び込むことができず、USBメモリだけが海へ飲み込まれてしまったけれど。


 海底に沈むメモリを想像する。それを拾いに行けば、ようやくこの海の深さを知ることができるのではないか。


 そう思ったときだった。


「っ、」


 バサバサと音を立てる黒い影。


 我に返った僕の目の前に、大きなカラスが止まっていた。手摺を掴む鋭い爪、大きな嘴、こんな間近でカラスを見たのは初めてだった。

 煙草を消す。カラスはそんな僕の様子を大人しく見ていた。何故か、驚きも恐怖心もなかった。


「……クロ、——え?」


 それよりも、無意識に自分の口からこぼれた名前に戸惑った。なんで僕、今クロの名前……。


 カラスは首を傾げる。その小さな頭に、僕は右手を伸ばしていた。カラスも逃げることはせず、それどころか擦り寄ってくるような感じさえした。頭をそっと撫でると、思ったよりも柔らかかった。何回かそうしていると、カラスはすり抜けるように飛び立っていってしまった。



 帰ろう、と思った。


 家までの道をゆっくりと歩きながら、息を吐く。きっと、僕の人生はこんなふうに続いていくのだと思った。一日一日が過ぎていくたびに、三年前に立ち止まりたかった自分と心が引き離されて千切れそうになる。

 死にたくて、港へ行って、また引き返してを何度も何度も繰り返して、山ほどの文章を書き連ねて、たとえ死を望むことが間違っていると言われても、たとえ生きることには向き合うのが正しいと言われても、僕はそうやって生きていってしまうのだと思う。

 それが、僕の生き方だ。少なくとも今は。


 新しいUSBメモリを買った。帰ったら、なにか書こうと思った。夜の空を見上げる。ふいに、魔法使いの少女が思い浮かんだ。一瞬立ち止まってから僕は、歩調を速めた。もうすぐ、春が終わる。




 

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大人になれない僕たちは、 文月 螢 @ruta_404

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