9-3
情けなさに俯いていると、小野寺さんの傍らに小さな影の気配がした。
「クロ」
その名前に面食らって顔を上げる。心臓が握りしめられたみたいにぎゅうっと痛くなった気がした。
彼女は、カラスを撫でていた。
「クロ……」
「この子の名前、クロっていうの」
「あぁ、」
「撫でてみる?」
自分でも、なんで頷いてしまったのかわからなかった。伸ばした手が微かに震えて、カラスは首を傾げる。もうすぐ手が届くというところで躊躇している僕のほうへ、ぴょん、とカラスが移動した。広げた手のひらに、黒い頭が触れる。
小野寺さんは嬉しそうに笑っていた。クロは、彼女の一番の友達なのだと思った。
君と会ったことも、喋ったことも、絶対、誰にも言わない。だから僕から小野寺さんの記憶を消さないで。そうしたら僕だって、友達に――。
そこまで考えて、僕はそれらを飲み込んだ。思い上がりも甚だしい。僕は偶然ここに居合わせただけで、最初から本当にそれだけだったんだ。
「……そろそろ、やろうかな」
小野寺さんが言った。クロは彼女の足元に戻って、ほんの小さく鳴いた。
「あのね、私、なんて言えばいいのかわからないけど、都築くんのこと全部が上手くいけばいいのにって思うんだ」
小野寺さんは、本当だよ、と言った。僕は黙っていた。
「都築くんはすごいよ。頑張って、生きて、偉いんだよ。でも、これからも頑張らなくちゃいけないんだよ。だって、都築くんは、生きていくんだもん」
なにかを喋ったら、泣いてしまうと思った。無理だと首を振るのを寸前で堪えて、自分に言い聞かせるために何度も何度も頷いた。
強くなった風に応えるように、港にぶつかる波の音も大きくなっていた。とっくに暗闇に慣れた僕の視線の先で、小野寺さんはじっと魔法陣を見つめている。
大きな瞳の中には、いったいどれほどの覚悟があるのだろうと思った。きっと誰にでも神様がいて、彼女には彼女の神様がいて、それがどんなものなのか僕は知ることができない。
小野寺さんは魔法陣を描いたチョークを左手の甲に当てた。そしてそれをすっと横に引いたかと思うと、赤い線が細く跡を残す。夜の中で、その赤だけが異様なほどに鮮やかだった。
右手の指で傷をなぞった彼女は、魔法陣を真っ二つにするようにその指でコンクリートを同様になぞる。
見ているあいだずっと、喉が詰まったみたいに声が出なかった。
クロが翼を広げて飛び立ち、そばの手摺に止まる。そして、海に向かって大きな鳴き声を上げた。
「ありがとう、都築くん。……ばいばい」
目の前の魔法陣が光って、あまりの眩しさに僕は目を閉じた。
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