きみに会うための440円
夢月七海
きみに会うための440円
あと数メートル先の待ち合わせに辿り着く。私は自分が、思った以上にどきどきしていることに気が付いた。
市民の憩いの場となっている広場の真ん中には噴水があって、その縁に彼が座っていた。じっと、文庫本に目を落としたまま動かない。
「あの……岬さんですか?」
私が声をかけると、彼ははっとして顔を上げた。
大きく見開いた眼が瞬いた後、慌てて彼は立ち上がる。
「はい、そうです。初めまして、ヒカルさん」
「あ、こちらこそ、初めまして」
彼が頭を下げたので、私もそれを返す。
SNSでやり取りをしていたり、DMでお互いの写真を送ったりしていたとはいえ、こうして直接会うのは初めてだから、ちょっと緊張してしまった。ハンドルネームで呼び合うのも気恥しい。
私よりも、少し背の高い彼は、あいさつの後すぐに目を逸らしてしまった。
彼は、薄手のグレーのコートを丸襟の白いシャツの上から羽織っていて、靴下がちょっと見えるくらいのジーンズに黒いスニーカーを履いていた。こういうさりげないファッションも、なんだか目新しく感じる。
「えーと、では、行きましょうか」
「はい。お願いします」
彼とは、一緒に古本屋を巡る約束をしていた。その後は、カフェに行く予定だ。
このコースは彼が決めてくれていたので、私は初めての町でも安心してエスコートされる。ただ、一緒に並んで歩いていくだけでも、ついきょろきょろしてしまう。
「ヒカルさん、今日は遠くからわざわざありがとうございます」
「あ、いえ、誘っていただいて嬉しいです」
生垣の間に挟まれるように立っている四角いポストが珍しくて、それを目で追いかけていたら、彼から急に話し掛けられた。
まだまだ硬さを感じられる声色に、こちらももう一度頭を下げてしまう。お互いに、こうしてネット上で知り合った人と会うのは初めてなので、緊張しきっていた。
「どれくらいかかりました?」
「一時間ぐらいですね」
「あ、交通費とかは……」
「えーと、電車とバスとを合わせて、四百四十円くらいでした」
私は、頭の中でここでの貨幣価値を基に計算して、彼に答えた。
すると、彼はとても申し訳なさそうな顔になった。
「すみません、こんな何もない町に、わざわざ来てもらって」
「そんな、いいんですよ。私、ずっとこの町に来てみたかったんですから」
慌てて、そう答えた。もちろんそれは本心だった。
「この町で暮らす岬さんが、何を見て、何を聞いて、それを小説に書いているのかを、知りたかったんです」
「……ありがとうございます」
彼は咄嗟に目を逸らしてしまい、とても小さな声でお礼を言った。
どうしてあんなに恥ずかしがっているのだろうと、私は不思議だったが、そのまま一緒に歩いていく。
なんとなく、会話が途切れてしまった。しかし、気まずさを感じるよりも、私は周りの景色を見るので一生懸命になっていた。
タイヤで地面を走っていく車やたわんだ電線も、映像では見たことあったけれど、本物には感動してしまう。
彼は、そんな私の様子に気付いて、同じように空を見上げた。
「いい天気ですね」
「はい。そうですね」
まるでフィクションの世界のようなぎこちない会話に、私は密かに胸を高鳴らせていた。
確かに彼の言う通り、今日は気持ちのいいくらいの晴天だった。目を細めてしまうくらいに眩しい。
本物の空の青さにも、浮足立つような思いだったが、正直私は、雨も体験してみたかった。
雨がどんな匂いをしているのか、どんな感触をしているのか、そういうのは映像や絵だけでは分からない。
そう言えば、彼の小説にもよく雨が登場していたなと、少し俯き加減に歩く彼の横顔を見る。口を一文字に結んで、何か深く考えているようだ。
あのラストシーンでの雨の情景は、非常に素晴らしいものだった。優しく別れ際の二人の頬を濡らす、暖かくも胸を締め付けられるような雨。
彼とその話も出来たらいいな。
私はそう思いながら、小型カメラと小型マイクの付いているメガネをかけ直した。
◇
一通り古本屋巡りを終えて、私たちは彼がよく訪れるというカフェのテーブルに座った。最初に噴水の前で出会ってから一時間半ほど経っていたが、現在向かいにいる彼はまだ少し緊張しているように見える。
彼が勧めてくれたナポリタンとエスプレッソコーヒーを注文した後に、私は改めて彼と向き合った。
「岬さん、今日はお忙しい中会っていただき、本当にありがとうございました」
「え、いや、大丈夫ですよ。土日はいつも休みですし」
私の言葉に、殊更彼は焦りを見せた。自分の正直な気持ちを口にしただけだが、不自然だったようだ。
また、ちょっとした沈黙が私たちの間に流れる。その時、彼は古本屋で買った本に目線を落とした。
「……ヒカルさんは、何も買わなかったんですね」
「……はい、そうです。気になる本が無くて」
はにかんでそう答えたけれど、完全に嘘だった。何冊か、喉から手が出るほど欲しい本があったのは確かだ。
ここで本を買っても、全て持ち帰ることが出来ない。それを思うと、当たり前に本がある世界に暮らす彼がとても羨ましかった。
「確かに、本との出会いは運命的なものがありますからね。僕のペンネームの由来も、あそこの古本屋のワゴンセールで売っている本から取ったんです」
「へえ、そうだったんですか。何て名前の本ですか?」
思わず飛び出た、彼の知らない一面の話に、私は非常に緊張しながらも、何気ない様子で質問してみた。
「『岬の灯台が消える時』という本です。知っていますか?」
「はい。読んだことがあります、……電子書籍で」
私が正直に言うと、彼はそうですかと顔を綻ばせた。
「僕はあまりミステリーを読まないのですが、あの小説は、海沿いの町に住む高校生たちの心情がとても細やかに描かれていて、そこに強く惹かれたんです」
「そうだったんですか」
私は感心しながら頷いた。確かに、彼の作品を思い返してみると、あの本から受けた影響が読み取れる。
こんな話を聞けるなんて。やっぱり直接会って良かったと改めて思った。
「では、岬さんが一番尊敬している作家は、『岬の灯台が消える時』の塚田まどり先生なんですか?」
「なんだか、インタビューを受けているみたいですね」
彼がそう言って噴き出したのを見て、私は一瞬ひやりとした。
しかし、その言葉は戯れだったようで、彼はすぐに口を開いた。
「確かに、塚田さんからは影響をたくさん受けましたが、でも一番は夏目漱石ですね」
「そうでしたか。私も何冊か読んだのですが、素晴らしい作品ばかりですね」
「はい。僕はすごく夏目漱石を尊敬していて、もしもタイムマシンがあったら、彼に会いに行きたいですね」
彼は、無邪気に目を輝かせながらそう言い切った。
「……素晴らしい夢ですね」
私は笑ってみたけれど、それがぎこちなかったのか、彼は一瞬不思議そうな顔をした。
その時丁度、私たちが注文していたコーヒーをウエイトレスが運んできたので、彼はそちらの方に意識を向けた。
白いカップと対比するような黒いコーヒーを私は見下ろした。コーヒーの苦さはよく知っているので、適量のミルクと砂糖を入れてかき混ぜる。
彼はブラックのまま、コーヒーを飲んでいた。私も少し冷ましてから、口に運ぶ。
「……美味しい」
「ええ。ここのエスプレッソは最高でしょ」
彼は自慢げな笑顔で頷いていた。
私は、人口のものとは比べ物にならない、本物の豆で淹れたコーヒーのおいしさに感激していたのだが、その事を夢にも思っていない様子だった。
ふっと息を吐いて、すぐ右側の大きな窓を見る。
「し」の形をさかさまにしたように生えている電灯。日光を反射して輝くガラスのビル。当たり前のような顔をして道を歩いていくたくさんの人々。
「岬さんは、よくここで執筆しているのですね」
「ええ。何の変哲の無いカフェの、普通の町の風景ですが」
彼が道中で教えてくれたことを思い出しながら呟いた言葉に、彼は困ったように付け加えた。
私は、窓の外に目を向けたまま、ゆっくりと首を横に振る。
「いえ。素敵です」
丁度その時、野生の鳩が空を横切った。
◇
カフェでの食事と語らいを終えて、私たちは三度町へ出た。
私は彼から、たくさんの創作や小説についての考え方を聞けたのだが、まだ一番気になることを聞けなくて、それをどう尋ねようか悩んでいた。
「今日はたくさん話せて、楽しかったです」
「……はい、私もです」
そうこうしている間に、私たちが最初に会った広場が視界に入ってきた。あの場所で、私たちは別れる約束だった。
彼はとても満足そうだったが、私はまだ心残りがあって、対照的に沈んだ気持ちだった。
「あの、実は、今、新作の構想があって、」
「えっ?」
彼が唐突にそう言ったので、私は思わず聞き逃すところだった。
横を見ると、彼は耳まで真っ赤になって、今まで一番恥ずかしそうに口元をもぞもぞさせている。
彼は話すのを躊躇するようなそぶりだったが、この上ないチャンスを逃すわけにはいかない。
私は彼にはっきりと尋ねた。
「その新作の名前、何というのですか?」
「えっと、まだ仮の名前ですが、漢字で淡い色と書いて、『淡色』といいます」
それを聞いて、私の心の震えが全身に広がり、膝から崩れ落ちそうになった。
『淡色』。私の人生を変えてくれた本。私が、卒業論文の題材にしたいと思ったほど、愛している一冊。
奥付の情報やあとがき、彼のweb小説ページの情報などから、大体この作品が生まれる時期を見計らっていたのだけど、丁度どんぴしゃだったようだ。
私は、密かに息を整えて、彼へもう一度質問した。
「どんな話ですか?」
「えーと、また、恋愛の話です。高校生の美術部員の女の子と、そこのOBだけど彼女との面識のない美大生が出会って、それで……」
彼は、私の熱心な視線に気づいて、言葉が途切れてしまった。
「あ、すみません、なんか急に、ものすごく恥ずかしくなってしまって」
「い、いえ、こちらこそ、勝手に興奮しちゃって」
出会った頃の距離感に戻ってしまったかのように、私たちは俯いて歩いた。
彼はもう、『淡色』の構想を話そうとしなかったけれど、内容は十分すぎるほど知っている私は、もう満足していた。この時点で、彼には『淡色』の内容を固めていることを確認できたから。
私たちは、広場の中に入り、噴水の前に立っていた。
改めて、私たちは向かい合った。彼の顔はとても晴れやかで、これが私たちにとっての永遠の別れになることを、微塵も考えていないようだった。
「こうして、ファンだと言ってくれる方に合うのは初めてだったんですが、その相手がヒカルさんでとても良かったです」
「はい。私も、岬さんに会えて、本当に嬉しかったです」
私も、嘘偽りのない言葉で応える。
私自身の秘密による、一抹の罪悪感はあったけれど、それを悟らせないように努めた。
ふと、彼が何かを迷っているような素振りを見せた。
どうしたのだろうと思っている隙に、彼の両眼が、私を射抜く。
「実はぼく、最近まで書くのを辞めようか悩んでいたんです」
突然の彼の告白に、私は何も言えなかった。
笑顔で頬を掻きながら、彼が続ける。
「評価もPVも伸び悩んでいて、だけど僕には流行りものとか書けないんで、もういっそのこと、辞めてしまおうかなんて考えていたんですよ」
「……」
ネット上のやり取りしかしていなかったとはいえ、彼がそれほど思い悩んでいたなんて、全く気付かなかった。
そして、私は一瞬、本当のことを話してしまおうか、と考えていた。
「私は、きみの小説が大好きで、きみのことを知りたくて、遥か未来からタイムマシンに乗ってやってきたの」……その真実は、あっさりと頭の中で言葉になった。
明日には、彼は私のことを忘れてしまい、彼と私とのSNS上の会話もすべて消えてしまうから、言っても良かったのに、そう告げることが出来なかった。
分かっている。こんな荒唐無稽な話、彼にとっては気休めにもならないという事を。
だから代わりに、いつも思っている気持ちを伝えた。
「もしも岬さんの本が出版されたら、私は孫に、いやひ孫にも、読ませたいと思います」
彼は一瞬きょとんとした後に、ふふっと噴き出した。
先程の励ましが通じたのか分からない私に、彼は申し訳なさそうに手を振る。
「もう大丈夫ですよ。他ならぬ、ヒカルさんの言葉で、僕はすでに立ち直っていますから」
「……そうだったんですか」
私はほっとしながら、体から力が抜けていくのを感じた。
もう私は、彼の力になれていたんだ。その事実だけでも、私の時代に持ち帰ることが出来て嬉しかった。
「……ヒカルさん、そろそろバスの時間ではないですか?」
「あ、そうですね」
彼が腕時計を見て、私に教えてくれた。
私は彼に深々と頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。新作の感想、ぜひ教えてください」
「……はい、楽しみにしています」
最後は自然な笑顔を、彼に向けることが出来た。
そして私たちは、お互い踵を返して、別々の家路へ向かう。
一度振り返ると、丁度彼のこちらの方を向いて、右手を高々と上げている所だった。
町の雑踏と、彼の姿と、これをメガネのカメラだけでなく、自分の目に刻み付けながら、私も彼に手を振り返した。
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