終章
終章
「おーい、ご飯だぞ。食べるぞ。」
杉三が車いすの上に乗せたトレーの上におかゆを乗せて、四畳半にやって来た。
由紀子もその後を追いかけて手伝いに来た。
「よし、今日も残さず食べような。まずいなんて絶対に言わないでくれよ。」
由紀子がおかゆの乗った皿をトレーからおろして、水穂の枕元に置いた。
「おい、ご飯だから、起きて。ほら、布団に座って。」
杉三が、再度そういっても、
「食べたくない。」
水穂は、布団の中でさらに小さくなった。
「何で?食べたくないの?」
「食べる気がしないの。」
そういう水穂だが、杉三は布団をはぎとった。
「バーカ。ご飯を食べるきにならないやつなんかいるもんか。そんなこといっ
ても通用しないぞ。布団に座って、しっかり、ご飯を食べろ。」
由紀子がそっと水穂の肩に手をかけて、ほら、と布団の上にすわるように促し
た。水穂は由紀子に支えて貰いながら、どうにかこうに座ってくれた。之でや
っと、第一関門は、突破した事になる。
「よし、今日は、サツマイモをやわらかくなるまで煮た芋粥だよ。芥川龍之介
の小説に出てきたやつを、そのまま再現してみたよ。思いっきり味わって、食
べてみろ。」
杉三はおかゆをかき回してさじで掬い上げ、水穂の口元へ持っていった。とり
あえず、口には入れてくれたのだが、問題はここからなのである。
「ほら、よく噛んでたべるんだぞ、すぐにのみこもうとおもったらだめだぞ。
ゆっくりよく噛んで食べろよな。」
由紀子は、そのあたりから、心配そうな様子を見せた。
「そうそう、上手い上手い。よく噛んで食べるんだぞ。よく噛んでな。」
杉三は一生懸命励まし、咀嚼を促した。病変は、全身の筋肉が劣化してしまうわけだから、当然顔にも及ぶ。顔の筋肉が劣化していけば、顔面麻痺のような状態になる。それを避けることはどうしてもできないから、とにかく使いこなして、進行を遅らせるしか方法はないのだった。ご飯を食べれないのは単に本人が努力しないという問題だけでなく、筋肉の劣化ということでもあった。
「じゃあ、充分に噛み砕けたら、ゆっくり飲みこんでみな。ゆっくりやるんだぞ。とにかく慎重に飲み込めよ。急に飲み込んだら気管に入っちまうからな。」
と、杉三が注意するのだが、水穂はそれは効果なく、激しく咳き込んでしまうのである。慌てて由紀子が、口の周りにタオルを当ててやると、食べたものがごっそり出てきてしまった。吐瀉物には、食べたもののほかに、血液もあった。
「ああだめだ。こりゃあ失敗だ。飲み込めなくて綺麗に吐き出しちまった。でもここであきらめたらいかんぞ。よし、もう一回やろうな。何とかして完食しないとだめだからな。」
杉三はそういって、おさじを再度口元へ持っていくが、水穂は首を横に振ってしまうのだった。
「ダメ。食べなきゃ。もうちょっと、頑張ろう。」
もう一回おさじを口元へ持っていく。でも、また顔をそむけてしまうのである。
「だからあ、食べなくちゃダメなんだよ。いくら吐き出したとき苦しかったとしても、食べるのはやめちゃいかん。それも負けちゃいかんよ。」
またもう一回、おさじを口元へ持って行った。いくら食べろと催促しても、顔をそむけてしまうのであった。吐き出した時によほど苦しかったのだろう。同じ事を繰り返したくないのだ。
「水穂さん。」
不意に由紀子が強い口調で言った。
「死んじゃうわよ!食べないと!」
杉三も驚いてしまうほどの、強い口調であった。でも、すぐに彼女が何を伝えたいのか、杉三はわかってしまったようで、あははと笑った。
「あなたはよいのかもしれないけど、もしそうなったら、悲しむ人がここにいるってことくらい、わかって頂戴よ!」
由紀子は水穂さんの体にしがみついた。
「お願い!死なないで!」
杉三は大きなため息をついた。
「ここまで愛してくれてるやつがいるってことに気が付かないんだから。水穂さんも、相当鈍い奴だな。食べるってことはな、自分のためだけじゃなくて、作ったやつらにとっても重大だってことくらい、わかって頂戴ね。頼むよ。」
それだけ言うと、また一つ、別の意味でため息をついて、
「さあ、愛してくれる人の為にも、食べような。」
杉三は、今度はにっこりしながら言った。
水穂も由紀子さんのアプローチにやっと気が付いてくれたらしい。今度はおかゆを口にいれて、一生懸命噛み砕こうとする姿勢を見せた。でもどうしても飲み込むということができなかった。飲み込もうとすると、どうしても気管に入ってしまうのか、すぐに咳き込んで吐いてしまうのだ。
それでも、もう食べ物を出されても、首を横に振ることはしなかった。一生懸命食べようとしているのが見えた。大体の物は飲まずに吐き出してしまったが、それでもやっと芋を一切れ飲み込んでくれた時は、よくできましたと杉三も褒めたし、由紀子に至っては、よくやったと感激して、思わず抱き着いてしまったほどである。
「おさじ一口だけだったが、それでも食べてくれた。これでよかったのかなと言えばそうでもないが、ずっと食べ物を拒否し続けたときよりはまだいいよ。とりあえず、薬飲もうか。」
「それはあたしがやっておくわ。杉ちゃんは、体を支えてて。」
こういうときは、文字の読み書きができる由紀子の出番だった。杉三が体を支えている間に、由紀夫は夕食後と書かれた袋を開けて粉薬を取り出して、枕元に置いてある吸い飲みの中に入っている水に溶かして、それを水穂に飲ませた。これだけは吐き出すことなく中身を飲み込んだ。食べることと飲むことは、また別なのだろうか?
薬が回ってしまえば、もう気を失ったように眠ってしまうのだった。由紀子は杉ちゃんから、バトンタッチして体を支えてやり、静かに横にならせてやった。支えていないと、頭を打ってしまう危険があった。由紀子は、水穂さんの体にかけ布団を掛けてやった。
「それにしても、由紀子さんが、ああいう行動に出たとは思わなかったよ。」
杉三がぽつんとつぶやいた。
蘭は、旭川行きの各駅停車の電車に乗ってがっくりと落ち込んでいた。さっきの水穂さんの名を冠した駅で、マークに言われたことを、頭の中で削除できないでいたのだった。できれば気にしないで、そのままでいられたら何よりよいのだが、今の蘭にはそれはとても無理なことである。あの時言われた言葉は、一度や二度、蘭も水穂にしてやりたいとおもっていたことだった。蘭は、それを日本国内で実行しようとしていたのだが、それは絶対に無理だということを聞かされる羽目になったのだった。
それにしてもマークさんは、のんきだなあと思う。また電車の中で稲村や、森の景色の写真を撮ったりし始めていた。駅に停車したとき、人間の乗客ではなくて、キタキツネが座っていた時には、かわいらしいと感激して、動画まで撮影していたくらいだ。
乗客は、ほかに誰もいなかった。本当に、孤立した電車という表現がぴったりで、乗る人もいなければ降りる人もいない。確かにただ走っているだけの寂しい電車だろう。だけど、周りには田園風景があり、稲村が沢山あるのだから、多分誰かが住んでいるのだろう。誰もいないというわけではない。
「やっぱり。」
思わず蘭はつぶやいた。
「水穂は日本にいさせてやりたい。それが一番だと思っている。」
「そうですかねえ。」
マークは、蘭の発言にぼそりと答えた。
「日本では助けてくれる人もいないし、助けてくれる社会的な組織もないじゃありませんか。」
「いや、ある。手元になければ探しに行く。」
蘭は、きっぱりと言った。
「これだけ人がいるんだもの。きっと奴の事を見てくれる人だっているはずだよ。」
「でも、歴史的な事情というものは、とても重いものじゃないですか。今は昔と違って、国を変える自由って物も保証されているでしょう。言い方を変えれば、海外へ逃げる自由ですよ。それは使ってもいいんじゃないでしょうか。今の時代であれば、日本人が海外に永住しても、何もかっこ悪いことはありませんよ。」
「いや、奴には少なくとも、僕もいるし、杉ちゃんもいるし、いろんな人がいるんだから、一人になんてさせないさ。僕はおしまいまでちゃんと奴の面倒を見るよ。」
「蘭さん、そうやって正義の味方気どりしてもね、無理なことってあるんじゃないかなあと思うのですが。」
マークさんも、水穂の事を心配しているのだ。それは単に、容体がよくないことを心配しているのではないことも、蘭にもわかった。
「きっとそのうち、何とかしてくれと叫んだら、答えてくれる時代も来るのではないかと思うんだ。」
「何ですか。そんな取り返しのつかないこと言って。日本の福祉制度は全然役に立たないと、杉ちゃんから聞きましたよ。今向かっている旭川駅でさえも、使いやすい駅とは決して言えませんよ。そんな中で、水穂さんが、生きていけるとは、到底思えませんね。」
「いや、いけるんだ!」
と蘭は言った。
「僕らがそうなるように世の中を変えていけばいい、変えていかなくちゃ!」
丁度その時、疲れた顔をした気動車は、ホームに停車した。外には渡坂を持った駅員が待っている。旭川駅に到着したのだ。
電車のドアが開く。またごちゃごちゃして殺伐とした駅へ、蘭たちは、戻っていったのだった。
さびしい駅 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます