白い正義と黒い世界

ユウキ ヨルカ

白い正義と黒い世界

世界に上手く溶け込めないものがある。


 白色のクレヨン、着席者のいない椅子、春に取り残された雪。

 それらはどこかに大きな違和感を抱えながらも、こうして当たり前のように世界に存在している。

 だけど、明らかに自分が周りと何か違うということはしっかりと理解している。


 それは、僕と凪野も同じだった。


 世界や社会が規則正しく、正常に回っていくためには、僕たちの存在は不要なんじゃないか。異物とみなされているんじゃないか。脇役にすらなれず、寧ろ世界の敵として排除される役に回されているんじゃないかと、つくづく思う。

 だから、時々こんなことを考えてしまうんだろう。


 ——もし、この世界から、僕と凪野以外の人間が綺麗さっぱり消えてしまったとしたら。

 あるいは朝目が覚めると、僕たちだけがこの世界とは別の、人間が誰も住んでいない世界に飛ばされていたとしたら。


 勝手に自分と他人を比べられることも、劣等感や自己嫌悪に苛まれることも、生きる上で不必要な感情を曝け出すこともせずに済む。

 もちろん、喧嘩や戦争なんていざこざも起きることは無くなる。

 それはきっと、今いる世界よりも平和的で過ごしやすい世界なんだろう。楽園と言ってもいいかもしれない。


 そこでふと思う。


  仮に、そんなSFじみた妄想が現実になったとして、僕たちは正常になれるのだろうか。世界に馴染むことが……溶け込むことが、出来るのだろうか、と。


***


 凪野夕を一言で表すとすれば、それは正義感の塊のような少女であると、僕は思う。

 夜色で染めた長い黒髪に、冬の朝みたいに白く澄んだ肌と瞳。それから、凍って張り付いてしまったような何事にも無関心な表情。

 そんな生物としての温度を感じさせない氷のような外見に対して、彼女の心には常に正しさの青い炎が灯っている。


 間違いを許せず、冗談を許せず、理不尽を許せない。


 そんな、どこまでも真っ白で純粋な彼女が、この世界に上手く溶け込めるはずもない。世界に上手く溶け込むには、少しくらい汚れていなければならないのだ。世界が汚いものであると理解し、それを受け入れなければ、この世界の一員として認められない。

 けれど、彼女はそれを見過ごすことができない。間違っているものを正しいとは言えないし、正しいものを間違っているとは言えない。

 凪野夕は正しすぎるが故に、この世界から外された存在なのだ。


 対して僕——九ノ瀬景は、彼女とは異なる理由で世界に溶け込むことが出来ていなかった。

 誰の目から見ても周りから疎外されている凪野と違って、僕の場合、表面上は上手く世界に溶け込んでいるように周りに見せている。

 相手が笑っていれば僕も笑い、相手が悲しんでいれば同情の言葉を投げかける、といった風に。

 けれど実際は、僕も凪野と同じで世界から外された側の人間だということを知っていた。

 例えば、教室で友人Aや友人Bと談笑している時、僕は相手の話に合わせて表情を作って“愛想のいいやつ”を演じているだけで、心の中では相手に対して砂粒ほどの関心も抱いていない。周りからは親しくしているように見えても、心の表面に薄く硬い壁を作って、決して奥へ足を踏み入らせないようにしている。

 だから、高校一年生から二年生に学年が変わって四ヶ月が経った今でも、クラスで顔と名前が一致するのは凪野夕だけだった。


 僕たちは性別も性格も好みも異なっている。生まれ育った環境も、ここに来るまでに辿ってきたルートだって違う。そのほかにも、僕と凪野で異なる点は数多くある。それを全部挙げるとすればキリがない。

 そんな違うことだらけの僕たちが唯一共通していること。

 

 それが、互いに世界を嫌っているということだった。

 

 世界が僕たちを嫌うのではなく、僕たちが世界を嫌っているのだ。

 ……いや、ひょっとしたら世界の方だって僕たちのことを嫌っているのかもしれない。とにかく僕から言えるのは、ただその一点でのみ、僕と凪野は繋がっているということだけ。

 僕たちが世界に対してこんな感情を抱くのは、高校生という蝶が羽化する前の、蛹の中のドロドロとした液体みたいな不安定で壊れやすい時期によるものだと思っていたけれど、他のクラスメイトの自然な表情を見る限り、どうやらおかしいのは僕と凪野だけらしかった。


 そんな外された側の僕たちはいつの頃からか、互いが同族であることに気がついていた。きっと、同族にしか伝わらないテレパシーみたいなものがあるんだろう。

 彼女があの日——、例年に比べて長く感じた梅雨がようやく開けたと報道された日、僕に「ねぇ、九ノ瀬」と声を掛けてくるまで、凪野とは事務的な内容の話しかしたことがなかったから驚いた。凪野の方から声をかけて来たこともそうだけど、聞き慣れた名前を呼ぶその声が、あまりにも優しく僕の鼓膜を震わせたから。


 そうして僕たちはその日、誰もいなくなった放課後の教室で、初めて互いを理解しあった。


 自分が上手く世界に溶け込めていないこと。

 名前も知らない誰かから、勝手に自分の価値を決められることを辟易していること。

 そして、そんな自分たちを生きにくくしているこの世界を、他の何物よりも酷く嫌っているということを。


  それから僕たちは、時折誰もいない放課後の教室で密会を行った。

話の内容は世界の理についてがほとんどで、彼女との会話は、なんだか授業か議論でもしているみたいに思えた。

 僕たちがこうして秘密裏に会い、『世界の理』なんていうわけのわからないことに対して真剣に話し合っているところを、正常なクラスメイトに目撃されたとしたら、一体何と思われるだろうか。

 きっと危ない宗教に加入しているか、姦計をめぐらす思想犯だとでも思われることだろう。どちらにせよ、異常で壊れていて、世界から外された側の僕たちの考えは、僕たちにしか理解出来ない。


  これは僕たち二人の間でのみ交わされる、特別で、特殊な言語なのだから——。


***


 約一ヶ月間の夏休みが始まってから、五日が経った。

 八月の空は目が眩むほどの青で満たされていて、まだそれほど日が高くない時間だっていうのに、張り切り過ぎる太陽のお陰でアスファルトに映る影は濃く見える。吸い込む空気は仄かに熱く、背中にじわりと滲む汗は、肌と学校指定の夏服を接着剤のようにぴたりと貼り付けてきて鬱陶しい。

 そんな夏の暑さを全身で感じながら僕は一人、既に何百回と通った路を歩いて夏季休業期間中の高校へとやって来た。

  正門を潜り、自転車置き場を過ぎると、向かって左側に見える校庭からミンミンジィージィーと鳴く蝉の声に混ざって、野球部員の威勢のいい掛け声と金属バットに硬球が当たる耳心地のいい音が聞こえてくる。

 それから昇降口へと続く真っ直ぐなアプローチを進んでいくと、校庭に隣接するテニスコートの方からも、パコンパコンと長いラリーを続ける音が僕まで届いた。

 わざわざ活動している様子を目で見て確認しなくても、それらの音を聞くだけで家から学校まで歩いてきただけの僕に比べて、彼らが暑さに強いということはすぐに理解できた。

 そうして夏の陽光から逃げるように昇降口までやってきた僕は、靴を履き替えて無機質な校舎内を進む。ふと制服のポケットからスマホを取り出して時刻を確認すると、淡い光を放つディスプレイには9:50の文字が表示されていた。なんとか約束の時刻には間に合ったみたいだ。僕は三年生教室が立ち並ぶ廊下を通って、二年生教室のある北棟二階へ続く階段を上りながら、ほっと安堵の息を吐く。けれど彼女のことだから、もうとっくに教室について僕を待っているに違いない。僕は待つのは好きだけれど、待たせるのはあまり好きじゃない。僕のような矮小な人間が、誰かの時間を無駄にしていると考えると、心の底から申し訳なく思う。

 そういうわけで足を早めて階段を上りきると、真っ直ぐに続く廊下を一直線に進み、彼女が待っているであろう僕らの教室……二年三組の前で足を止めた。そうして教室前方の閉じられた扉にそっと手を掛けると、そのまま静かに引き戸を開ける。

 その瞬間、教室から夏の蒼い薫りを乗せた穏やかな風がやって来て、僕の肌を優しく撫でた。その風は、僕の体に残った熱を絡め取ると、廊下を通って何処かへ消えていってしまった。おそらく、教室の窓がいくつか開いてあるんだろう。そんなことを考えながら改めて教室内には目を向けると、そこには普通であればクラスメイト四十名分の空席が存在しているはずの席に、一席だけ着席者が存在している席があった。

 ちょうど教室の中央に位置する席。僕がこのクラスで唯一関心を抱いている生徒の席。そして、そこに座っている人物というのも、もちろん彼女——凪野夕で間違いはなかった。僕と同じように学校指定の夏服……もとい、白地に紺色のリボンをつけたセーラー服を身に纏い、花が風に吹かれて揺れるように長い黒髪を靡かせながら、そこに座っていた。

 凪野は僕が教室にやって来たことに気がつくと、それまで手元の文庫本に向けられていた視線を自然な動きで僕の方へと移した。

 「おはよう、九ノ瀬」

 まるでグラスの中の氷が溶けて沈むような、そんな涼やかな声で僕の名を呼ぶ凪野に向かって、僕も同じように挨拶を返す。

 「おはよう、凪野。待たせて悪かったね」

 「ううん。時間には間に合ってるし、気にしなくてもいいよ。それより、早く席に着いたら?」

 「あぁ、そうだね」

  凪野に促された僕はそう言って教室に入り扉を閉めると、彼女の正面の席までやって来て、椅子だけを彼女と向かい合うように置き直してから着席した。

 「それじゃあ、始めよっか。……今日は、何について話そうかな」

凪野は僕が席に着いたのを確認すると、手元の文庫本をパタリと閉じ、少し考えるように天井を見上げて言った。

 僕は目の前でうーんうーんと考えを巡らす凪野に向かって、彼女が開けたと思われる窓の外から聞こえてくる、運動部員の楽しげな笑い声に耳を傾けながら口を開く。

 「この世界を楽しく生きる方法について……っていうのは、どうかな?」

そう提案すると、凪野はその澄んだ瞳で僕を真っ直ぐに見つめ、満足そうに微笑んだ。

 「うん、いいね。じゃあ、今日はそれで」


  夏休みに入る以前は週に一度か二度会って話す程度だったけれど、夏休みに入ってからというもの、僕たちは毎日のようにこの教室に集まってはこうしてテーマを決めて話し合いを行なっている。

 昨日は『運と才能について』。

 一昨日は『社会における人間の優劣について』。

さらにその前は『命の平等性について』といった風に。

 結局、真剣に話し合ったところで納得のいく結論が出たことは一度もなくて、ほとんどの場合、互いの意見に共感を覚えて世界に対する嫌悪感を確認するだけで終わってしまうけれど、僕はそうして凪野と話す時間が好きだった。


 そして今日も僕たちは、自分たちの弱さを曝け出しながら、この世界に対して結論の出ない話し合いを始める。


***


 夏休みが始まってから十日が過ぎた。

 その日はちょうど、大型の台風が僕たちの住む街に直撃し、朝から大雨が降りしきっていた。曇天の空から零れ落ちる雨の一粒一粒が、大きな音を立てながら世界を壊していく。

 ニュースなんかでは、暴威だの脅威だのと散々の言われようだったけれど、少なくとも僕にとってこの台風は一種の救いだった。

 ……そのまま世界を飲み込んで、人類もろともめちゃくちゃにしてくれたらどんなにありがたいことか。

 そんなことを考えながら、僕は真っ白なレインコートに身を包み、玄関の扉を開けて荒れ狂う外の世界へと飛び出した。


 そうして、激しく吹き荒れる大雨と強風に曝されながらもなんとか無事に正門まで到着することができた僕は、蒼い葉をつけた木々やところどころ赤錆の目立つ自転車小屋がギシギシと軋むのを横目に、アプローチを通って昇降口へと避難した。

 こんな大雨の日に学校を訪れる生徒なんて、僕の知る限り一人しかいない。それにも拘らず、今日もこうして生徒用昇降口が開いていたことに少しの疑問を覚えながら、僕は濡れたレインコートを脱いで靴を履き替える。

 きっと、日直の先生がいつもの習慣で開けてしまったんだろう。

 そんなことを考えながら、いつも通り階段を上って二年三組教室までやってくると、閉め切られた扉の向こうから激しい雨音に混じって誰かの声が聞こえてきた。   

 扉に耳を近づけてみると、その声の主はどうやら歌を歌っているようだった。僕は扉から耳を離し、そっとその扉を開く。

 するとそこには、僕の思った通り、凪野夕の姿があった。

 実を言うと、今日もここに彼女がいるという確証はなかった。一応、互いに連絡先を交換してはいるけれど、そもそも「今日も集まる?」なんて確認を行う選択肢が僕にはなかった。彼女ならきっと今日もあの場所にいるんだろうな、なんていう希望的観測を抱いてここまで来てしまったけれど、どうやら凪野の方も僕と同じことを考えていたらしい。

 それにしても、今日の凪野はいつもと少し様子がおかしい。普段の彼女なら僕が来るまでの間、自分の席に座って静かに読書に励んでいるはずだ。

 それなのに今日は両耳から白いコードのようなものをぶら下げ、ひっきりなしに雨粒が当たる窓際に立って、乾いた砂がどす黒い泥に変わっていく校庭の様子を眺めている。

 そして、何よりおかしいのがこの歌だ。先ほど教室の外で聞こえたあの歌声は、凪野の口から零れていたものだった。

 凪野は僕がやってきたことにはまだ気づいていないようで、両耳につけたイヤホンから流れている曲に合わせて歌詞を口ずさんでいる。それは最近、テレビのコマーシャルでよく流れている流行りの曲だった。流行に疎い僕でも、サビだけなら歌えるくらいには有名な曲。それを凪野は、本物のアーティスト以上に真剣に、丁寧に、巧みに歌っていた。歌の上手い下手が何によって決まるのかはわからないけれど、僕には彼女の歌声が空と地面を繋ぐ雨のような美しいものに思えた。

 どうして彼女がそんな歌を歌っているのか。

 そんな疑問はあったけれど、とにかく今はこの歌を、彼女の歌声を聴いていたい。そんな形容しがたい感情で頭と心がいっぱいだった。

 けれどそんな想いが通じてしまったのか、凪野は突然口を閉ざして歌うのをやめると、スカートのポケットから取り出したスマホを操作した後でイヤホンを外し、こちらを振り返った。

 「来てたんだ」

 「ついさっきね」

 「……歌、聴いてた?」

 「うん。凄く良かった」

 「……そっか」

 凪野はそう言って微かに安堵の表情を浮かべると、イヤホンをポケットの奥へと突っ込んで、いつもの席に腰を下ろした。僕もそんな凪野と同じようにいつもの席に腰を下ろすと、彼女と向かい合うように椅子を回転させた。教室には、大きな雨粒が不規則に窓ガラスを叩く音だけが響く。

 「——あのね、九ノ瀬」

 すると、そんな雨音に合わせるように凪野が口を開いた。

 「なに?」

 僕がそう尋ねると、凪野は少しだけ躊躇うそぶりを見せながら、僕の目をじっと見つめて言った。

 「昨日の夜、佐々木さんから『カラオケに行かないか』って誘いの電話がかかって来たんだ」

 「そうなんだ」

 僕は凪野に適当な相槌を返しながら、『佐々木さん』の顔を必死で思い浮かべる。

 確か髪が長くて、メガネをかけていて……いや、それは小野寺さんだったかな。ひょっとすると、前田さんだったかもしれない。

 どちらにせよ、昨夜、凪野をカラオケに誘ったという佐々木さんの顔は、未だ記憶に定着していないみたいだ。

 「最初は断ろうと思ったんだけど、結局その誘いに乗ることにしたの。それで『是非、参加させてください』って言ったら、佐々木さんすごい驚いてた。誘ってきたのは向こうなのにね」

 そりゃ、誰だって驚くよ。

 そう言いたいのをぐっと堪えて、僕は笑みを浮かべる凪野に言葉を返す。

 「なるほど。それで、歌の練習をしてたってわけか。まぁ、とにかく誘ってもらえてよかったじゃないか。……でも、どうして突然そんな決断を下そうと思ったの?」

 すると凪野は、一瞬困ったような表情を浮かべて窓の方に目を向けると、先ほどの歌声とは打って変わって、暗い海の底に沈んだような小さな声でそれに答えた。

「……わからない」

 「わからない?」

 「うん」

凪野はそう言ってこくりと頷いた後で、「だけど」と言葉を続ける。

 「多分、いい加減変わらなきゃいけないと思ったんだと思う」

 「変わらなきゃいけない……って、一体何から何に?」

 僕は彼女の言いたいことを十分に理解した上で、敢えて知らんふりをして問いかける。

 窓を叩く雨音は先ほどよりもやけに煩く響いて、今すぐにでも耳を塞いで逃げ込みたい。……どこか、この耳障りな音が完全に聞こえなくなる場所へ——。

 それから凪野は顔をまっすぐ上げると、そんなことを考えている僕に向かって静かに、けれど力のある声で答えた。

 

 「世界に上手く溶け込めない今の自分から、世界に上手く溶け込める自分に」

 

 僕は、どこまでも綺麗に澄んだ瞳でそんなことを口にする彼女に対して、初めて怒りという名の感情を抱いた。

 「世界に上手く溶け込める自分になりたい」だって……?

 そんなの、無理に決まってる。

 そもそも、それができないから、僕たちはこうして毎日のように会っては『世界の理』なんてかこつけて、世界の悪口を言い合ってるんじゃないか。

 それに、凪野が世界に溶け込めるようになるということは、彼女の心にあるどんな白よりも真っ白な正義を、薄汚い黒で染め上げるということだ。

 僕はそれを認めない。受け入れることなんてできない。……どうか、もう一度考え直して欲しい。

 そんな僕の考えが今回に限って彼女に届くことはなく、凪野はその考えを抱くようになった経緯を淡々と語り始めた。

 「私は、この世界が嫌い。頑張った人が正当に評価されず、善人が悪人よりも早く死ぬ。それを『当たり前だ』『仕方がない』と勝手に決めつけて諦めてしまっているこの世界が、社会が大嫌い。……だけど、こうして九ノ瀬と話を重ねていくうちに気づいちゃったんだ。……私たちが大人になるためには、どんなに嫌でもそれを受け入れなきゃいけないってことに」

——だから、まずは佐々木さんたちと仲良くなることから始めてみようと思う。

 そう言って凪野は、まるで正常な人間みたいに明るく笑って見せた。

 

 僕はそんな凪野の気持ちの悪い笑顔をじっと見つめながら、心の中で呟く。


 ……凪野。君には、今のまま変わらないでいて欲しかった。

 土や埃を被り、透明にも近いその美しい白を黒く穢さなければ受け入れてもらえない世界のことなんて、気にしないでもらいたかった。

 ずっとずっと、穢れのない純粋な白であって欲しかった。


 ……だけど、君はすでに黒く染まりつつある。

 間違いを間違いであると、強く言い切れる君はもういない。

 

 僕は、次第に弱まっていく雨音に耳を傾けて軽く息を吐き出すと、彼女よりも上手で、けれど違和感の残る笑顔を顔に貼り付けながら口を開いた。

 「いいと思うよ」

 本当は、全然よくなんてなかった。

 今すぐにでも、「それはダメだ」と彼女に向かって叫びたい。無理矢理にでも、僕の理想を押し付けてやりたい。

 「大人になんて、ならなくてもいいじゃないか」と、駄々をこねて真っ白な彼女を取り戻したい。

 それなのに、こんな場面でも本音を隠して“愛想のいいやつ„を演じてしまうあたり、やっぱり僕は世界に溶け込めない側の人間なんだと苦笑してしまいそうになる。

 そして、そんな僕から偽物の言葉と笑顔を受け取った凪野は、ほっと安心したように顔をほころばせ、心からの混じりっ気のない言葉を口にした。

 

 「ありがとう」と——。



 その日は、それ以上特に何かを話し合うこともせず、僕たちは教室を後にした。

 強いて何かあったと言えば、その日の夜、凪野から一通のメールが届いたということくらい。件名には何も書かれておらず、本文にはこんなことが書かれてあった。


『夏休みが終わるまで、もうあの教室には行かない』


 それは凪野から初めて送られてきたメールだったけれど、僕はただ『わかった』とだけ書いて返信し終えると、すぐにそのメールを削除してスマホの電源を切った。

 

 その頃にはもうとっくに台風は過ぎ去っていて、不気味なくらいに静かな夜が世界を黒く、黒く、染め上げていた。


***


八月三十一日。夜。

 約一ヶ月間という、長いようで短く感じられた夏休みも今日で終わり。

 明日からはまた、あの教室で正常なクラスメイトたちと顔を合わせる日々が続く。夏休み前と変わらぬ偽物の笑顔を貼り付けながら、たいして興味もない話に耳を傾け、愛想のいい反応を返すだけの灰色の日々が——。

 だけど、別にこの夏休みが普段の学校生活と比べて、特別いい期間だったというわけでもない。思い返してみれば、この夏休みは得たものよりも失ったものの方がはるかに多かった。

 

 時間、体重、……そして、凪野夕。

 

 彼女から初めてメールが届いたあの日以降、僕は何をしている時でも頭の片隅で彼女のことを考えるようになった。

 絶え間なく聴こえる蝉の声に耳を傾けている時も、青い空に浮かぶ真っ白な入道雲を眺めている時も、 透明な炭酸水の泡が喉で弾けている時も、なかなか答えの出ない数学の証明問題を解いている時も。

 ずっと、彼女の自然な笑顔と声が頭から離れなかった。

 それから僕はあのメールが届いてからというもの、あまり家から出ることをしなくなった。彼女と会って、世界の理についての話をするという目的が失われたことで、外に出る理由がなくなったのだ。

 そうして僕は、物理的にも精神的にも頑丈な殻に閉じこもり、世界との関わりをなるべく断つような生活を送るようになった。

 僕にとってこの夏休みは、彼女とより深い交流をするためだけに設けられた期間だったけれど、その交流も一人の正常なクラスメイトさんのおかげで途切れてしまった。

 ……いつだってそうなんだ。

 世界にうまく溶け込めている側の人間たちは、それが僕にとって迷惑な行為だなんて考えもしないで、ずかずかと土足で間に入ってくる。

 そのせいで、どんな宝物よりも貴重で価値のあるものが、穢されるとも知らずに。

 

 そういうわけで、あの日から今日までの日々は、僕にとって何の意味もない空白の日々だった。

 

 けれど、それでもやっぱり、彼女のことだけは頭と心の深い部分に残って離れなかった。

 

 今、凪野は何をしているんだろう。何を思っているんだろう。

 クラスメイトと行くカラオケは楽しかっただろうか。それとも、つまらなかっただろうか。

 

 ——世界には、うまく溶け込めるようになったのだろうか。


 僕は怖い。

 明日、学校へ行くと、世界の全てが僕の敵になってしまっているんじゃないだろうか。僕が世界に上手く溶け込めていないことを、みんなに知られてしまっているんじゃないだろうか。

 どこまでもまっすぐで、何物よりも真っ白な正義の心を持っていた彼女が、僕のことを忘れてしまっているんじゃないだろうか。

 そんな“もしも„のことを考えると、恐怖と不安で心が擦り切れそうになる。

 ……いっそ、このままずっと夜が続いて、永遠に明日が来なければいいのに。

 そう願ってはみるものの、世界は深く静かな夜の幕を引き上げて、にこやかな笑顔共に清々しい朝を連れてやってきた。


 そして迎えた九月一日。始業式当日。

 暦が替わったからといって突然気温が変化するわけでもなく、家から一歩外に出ると、そこには姿の見えない八月の幽霊が熱を保ったまま、ゆらゆらと辺りを漂っているのを感じた。空は依然として青く、朝の日差しが目に染みる。

 僕はそんな、憎いほど眩い世界の中を憂鬱な気分をぶら下げながら、あの台風の日以来、初めて訪れる学校へ歩いて向かった。

 そんな夏休み中も度々通ったこの通学路を歩きながら、僕はふと考える。

 きっと、クラスメイトの大半は教室に着くなり、この一ヶ月間の思い出話に花を咲かせることだろう。

 

 家族と旅行に行った。

 部活の大会があった。

 友人とバーベキューをした。

 海に行った。

 恋人ができた。

 来年に向けて、受験勉強に勤しんだ。


 そういった、他人に話すことができる思い出を持ち合わせている人間は、例外なく、この一ヶ月で何かしらの変化を手に入れたはずだ。

 それはいい変化かもしれないし、悪い変化かもしれない。どちらにしろ、何の変化も得られないよりはマシだと僕は思う。

 変化を好む嫌うは別として『受け入れられる』というのは、それだけで素晴らしいことなのだから。

 

 そうして僕は通学路を通って、約一ヶ月ぶりに再会した生徒たちの朝の挨拶を聞きながら正門をくぐり抜けると、アプローチを通って喧騒で埋め尽くされる昇降口へとやってきた。

 真っ黒に焼けた肌を友人と見せ合う体格のいい男子生徒に、目の下に大きな隈を作った色白で小柄な男子生徒。そして、甲高い声を上げながら抱擁を交わす女子生徒たち。

 そんな正常な生徒たちを横目で眺めながら、混雑する下駄箱前で靴を履き替えていると、耳障りな喧騒に紛れて、よく澄んだ聞き覚えのある声が僕の耳に届いた。ふと、その声のした方向に目を向けると、ちょうどアプローチから昇降口へと入ってくる女子生徒の姿が目に入った。

 その瞬間、あんなにも煩く感じていた喧騒は僕の耳から消え、視界にはその女子生徒の姿だけが映った。

 見間違えるはずもない。凪野夕だ。

 

 夜色で染めた長い髪は肩のあたりで短く切り揃えられ、冬の朝みたいに白く澄んでいた肌は、薄らと日に焼けていた。

 しばらく見ない間に、外見が大きく変わっていたことは確かに驚いたけれど、正直そんなことはどうでもよかった。

 僕にとっては外見の変化よりも、内面の変化の方が重要だった。

 だからそれを確かめるためにも、僕はそっと彼女へと近づくと、声をかけようと口を開いた。


 ……だけど、中途半端に開いた僕の口から、彼女にかける言葉が出てくることはなかった。


 なぜなら、数歩遅れて昇降口に入ってきた二人の女子生徒が、凪野に対して、まるで普通の友達同士みたいに接し始めたから。

 そして、それに応える凪野の表情が、僕が今まで見てきた彼女のどんな表情よりも、生き生きとして輝いて見えたから。

 

 僕は中途半端に開いた口を閉じると、そのまま教室へ向かって歩き出した。

 

 ……あぁ、そうか。

 ——凪野、君は変われたんだね。なりたかった自分に。


 僕は再び喧騒を取り戻した廊下を歩きながら、そんなことを心の中でつぶやいた。

 不思議と、悲しみには襲われないかった。

 あの凪野が、まるで世界を愛している人たちが見せるような屈託のない自然な笑顔を、鏡の中の自分にでも、ましてや僕に対してでもなく、あの二人の女子生徒に向けていたことは信じられなかったし信じたくなかったけど、悲しくはならなかった。それよりも、納得の方が大きかった。

 きっと、彼女に話しかけていた二人のどちらかが『佐々木さん』なんだろう。


 彼女は——凪野夕は、望み通り世界の一員となったのだ。そして、認められたのだ。この世界に。

 かけがえのない、どこまでも透き通った白を犠牲にして。


 正直、今でも僕は彼女の決断を愚かな行為だったと思っている。

 彼女が手放してしまったものは、もう決して手に入らないものだ。どんなに願っても、どんなに努力しても、彼女の元へ戻ってくることは二度とない。

 だけどそれは、僕以外の全てから見れば賢くて、なおかつ正しい選択なんだろう。僕たちは本来、そうやって大人になっていくんだから。

 

 凪野は世界に上手く溶け込むことができた。そういう選択をした。

 あれだけ間違いを、妥協を許そうとしなかった彼女が変わったのだ。

 

 ……だからいい加減、僕も彼女を見習わないといけないのかもしれない。

 

 世界がそういうものであることを認め、受け入れ、理解する。自分の理想を世界に押し付けるのではなく、自分から変わっていかなくてはならない。

 そんな当たり前のこと、凪野と話をするようになる前から気がついていたはずなのに。

 

 

 僕は、世界が嫌いだ。

 常に周りの誰かと比べられ、勝手に人に価値をつけようとするこの世界が嫌いだ。自由を知りながらも不自由を知り、間違いを認めながらも理不尽を認める。そんなこの世界は酷く歪んでいると思う。受け入れられないと思う。

 それでも、いつかは変わらなければならない。

 蛹から蝶が羽化するように、僕たちもいつかは大人にならなくてはならない。

 世界の汚さを理解した上で、それでも世界は素晴らしいと言えるような立派な大人に。

 

 僕は前へ進む。

 彼女がかけがえのない純粋な白を捨てたように、僕もかけがえのない『何か』を捨てて、前へと進む。


そうやって、世界から外された側の僕たちは、少しずつ世界に溶け込めるようになっていく。

正常の仲間入りを果たしていく。

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