おまけ
男は慌てて急ブレーキを踏んだ。
男は見た。
タヌキが自分を振り返るのを。
タヌキの右目は傷でふさがれていた。
(ああ、あのタヌキは……)
そのタヌキ、彼が五人地蔵にパンをお供えするときに、いつもやってくるタヌキだった。
最初は片目のタヌキが一匹でやってきていたのだが、それからしばらくして一匹2匹と仲間を連れてやってきて、何時の間にか5匹が連れ立ってやってくるようになったのだ。
そう。
最初は地蔵にパンを備えていたのであるが、それがいつしかそのタヌキたちにパンをやるのが目的になっていたのだった。
(これから寒い冬が来る)
車はスリップをし続けていた。
どんどん崖が近づいてくる。
(誰かあのタヌキたちにパンをやってくれるだろうか)
彼は思う。
こんなにも時間とはゆっくり流れるものなのだろうか。
目前に崖が見える。
あそこから落ちたら、たぶん命はない。
自分は死ぬのだ。
自分が死んだら、彼女は立ち直れるだろうか。
今朝可愛がっていたハムスターが死んでしまい、意気消沈していた。
戻ったら泣いている君を抱き締めてやろうと思っていた。
俺は死なないよ。
俺は死なないから。
だけど───
その時、彼の乗った軽トラが崖を飛んだ。
雪の山にバイエル74番が響き渡る。
雪は降り続けている。
しばらくして。
「ん………」
男は意識を取り戻した。
「どうして……」
彼は即死とはならなかった。
かろうじて生きていた。
だが、軽トラは崖下に積もった雪にはまったまま、どうにもこうになもならない状態だった。
「携帯……つ……」
彼は携帯を取り出そうと、痛む腕で懐を探した。
だが、取り出した携帯は壊れてしまっていた。
「ぐぅぅぅぅ……」
彼は何とか身体を動かして外に出ようとするが、あちこち骨が折れてしまっているらしく、少しでも動こうとすると激痛が走った。
「駄目だ……な……」
彼は動くのを止めてじっとする。
壊れたフロントガラスから雪が吹き込んでくる。
彼はだんだん身体が冷えていくのを感じた。
ここで助け出されなければ自分は助からないなと悟る。
「くそ……これなら……即死したほうがマシだったかもな」
寒さと痛みで意識が朦朧としてきた。
死ぬもんか。
絶対に死ぬもんか。
彼女が俺を待ってるんだ。
ケーキとシャンパンと、クリスマスプレゼントを用意して。
俺を待っている。
だけど───
ごめん。
俺は帰れそうにない。
お前を悲しませてしまうな。
車は壊れてしまっていたが、音楽は鳴り続けていた。
いまだバイエル74番は流れ続けている。
誰かこの曲に気付いてくれと彼は祈る。
すると───
「あ……?」
薄れ行く意識の中、彼はぼやける視界に何かが空から降りてくるのを見た。
すでに真っ暗になって本来なら何も見えないのに、彼の死にかけた目にはぼやけてはいたが、信じられないものが見えていた。
仄かに光る物体が5つ。
雪の降る夜空から下りてくる。
「天…使…?」
彼がそう思ったのも無理はない。
おりしもイヴの夜。
そんな不思議なことが起きてもおかしくないのかもしれないと、彼はそう思った。
「そう…か……俺は天国に行けるのだ……な……」
彼は目を閉じた。
だが、彼は知らない。
降りて来たのは天使ではなく───タヌキだったのだ!
まるで天使のように羽を生やした五匹のタヌキがゆっくり下りてきたのだ。
そして、タヌキは毛の生えた前足で壊れたフロントガラスから彼を引きずり出した。
大の大人の男である。
タヌキごときに持ち上げられるはずもないのだが、男は楽々と五匹に抱えられてフワリと宙に浮かんだ。
「………タヌ…キ…?」
彼はうっすらと目を開けた。
タヌキが微笑んでいた。
男も思わず微笑み返した。
「そう…か……お前たちが、俺を天国に連れてってくれるのか……そうか……ごめんな、もうお前たちにパンをやれないよ。誰か後任の奴がお前たちにパンくれればいいんだがな……あれ…なんかすごく眠たいな……」
男は急激に眠くなってくるのを感じた。
「ああ……なんだか気持ちいいな……すごく眠たいよ……なあ、タヌキ……もしお前たちが本当の天使なら……俺の奥さんがあまり嘆き悲しまないようにはからってくれないかな……あいつ、すげー泣き虫だからさ……俺心配なんだ……」
彼が完全に寝入ってしまう直前、片目のタヌキが頷いた。
だが、それは彼には見えなかったようである。
そして、男とタヌキたちは仄かに輝きながら空へと上っていった。
後にはシンシンと降り積もる雪と、崖下の壊れた車から流れるバイエル74番の音楽。
何時までもその曲は山にこだましていた。
それから毎年雪が降る頃になると、男の車が落ちた崖下からバイエル74番のピアノ練習曲が流れるようなった。
その曲を運良く聴いた者は、何か一つ願い事が叶うという。
願い事が叶うという───
パン売りたちのクリスマス 谷兼天慈 @nonavias
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