第2話 黄昏のメロディー

 校内に自分の音を響かせるのは、何とも言えない気持ちよさがある。


 西日がまぶしい空き教室で、私はトランペットを思う存分吹いている。マウスピースにビリビリと伝わっていく振動が心地いい。


 それにしてもお腹が空いた。今日は移動教室が多かったし、体育もあったし、いつも以上に空きが早い。飲み物だけじゃやっていけない。おやつ持ってくればよかった……


 思い切り雑念にまみれて吹いていたそのとき、教室に弁当箱を置き忘れていることに気づいた。気づいた拍子に、音を外した。


 5月とはいえ、けっこう暖かい日が続いている。1日空っぽの弁当箱を放っておいたらどうなるか。

 私は急いで教室に向かった。


 春の夕風が廊下を通り抜ける。どこか窓を開け放っている教室があるのだろう。


 私の所属する2年5組からも、さわやかな風が流れていた。


 中に足を踏み入れて、初めて人がいるのに気づく。


 カーテンがそよぐ窓際の席で、何かに心奪われたように外を眺めている。西日が彼と教室をやさしく包みこみ、そこだけ時が止まっているように見えた。


「窓際のいちばん後ろの席っていいなあ」


 彼は私の存在にまったく気づいていない様子で、気持ちよさそうにつぶやいた。


 そこでようやく、彼が同じクラスの田中陽史であることに気がついた。なんだか悔しいので、ちょっとおどかしてみる。


「実際座ってみると、黒板の字が見えづらくて大変だけどね」


 田中陽史は一瞬びくっとして、ゆっくりこちらを振り返り、はじかれたように立ち上がった。その勢いで椅子が派手な音を立てて倒れた。


「ききき木原さん、どうしてここに!?」


 あまりの慌てぶりにこっちがびっくりする。さっきまであんなに物憂げだったのに。


「ここは私の席だもの。忘れた弁当箱を取りに来たの。悪かったね驚かせちゃって」


 平静を装って椅子を起こし、机のわきに下がったままの弁当袋を手に取る。なじみのない状況に心臓が高鳴っていた。


「……いつからいたの?」


「ついさっき。物思いにふけっているようだったから、なんか話しかけづらくて」


 叱られた犬みたいにしょんぼりして、田中陽史は「ごめん」とつぶやいた。ちょっとかわいそうになったので「別にいいよ、好きにして」と言うと、今度は神様でも見るようにパッと目を輝かせる。そんなに好きか、窓辺の席。


「いいの?」


「机も椅子も学校のものだし」


「ああ、確かにごにょごにょ……」


 彼の言葉尻はごまつぶのように小さくなり、すとんと静かに座りなおした。


 よくわかんないけど、落ち込んでるみたい。


 気まずいので話題を変える。


「田中くんって、何か部活やってたっけ?」


「いや、帰宅部だよ。最初の3か月だけギター部だったけど、全然弾けるようにならなくてあきらめたんだ。軽い気持ちでやってもだめだね」


「へえ、知らなかった。ほかの部に入る気はもうないんだ?」


 たとえば吹奏楽部とか。


「うん、今さらって気がするし。こうして自由な時間を満喫できるのも悪くないよ。まあ、青春っぽさはないけど」


「ふうん」


 勧誘は無理か。今年は新入部員少なかったんだけどなあ。


 けど、彼にはこうして何にも縛られず、悠々ふわふわ過ごしているのがあっている気がした。あまり目立つタイプではないけれど、いるだけでその場の空気が軽くなるような存在。と、はたから見る目には映るけれど、そういう緩衝材的な役回りの人間にはそれなりの気苦労もあるのだろう。きっとこれは彼にとって必要な時間なのだ。


 そんなこの場に、名前をつけたい。


 ……放課後たそがれクラブ、なんてどうだろう?


「えっ?」


 考え事のつもりが、口に出ていたらしい。田中陽史が不思議そうにこちらを見ている。


「いや、田中くんは放課後も教室に残ってるから、帰宅部っていうのとも違うかなって」


「それで、放課後たそがれクラブ?」


「うん。不定期にひっそり活動する、秘密クラブ。なんか面白そうじゃない?」


「そっか……いいね、気に入ったよ。今のところ部員は1人だけど」


 またそうやって、自虐的なこと言う。


「じゃあ私も入る」


「入るの!?」


 田中陽史は真珠のような瞳を丸くした。


「でも木原さん、吹奏楽部だよね?」


「そうだけど、別にいいじゃない。サボりたくなったら抜け出して、ここに来るの」


 あまり頻繁にやると、先輩に怒られそうだけど。


「それにちょっとわかるんだよね。普段はすごくにぎやかな教室が、人がいなくてしーんとしてる特別感というか哀愁というか。ちょっとテンション上がる」


「ひょっとして、小学生のとき夜の学校に忍びこんだことある?」


「いやそれはない」


 やっぱりただのアホなのかな……詳しく聞いてみたい気もするが、いい加減にして帰らないと部員たちに指名手配される頃合いだ。


「それじゃ、そろそろ戻るから」


「部活がんばってね」


「うん、そっちも」


 遠慮がちに手を挙げるので、私もじゃあねと振り返す。


 がんばれって、いったい何をだ? 放課後のんびりしてる人に……


 ちょっと恥ずかしくなって、私は急ぎ足で練習場所に向かう。




 駆け足で持ち場へ行くと、同じパートの夕実が仁王立ちで待ち構えていた。


「やっと来たなサボり野郎」


「先輩、もう見回りに来た?」


「まだセーフだよ。ちょっとここの小節だけ、いっしょに練習したくて」


 弁当袋をトランペットに持ちかえ、息を整える。


 夕実が指した個所は、高音で連符が続く鬼のようなメロディーの部分だった。


「あー、ここね。私もさっきこればっかりやってた」


 指の動きを見たいというので、先に一人で吹いてみせる。


 高らかに、弾むように、でも一音一音ばらけないように、私は奏でた。

 楽器は私の一部になり、教室じゅうに私の音がこだました。

 全身で歌っているような感覚だった。


 自分で言うのもなんだが、今まででいちばん上手く吹けたと思う。


「さやか、なんかいいことあった?」


 まじまじと見つめられる。


「別に。たまにはサボったほうが調子が出ることもあるってことじゃない?」


「本当にそれだけ?」


 話せば面倒なことになるだけなので、これ以上説明はしない。


 私はもう一度同じフレーズを繰り返す。


 たそがれ中の田中くんにも聞こえているだろうか?


 ちょっとだけ学校での楽しみが増えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後たそがれクラブ 文月みつか @natsu73

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ