放課後たそがれクラブ

文月みつか

第1話 黄昏の奇跡

 誰もいない教室。夕風にそよぐカーテン。グラウンドから聞こえてくる運動部員の声。どこからともなく響いてくるトランペットの個人練習の音。あ、いま音外れた。


 僕は放課後の教室が好きだ。誰もいない空間なのに、完全にひとりではない世界。なぜだかすごく安心する。本を読むのもよし、宿題を片付けるのにもよし、頬杖ついてボーっとするのにもうってつけの場所だ。気分次第で黒板をきれいに拭いてみたり、掲示物に落書きしてみたり、気になる人の席にこっそり座ってみたりする。


「窓際のいちばん後ろの席っていいなあ」


 誰もいないと、ついひとり言が出る。


「実際座ってみると、黒板の字が見えづらくて大変だけどね」


 こだまでしょうか、

 いいえ、誰でも。


 不測の事態に思考が停止した。僕の心臓は跳ね上がり、ばね仕掛けの人形みたいに席を立った。反動で、大きな音を立てて椅子が倒れた。


「き、き、木原さん! どうしてここに!?」


「ここは私の席だもの。忘れた弁当箱を取りに来たの。悪かったね驚かせちゃって」


 木原さんは落ち着き払って僕が倒した椅子を起こし、机のわきに下がっていた弁当袋を取った。


「……いつからいたの?」


 怖いけど聞かずにはいられない。


「ついさっき。物思いにふけっているようだったから、なんか話しかけづらくて」


 ああもう、消えたい。このまま煙になりたい。


 勝手に自分の席を使われて、木原さんはさぞかし不愉快だったろう。


「ごめん」と謝って自分の机に戻ろうとすると、「別にいいよ、好きにして」という、意外な返事が返ってきた。


「いいの?」


「机も椅子も学校のものだし」


「ああ、確かにそうだね……」


 僕は少しがっかりして腰を下ろした。


「田中くんって、何か部活やってたっけ?」


 名前を呼ばれたことに小さく感動する。たとえ苗字だけでも。


「いや、帰宅部だよ。最初の3か月だけギター部だったけど、全然弾けるようにならなくてあきらめたんだ。軽い気持ちでやってもだめだね」


「へえ、知らなかった。ほかの部に入る気はもうないんだ?」


「うん、今さらって気がするし。こうして自由な時間を満喫できるのも悪くないよ。まあ、青春っぽさはないけど」


「ふうん」


 木原さんはとなりの机に浅く腰掛け、宙を見つめた。やる気のない僕にあきれていたのかもしれない。


 それにしても、どこかとっつきづらい印象のある木原さんが僕の会話に付き合ってくれているのは信じがたい奇跡だった。さっきは恥ずかしくて消えたいと思ったけど、何の変哲もない高校生活に初めて差した光かもしれない。神様、ありがとう。


「……放課後たそがれクラブ」


「えっ?」


 心のうちでひとり勝手に盛り上がっていたところに、木原さんがぽつんとつぶやいた。


「いや、田中くんは放課後も教室に残ってるから、帰宅部っていうのとも違うかなって」


「それで、放課後たそがれクラブ?」


「うん。不定期にひっそり活動する、秘密クラブ。なんか面白そうじゃない?」


「そっか……いいね、気に入ったよ。今のところ部員は1人だけど」


「じゃあ私も入る」


「入るの!?」


 奇跡だ……信じがたい奇跡パート2。僕は今日という日を「黄昏の軌跡」と名付け、一生忘れないことを誓った。


「でも木原さん、吹奏楽部だよね?」


「そうだけど、別にいいじゃない。サボりたくなったら抜け出して、ここに来るの」


 何かいやなことでもあったんだろうか……先輩にいじめられたとか。それなら、こんなところに長居しているのもうなずける。


「それにちょっとわかるんだよね。普段はすごくにぎやかな教室が、人がいなくてしーんとしてる特別感というか哀愁というか。ちょっとテンション上がる」


 おお、こんなところに同志が!


「ひょっとして、小学生のとき夜の学校に忍びこんだことある?」


「いやそれはない」


 木原さんはくくくっと笑った。いらぬ過去をばらしてしまったようだ。


「それじゃ、そろそろ戻るから」


 木原さんはひょいと机から飛び降りた。長い髪がぱらんと揺れた。


「部活がんばってね」


「うん、そっちも」


 じゃ、と片手を挙げると木原さんも振り返してくれた。それから、軽やかに廊下を走り去っていく。


「夢じゃないよな?」とつぶやいてみる。


 僕は初めて青春をした。



 気分がいいので、適当にモップ掛けをした。がんばれって言われたし。


 しばらく止んでいたトランペットの音が、また聞こえるようになった。あれは木原さんの音なんだろうか。これからはより注意深く耳を傾けてしまいそうだ。


「おう、田中か。鼻歌うたいながら掃除して、なんかいいことでもあったか?」


 教材を抱えた担任が、物珍しそうに戸口のところで立って見ていた。


「まあ、そんなところです」


 今なら空も飛べそうな気がした。

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