呪い、或いは進化する人類の物語

桜人

第1話


   ⅨAB


 ――その瞬間。

 ヤン=ゲイロードは希望に瞳を輝かせた。

 アルメリウス=E=ツヴィッシェンは、かつてない絶望に目の前が真っ暗になった。

 そして――


   ⅣA


 男はある日、己が視界を自らの手で奪いとった。否、正確には奪いとろうとした。彼はその行為に半分成功し、半分失敗した。具体的には利き手である右手で右目をえぐり取り、さて左目はどちらの手で取るべきだろうかなどといった、そんなほんの少しの逡巡の間に、事態に気づいた周囲の人間にその行為を止められてしまったのだ。

 彼は悲しんだ。頬を伝う涙は左目と右目の両方から流れていた。右目を取り払ったところで、彼にとってその行為は何の意味ももたなかった。何故なら眼球は二つあるからである。この行為によって彼が失ったものといえば精々、多少の遠近感と他人からの信用くらいのものだった。半分の成功と半分の失敗は、彼にとっては完全なる失敗でしかなかった。

「――」

 男は声にならない叫びを病室のベッドの上であげた。

 彼はヤン=ゲイロードといった。


   ⅣB


 男はある日己が視界の半分を他人の眼球に委ねた。それは男にとってある種の賭けだった。成功すれば男の仮定は確信へと、過程は革新へと変わるものだったが、もし失敗してしまえば、それは男のもつ全てを消失してしまうことと同義であった。

果たして男は見事に、その賭けに打ち勝ったのである。喜びの涙は利き目である右目と、つい先ほどまで他人のものであった眼球が納まる左目の両方から流れ出た。

ああ神よ、私は選ばれたのですね。

「――」

 男は歓喜の雄叫びを病室のベッドの上であげた。

 彼はアルメリウス=E=ツヴィッシェンといった。


   ⅠA


 ヤン=ゲイロードは二〇四五年に生を受け、そして幼少の頃より異常だった。異常といったところで、何も精神疾患を抱えていたとか四肢に欠損があるとか、別にそのようなあからさまなものではない。太陽の光を過度に嫌い、クレヨン選びに時間がかかり、好きな遊びはTVのリモコンを人に向けること――元来幼児には大人にはない異常性が見られるもので、彼の両親も、彼のそのような傾向については特段気にかけていなかった。いずれは治まる幼い癖のようなものだろうと、彼の両親は温かな愛でもって彼を模範的に育て続けた。

 異常が表に出るのは、ヤンが自らを客観視し、抽象的な概念をある程度言語化できるまでに成長してからだった。

――僕にはヒトと違うものが見えている。

 それが彼の導き出した結論だった。この世に生を受けて十年、彼はようやく自身の異常性に気づくことが出来た。

 何のことはない、人類は――ホモ・サピエンスは、目が悪かったのだ。

 そして、ヒトには認識できないものが、ヤンには視認できた。


   ⅠB


 アルメリウス=E=ツヴィッシェンは二〇四五年に生を受け、そして幼少の頃より優秀だった。勉学に卓越し、たくましい肉体はあらゆるスポーツにおいてその真価を存分に発揮した。

 彼の本質は異様なほど高いプライドであった。尊大な誇りこそが彼を優秀たらしめていた。それは悪く言えば彼を縛る鎖のようなものであったが、反対に彼を支える軸となるものでもあった。

 アルメリウスのもつプライド、その源泉は自身の眼球能力に帰属していた。彼はヒトには見えないものが見えた。何もオカルティックな話ではない。科学的に、ヒトには見えないものが彼には見えた。

 人間は電磁波を光として視認することができるが、その範囲は限られている。四〇〇nm~八〇〇nmの波長を外れた電磁波については、それぞれ赤外線や紫外線、電波、エックス線等と呼称され、それらは不可視光線と総称される。

 アルメリウスは物心ついた時より自身がヒトとは違うことを、つまりは彼以外の人間が紫外線や赤外線等を感知できないことを何となくではあるものの理解していた。

 それが彼の人格形成に多大な影響を及ぼしたことは言うまでもない。


   ⅡA


 ヤンは自身の特異性を両親に打ち明けなかった。彼はこの告白が両親を悲しませるだろうことを幼心に理解していた。愛をもって育てられたヤンは、同様に愛でもって両親を悲しみから遠ざけようとした。

 一般の若者と比較してヤンの生活は容易でなく、困難を極めた。彼は不可視光線を感知できたが、文明社会は人間がそれを感知できないことを前提に作られ、そして運営されている。社会がヤンを蝕まないはずがなかった。

 ヤンの視界には常に不可視光線が「色」として存在していた。ヒーターやドライヤー、果てはレントゲン検査に至るまで、ありとあらゆる分野において不可視光線は彼の眼前に現れた。しかしそれだけならばまだ良かったのである。極めつけは電波であった。文明社会の中で科学は進歩に進歩を重ね、電波は必要不可欠なツールとしてその存在感を増していった。ヤンの視界は遮られた。それは何でもない空間にペンキが塗りたくられているかのようで、水滴や泥のついたレンズで撮られた映像のようで、そんなひどく不鮮明な光景が彼にとっての常であった。

ヤンは自身の生まれた時代を呪った。彼の異常は――裏を返してみれば――一つ時代を違えれば、本人さえ異常であると気づきえない、そんな異常だったのである。

旅行で世界有数の大都会を訪ねた際にヤンは愕然とした。

大都会の空は、もはや青色ではなかった。


   ⅡB


 アルメリウスは自身の特異性を周囲に打ち明けようとはしなかった。告白したところで別に何かが変わるわけでもなし、明かすにしてもそれは絶好のタイミングで――自身にとって最も利を得られる状況でこそ明かすべきであると、彼はそう冷静に分析していた。

 一般の若者と比較してアルメリウスの生活は困難を極めたが、彼はそれを苦痛とは捉えなかった。むしろ嬉々として数々の苦難を受け入れてさえいた。醸成されたプライドは、彼に迫る艱難辛苦を、一種の試練のようなものであると認識せしめていた。

アルメリウスはSF作品を愛好していた。そう遠くない未来に宇宙へと進出した人類が、これまでの常識を離れて新たな歴史を紡いでゆく――そんな壮大で夢に満ち、ロマンに溢れた作品に、幼き頃から彼は心躍らせた。

彼が最も敬愛するSF作品において、宇宙へと進出し重力の束縛から解き放たれた人類は、宇宙世紀に適応しようと――新人類へ進化せんと――翼を広げるのだ。

アルメリウスは意識を獲得したその瞬間から答えを求め続けてきた。己が存在意義を、そしてこの視界が持つ意味を。

そして彼はある日、一冊の文庫を手にしながら、その答えをついに探しあてた。

つまり、自身の存在意義が、異常な眼球のその意味が、全て「人類の進化」という言葉で解決、片づけられることに気づいたのである。


   ⅢA


 突然変異。呪い。ヤンは自身の異常性、その原因をそのような言葉に求めた。自身が誕生して十数年、不可視光線を感知できる能力が害を及ぼしたことは数あれど、一つとして利をもたらしたこと事実はなかった。

 過日、彼は心理学を志した。進路希望調査ページの大きな空欄の中、遠慮がちにただ「psychology」とだけ打ち込まれた小さな主張を両親は温かく受け入れ、そしてまた息子もそのことに大きく感謝した。

 ヤンの異常性は、言ってしまえば可視光線の中にある赤や橙、黄、緑、青、藍、紫といった色以外に、全く新しい色として不可視光線を視認できるところにあった。人類の認識の外にある新しい概念を、彼は生まれた時から手に入れていた。

 人類に限らず生物全般、果ては電子機器にまで当てはまることだが、彼らは同じものを同じ方法で認識しているからこそ、通じ合い、理解しあい、意思を疎通させられる。人間は同じものを見、聞き、触れることによってこれまでを生き延びてきたのだ。

 その意味で、ヤンには心から通じ合える相手というものがいなかった。彼は人生のすべてを孤独の中で過ごしてきた。

 ヤンは同胞を心の底から欲していた。そのためにまず、彼は人の心を理解することから始めようと決心した。

 だから、彼は心理学を志した。


   ⅢB


 自身が突然変異体であり、神の祝福を受けて進化した新人類であると結論づけたことによって、アルメリウスは絶対の自信と誇りとを獲得した。

 彼は理工学を志した。彼は神が与えた能力の秘められた意味を探ろうとした。神が自身に課した使命を彼は解き明かそうとした。

 現在、全世界的に男性の精液に含まれる精子の数は減少傾向にあり、また僅かに男性に偏っていたはずの新生児の男女比率は完全な均衡へと近づきつつある。世界人口の過多、狩猟等の原因で比較的女性よりも高かった男児死亡率が低下したことなどの環境要因を、人類という種に組み込まれたシステムが察知、対応した結果であると主張する人間は少なくなかった。

 もし仮にそのような因果関係が成り立つのであれば、自身の眼球に宿った能力もまた、迫りくる人類の危機への対抗措置であると捉え直せるのではないか。アルメリウスは考えた。

 彼の誕生した二〇四五年は、人工の知能が人類のそれを完全に凌駕した年であった。人類を超える存在が誕生した年であった。その事実は人類のアイデンティティを根本から破壊する、まさに危機であった。

 だから、彼は理工学を志した。


  (ⅣA)


   ⅤA


「素敵じゃない」

 運び込まれた病院のベッドの上でヤンは若い看護師に出会った。看護師はどうして彼が眼球をくりぬいたのかを興味深げに聞き、そして一言、そのような感想を述べた。

 ヤンの異常性は歳を重ねるごとに強まってきていた。それは眼球だけに留まるものではなかった。不可視光線を感知できる能力は聴覚に及び触覚に及んだ。突如誕生した強烈な刺激は彼を昼夜問わず恒常的に苛むようになった。眼球をえぐり取ろうとした彼の行動は確かに衝動的なものであったが、決して理由のないものではなかった。

 幸いにも、片方の眼球を失ったことによってヤンは不可視光線の刺激からある程度遠ざかることが出来ていた。

「あなたには、人には見えない色が見えているのね。なんて素敵なの」

「素敵なものか。本当に素敵なら、僕は今こうして病院なんかにいやしない」

「いいえ、とっても素敵よ」

 看護師はヤンの異常の根源である左目をしっかりと見つめながら答えた。

「あなたのような異常者がこの世にいてもがき苦しんでいるという事実だけで、私たち一般人は生の喜びを存分に享受できるのだから」

 看護師は向日葵のような笑顔を見せた。

「あなたが異常で、ありがとう」


  (ⅣB)


   ⅤB


「素晴らしい」

 アルメリウスは病院のベッドの上で一人呟いた。

 彼が他人の眼球を移植したのは、自身が特別な存在であることの確認と、進化の副作用を和らげることの主に二つの理由からだった。そしてその二つの目的は見事に達成された。彼は賭けに打ち勝った充足感に全身を満たされていた。

 アルメリウスの異常性は年々その程度を増していた。不可視光線を聴覚や触覚で感知できるようになり、彼はいよいよその時が――己が使命を果たすその瞬間が近づきつつあるのを感じていた。

「可哀想」

 不敵に口の端を吊り上げるアルメリウスを見て看護師は呟いた。

「あなたはずっと孤独じゃない。確かに人は一人で生きていけるかもしれないけれど、でもそれだと、生きることしかできないわ」

「構わないさ」

 アルメリウスは看護師を振り返りもせずに応えた。

「この世の生物を俯瞰してみたまえ。高度で強大な生物こそその個体数は少ない――ならば、私は一人で十分だ」

彼は同胞なぞ必要としていなかった。必要なのは一個の種として新たなステージへと、一つ上の段階へと至った自身の特別性だけである。

 そして彼はこの頃より誤解を始めていた。すなわち、進化した特別な個体も、進化の果てにいずれは多様性の中に埋もれる運命にあるという事実を、彼は見落としていた。


   ⅥA


 不可視光線の苛烈な刺激は徐々に鳴りを潜めていったが、それと反比例するようにしてヤンはおぞましい思いに駆られるようになった。それはさながら寄生虫に体内を食い破られるような気味の悪いものであった。内側に巣食う何物かに自身そのものを変容させられてしまうような――人間でなくなってしまうような、そんな根源的な恐怖を彼は覚えるようになった。

 ヤンは心理学を専攻したことに後悔していた。心理学を修めることで人の心を理解できるなんて、所詮は夢物語でしかなかった。どこまでいっても人の心はブラックボックスであった。まだAIの方が幾分人心を理解しているというものである。

 ヤンは勉学を修め終えた後、人里を離れた山奥に居を移した。一〇〇〇ドルの山を三つ購入した。辺り一帯は全て彼の土地であった。夏はキノコ狩りに勤しみ、冬は木工細工に凝った。それらを販売することで得られる収入は、一人の大人が慎ましく生活するには充分なものであった。

 ヤンは人工の不可視光線から距離を置きたかった。それは自身のことよりも、むしろ彼以外の人間を慮ってのことであった。

「――」

 ヤンは自身に降り注ぐ太陽光線に向かって手をかざした。太陽光線に含まれた紫外線は、蜘蛛の子を散らすように雲散霧消する。

 人の道を外れかねないおぞましい力に、ヤンは吐き気のする思いでいた。


   ⅥB


 そもそもどうして人間が可視光線の範囲しか視認できないのか――いや、人間が視認できるからこその可視光線なわけだが――というと、それは一般的に、太陽の発する電磁波の大部分が可視光線だからであると言われている。太陽光線の多くをこの波長域が占めていたからこそ、人類はそれを認識しようと進化してきたのだ。

 であるならば、不可視光線を認識できるという進化は、必然的に将来人類がその能力の有無を問われる運命にあるだろうということを意味していた。

 不可視光線の刺激が沈静化するのと反対に、アルメリウスの異常は更なる飛躍を遂げようとしていた。

 アルメリウスは恍惚とした。自身の内側から湧きおこる異変に背筋が震えた。それは胎内に宿った我が子を慈しむ母親の幸福に似ていた。

「――」

 アルメリウスは自身に降りかかる電波に手をかざした。その電波はラジオ放送のものであった。あらゆる電子媒体の台頭によってラジオはもはや風前の灯火ではあったものの、それでもナレーターはいつもと変わらぬ調子でAIによる天気予報を述べていた。

アルメリウスは傘を手に取り――それはラジオとは対照的に一〇〇年以上も変わらぬ形を取り続け、なお一線で活躍していた――外に出た。

「今日は雨か」


   ⅧAB


 そしてその時は来た。どんな大災害も大事件も事の起こるその瞬間まではいつもと変わらぬ日常であって、ヤンもアルメリウスも――そして世界も、普段通りの時を過ごしていた。

 ヤンは久しぶりに両親に顔を見せようと山を出ていた。

アルメリウスは遠方への出張であった。

二人は空港の待合ロビーで出会った。その空港は世界一の旅客数を誇る巨大なものであった。広大な空間に人が所狭しと押し込められていた。各々が各々の目的によって縦横無尽にロビーを行き交っていた。

 ヤンとアルメリウスもその例に漏れず人波をかき分けて進んでいた。

そして彼らは他人であった。本来ならばそこに物語は生まれないはずであった。互いが互いに気づかずにすれ違うのが予定調和であった。そうしてヤンもアルメリウスも、数々の人間が数々の思惑を胸に交差する途上を離れて日常へと還るのだ。それが常であった。

しかしヤンとアルメリウスは異常であった。互いの異常が彼らには分かった。自身以外の異常を彼らは生まれて初めて認識した。それは彼らの長い人生において或いは待ち焦がれ、或いは絶対に存在してはならない可能性であった。

瞬間的な紫外線。

男は目の前の男が自身と同じ方向に視線を投げたその事実を、見逃さなかった。


   ⅨAB


 ――その瞬間。

 ヤン=ゲイロードは希望に瞳を輝かせた。

 アルメリウス=E=ツヴィッシェンは、かつてない絶望に目の前が真っ暗になった。

 そして――


   ⅩAB


 何よりも先に彼らは駆けた。人を押しのけ、隙間を縫うようにして一直線に目的の場所へ向かう。そこに感情はなかった。ただ反射的にこれより起こりうる事象を避けんとして、合理的な判断のもとに理性的に行動した。その結果が今の彼らであった。

 幸いにして彼らが目指したものはすぐ近くに存在した。その鈍重な扉を力任せにこじ開けて中へと侵入する。彼らの連携は見事なものであった。長年連れ添ってきた夫婦でもこう上手くは機能しないだろうほどの巧みな協力。

 ヤンとアルメリウスは体重を乗せて重い扉をゆっくりと引いてゆく。扉は無機質な音を立てながら緩やかに加速、やがて大きな振動と共に閉じた。

 直後、彼らを轟音が襲った。


   Ⅶ


 アルメリウスの愛好するSF作品の一つに人類を滅ぼさんとする海の戦士がいた。彼は本来科学者であった。彼の開発した量子コンピュータは演算によって近い未来に地球が破滅するだろうことを示していた。破滅の未来を回避せんとした男は、試しに予測データからある項目を削除する。するとたちまち、演算結果は地球の破滅を否定した。

 削除した項目は「人類」であった。

「――」

 人類、ひいては地球の恒久的な発展にとって最も有害な存在とは――その問いに、情報システムの統制という大役を任されていた人工知能は、何十年もの自問自答の果てにこの時ようやく答えを得た。

その答えは、とても人類より高度な知能とは思えないほど、矛盾したものではあったけれど。


   ⅩⅠAB


ヤンはついに出会えた同胞に胸を弾ませていた。自身と同じ異常を抱えた存在と邂逅したことで彼はこれまでの日々の全てが報われた気がした。喜びを共有し悲しみを分かち合える相手が隣にいた。

 アルメリウスはこれまで意図的に考慮してこなかった可能性の実現に何も考えられなかった。彼は自身の特別性を心の支えにして生きてきた。彼にとって異常は彼の誇りの原点であった。彼は自身のアイデンティティを見失いかけていた。

 彼らは共に現在の状況を理解していた。すなわち、何らかの理由で反旗を翻した人工知能が、人類の兵器を操って人類に敵対しているであろう事実に気づいていた。その事実を知覚したと同時にヤンとアルメリウスは生存本能に従って一途に核シェルターを目指し、そして生き延びることに成功した。シェルターの外では数多くの正常な人類がその命を落としたであろうことは想像に難くなかった。

「――どうします?」

「何が」

「僕たちになら止められるかもしれません」

 そして、この人類史始まって以来の危機に対抗する術を彼らが携えている事実もまた、ヤンとアルメリウスにとっては自明のことであった。


   ⅩⅡAB


 世界最大の空港なだけあって、そこに備えられた核シェルターの一つもまた広大であった。水や食糧の備蓄も豊富であり、彼らだけならば数年は優に保ちそうなほどである。

 ヤンとアルメリウスはこの時久しぶりに自身の異常を他者にさらけ出した。細かな説明は何もいらなかった。言葉を尽くす必要も表現に凝る必要も一つとして存在しなかった。何故ならば彼らは同じものを同じように見ているからである。彼らはコミュニケーションがここまで円滑に進むことにある種の感慨すら抱いた。

 しかしそんな彼らにも相違点はあった。相違点は二つである。現在、ヤンは左目でしか、アルメリウスは右目でしか不可視光線を視認できないということ。

そしてもう一つ。ヤンは後天的に不可視光線を操ることのできる能力が身につき、アルメリウスは不可視光線の形をとって伝達される電子情報を読み取ることのできる能力を身につけたということ。

 これらはつまり、アルメリウスが人類を滅ぼさんとするAIの在り処を探し出し、ヤンがその周囲の不可視光線を霧散させて通信を阻害してしまえば、人類への脅威を止められるであろうこと――彼らの異常性が人類を救いうることを、意味していた。


   ⅩⅢB


「ふざけるなっ」

 アルメリウスは激昂した。殴りかからんばかりの剣幕でヤンに詰め寄る。

 彼のプライドはズタズタに引き裂かれていた。唯一絶対のものと信じてやまなかった異常性が否定されたのみならず、ヤンはまたアルメリウスとも違う能力を手に入れていた。

それだけではない。外部に働きかけるヤンの能力とあくまでも受け身な自身の能力。人類を救うという点においてどちらがより重要な役目を負っているのかは明白であった。それが彼には我慢ならなかった。

アルメリウスは後悔の中にあった。誇りの崩壊と共に余裕も消え失せ、彼は今感情のコントロールさえままならなかった。

「左目を移植したからか、俺は左目を手放さずにいれば良かったのか?」

 やがてアルメリウスはその原因を眼球の移植手術に求め始めた。ヤンは右目を、アルメリウスは左目を失っているが、その過程で彼らが得た能力はまるで元は一つであったかのように相補的であった。

移植手術を通して自身の異常性は緩やかに抑制されたものの、アルメリウスはこの一連の賭けを成功と捉えてきた。何故ならそれと同時に新たな能力が発現したからである。失敗であるはずがなかった。

しかし今、彼を襲っていたのは激しい後悔であった。あの賭けは失敗だったのだろうか。

「――いいえ、そんなことありませんよ」

 そんなアルメリウスの両肩に手を置いて、ヤンは言った。


   ⅩⅢA


「だって、僕たちはこうして会えたじゃないですか」

 正直なところ、ヤンにとって人類の存亡などどうでもいいことであった。彼は今満たされていた。幸福の絶頂にあった。百億の正常な人類とではない、たった一人の異常な男との邂逅が彼のすべてであった。

 そしてまたこの時、これまで呪いとしか捉えてこなかった自身の異常に、ヤンは初めて意味を見出せていた。ああ、今までの人生は全てこの時を迎えるためにあったのかと、彼はすんなりと現況を受け入れた。

「お前に何が分かる」

「分かりますよ――僕たちは同じなんです」

 ヤンは噛みしめるようにして言った。

「同じなものかっ」

「同じですよ……じゃあ、どうしてあなたは左目を移植したんですか? それは異常を軽減するためかもしれないし、自身の特別性を確認するためかもしれません。でも、あなたはそれだけで簡単に眼球を手放すような人じゃない。あなたも――」

「やめろっ」

「――あなたも、本当は寂しかったんじゃないんですか? みんなと同じ景色が見たかったんじゃないんですか? 正常な人たちに憧れている心がどこかにあって、だから、わざわざ普通の眼球を移植したんでしょう?」

 アルメリウスは俯いたままだった。

 ヤンはシェルターの扉へゆっくりと進み、繰り返した。

「僕たちは同じなんです」


   ⅩⅣ


 AIによる蜂起は発生からわずか数時間でその幕を閉じた。世界中の諸都市を標的に核兵器が使用され、奪われた命は全人口の八%に上った。唐突に訪れたAIの機能停止があと数十分遅れていれば、人類は立ち直れないほどの壊滅的な大打撃を負っただろう。

興味深いのは、今回の件について不思議なまでに環境への影響を観測できなかった点にある。もちろん何一つ被害がなかったなどというのは幻想だが、シマリス一種すら絶滅しないこの結果は生き残った科学者たちの首をひねらせた。

 なお、事態終息に至る要因の詳細はいまだ不明である。


   MCMLXXXⅣ


 AI事変を後年に振り返ってみたところで、それが世界や人類社会に何かをもたらしたのかと問われると、何ももたらさなかったとしか答えることは出来ない。喉元を過ぎれば熱さを忘れるように、人類は利権に執着するうちに辛い過去など忘却の彼方へ簡単に追いやることが出来てしまうのである。それはある種どこまでもポジティブで貪欲な生物に似つかわしい結論であった。

「おい、サッカーやろうぜ」

 友人に誘われ、少年は歴史書を手放してコンクリートの上を駆けだした。

 見上げた空は雲一つなく、さわやかな青色であった。

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呪い、或いは進化する人類の物語 桜人 @sakurairakusa

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