第5話 老賢人

 真実にはじまりはなく 終わりもない

 だから真実が失われることはない

 

 真実ははじめからそこにあり

 これからもそこにあり続ける



 ギィーーー

 錆びた鉄がこすれるような鈍い音を立て、突然、古びた扉は開いた。

 王子が音に気付いて、慌てて空から視線を戻すと、小屋の中から声が聞こえた。

「いつまでそこに突っ立ているつもりかね? まさか星が出るまでそこにいて、ワシの家の前で夜空を眺めるつもりじゃないだろうね? 」

その声はかすれていてたが、弱々しさはなくとても心地よいものだった。

王子はすぐに老賢人の声だと思い、声にうながされるように小屋へ足を踏み入れようとした。するとまた中から声がした。

「いかん、大切なことを聞き忘れるところじゃった。ちゃんと卵は持ってきたかね? 」

 それを聞いて、王子の胸は一瞬だけ締めつけられたが、王子は恐れずに本当のことを答えた。

「卵はありません! 」

 王子がそういうと、しばらく声は何も答えなかった。

 王子は何かを考えたり想像したりせずに、ただただ、老賢人の答えを待った。

 声は唐突に答えた。

「卵がないというのか……

 では、合格じゃ。さぁ中に入りなさい」

 王子は「合格」という言葉を不思議に思いながらも、言われるままに小屋の中に入り中を見渡した。

 小屋の中は外から見た時と同じように質素で狭かったが、居心地は良かった。

 狭い小屋の奥には小さな暖炉があり、その前にある木製の椅子に一人の老人が腰掛けていた。それが王子が探していた老賢人に違いなかった。

 しかし、老賢人を見て王子は少し拍子抜けした。

 老賢人は王子が想像していたよりも、ずっと普通の老人に見えたからだ。身に着けている白い布の服も、ごくごくありふれたものだった。特別に思えるのは白い髭が異様に長く伸びていることくらいだった。

 王子は、もう少し彼に近付いて今度は顔を良く観察してみた。

 すると、顔に深く刻まれたシワや長く伸びた髭は知恵や歴史を連想させ、やはり老賢人らしいと思えた。


 王子は老賢人にうながされて小屋の真ん中にある小さなテーブルの、小さな椅子に腰掛けた。それから、椅子に座る前に、道中で考えていた通りに丁寧にお辞儀をして自己紹介をした。

 老賢人は親しげな笑みを浮かべてうなずいたが、椅子に腰掛けて静かなままだった。

 少し落ち着いたところで、王子は小屋に入ってから疑問に思っていた事を、

また考えはじめた。

 卵を持っていないのが合格、というのはどういうことなのだろう──

 それでは卵を持ったままでは不合格だったということだろうか、一体何の試験だったんだろうか、と色々な想像をした。

 不思議そうにしている王子を見て、老賢人は笑みを浮かべながら話し始めた。

「そもそも卵にはなにも仕掛けはしておらんのだよ。あれはニスを塗っただけの、ただの卵じゃ。だがな、卵の代わりに、道中にはちょっとした仕掛けをしておいた」

 老賢人の答えを聞いて、王子は目を丸くしながら質問した。

「道の途中に仕掛けをしていたんですか? 」

「あぁそうじゃ、その人の心を計るためのちょいとした仕掛けをな! 」

 それを聞いて王子は、ルキの事を思い出した。

 老賢人は、また静かに口を開いた。

「答えを求めてここを訪れる者は今までに何人もいた……だがワシは、少々意地悪な性格でな、答えを知ってもそれを生かせない者には何も教えないと決めておるんじゃ」

 話し終わると、老賢人はまた優しい笑みを浮かべた。

 王子は話を聞きながら、老賢人に質問したかった事を、頭の中で整理していた。

 しかし、王子の心を見透かしているように、老賢人はまた口を開いた。

「お前がワシに聞きたいことは分かっておる。お前さん自身は、まだ説明できるほど分かっていないと思っているようじゃが」

「どうして僕の考えていることが分かるのですか? 」

 王子が尋ねると、老賢人は今までになく真剣な顔をして答えた。

「お前がここに来ることはずっと前から決まっておったんじゃよ。だから、ワシはお前が何について知りたいのかもう分かっておる。頭がまだ分かっていなくても、お前の心はずいぶん前から分かっておったんじゃからな」

「僕の心……」

「そうじゃお前の心じゃ」

 老賢人はゆっくりと答えた。

「その僕の心というのはどこにあるのですか?」

 王子はゴト―の言う形ないものの場所を尋ねた。それは老賢人を試すためではなく、王子の素直な好奇心から湧いた言葉だった。

「『形を持たない海』の中じゃ。そして不思議な事にその海には『ワシの海』と『お前の海』の区別はない。その海を通してワシはお前の心を見ている」

 老賢人の答えを聞いて、王子の胸は感心を通り越した気持ちで溢れた。その胸の高鳴りを抑え切れずに嬉しそうな声で王子は質問した。

「それで、僕が知りたがっていることとは何なのでしょうか? 」

老賢人は、王子とは対照的に冷静な口調で答えた。

「それが人間の悪い癖なのじゃよ。ワシからの忠告は最初で最後じゃからよく聞いてくれ……よいかな? 」

王子は黙ってうなずいた。

「まず頭というのは、心を理解したがるようにできておる。だから、心に浮かんだものをあちこちに運んで、あるものはタンスにしまってみたり、あるものは隅においやって忘れてしまおうとする。タンスに入れると整頓されていて、とても良く見えるじゃろ? それと同じで、頭はそれを見てとても満足する。

 しかし、整頓することが癖になってしまうと心に浮かんでいたものの本当の姿は見えなくなってしまう。はじめから、頭で心を完璧に理解することなんてできない、と決まっておるんじゃ。だから、頭に頼りすぎちゃいかん。ワシが言いたいことは分かるかな? 」

 王子は、老賢人の言葉に大きく頷いた。そして、老賢人への質問を考えていると、決まって胸がざわざわした事を思い出した。どうしてこんな気持ちになるのか、と王子は疑問だったのだが、今その理由も判明した。

 僕は完璧な質問をしようと思って、心を無理やりタンスに押し込めようとしていたんだ──

 そう考えながら、王子は胸の中にある大きな氷の塊が解けはじめるのを感じた。

「さてそろそろ続きをはじめようかの。来てもらって早々で悪いんじゃが、道中の仕掛けがまだ残っておる」

 老賢人の声で、王子は部屋へ意識を戻した。

 仕掛けがまだあると聞いて驚いたが、王子は素直に老賢人の説明に耳を傾けると、話の最中何度も頷いた。


 王子は老賢人に言われた通りに、小屋を出るとまずは「お湯の湧き出る泉」へ向かった。今来た道を戻るだけなので、簡単なことだった。森の中を駆け抜け、今の自分はどんな動物よりも森の中を素早く走っているに違いない、と思った。そのせいかは分からないが、すぐに泉のある場所に到着することができた。

 

 その場所のちょうど真ん中あたりにある泉は、大きな石で囲まれていて、人が数人は入れるくらいの大きさだった。白い湯気が充満していて、中は良く見えなかったが、風が吹いて湯気が揺れると、一人の男が湯につかっているのが見えた。

 王子は、好奇心からその男に近付くと泉の外から話しかけてみることにした。

「泉の中は気持ちが良いですか? 」

王子が尋ねると、男はブツブツと何か独り言を言った後に、答えた

「あぁ気持ちがいいさ。ただ、この時間は見ての通り私の専用だ。そして悪いがだな、私はまだここを離れる気はない。時間を改めてまた来たまえ! 」

高慢で感じが悪い人だ──

 王子は心の中でそう思うと、少し落ち込んで泉をすぐに後にしようと決めた。

 そして、出来事を振り返ると首をもたげて呟いた。

 泉にどんな仕掛けがあったっていうのだろう──

 王子が考えにふけりながら、道を引き返していると、来る時は気づかなかったが草むらの陰に何か光るものがある事に気が付いた。

 王子が草むらに近付いて良く見ると、光っていたのは貴族の服についた装飾品の宝石だった。

 そこではじめて王子は、さっきの感じの悪い男が小屋へ行く途中で見た立派な貴族だと気が付いた。そうして、彼の見た目の立派さに少しでも憧れをいだいてしまった自分が、急に恥ずかしくなった。


 泉から曲がり道まで戻ってくると、老賢人に言われた通りに、今度は熊のねぐらへ足を向けた。熊のねぐらは草むらの奥にある。

 ルキが言うところの「第三の道」の先だ。

 見下ろすように茂った背の高い草を前にして、王子の足はすくんだが、勇気を振り絞り両手で大きく草をかき分けて中に入った。

 しかし、入る前の緊張は嘘だったかのようにすぐに安心に代わった。大男が通った跡がねぐらへの道筋を一直線に描いていて、草に道を塞がれる心配は全くなかったのだ。王子は心の中で大男に感謝しながら、草の道をどんどん進んだ。

 王子が歩くたびにカサカサと草の音がするので、足の感覚に注意すると柔らかい城の絨毯を思い出した。

 王子はこの道に「草の絨毯」という名前をつけた。

 そうこう考えているうちに、「草の絨毯」は終わりに近づき、道の先に周りを草に覆われた広場が見えてきた。広場と言うのが正しいか分からなかったが、その場所の丸い形や大きさは広場と言っても間違いでないと思えた。

 その広場の奥に目をやると、ひときわ丈夫そうな草にもたれかかりながら大男と三匹の小さな熊が、まるで親子のように寄り添っていた。

 大男は小熊たちよりもだいぶ大きく、大男の方が熊らしく見えて何だか可笑しかった。大男は先ほど運んでいた大きな魚を、交互に熊たちに与えながら色々と話しかけている様子だった。

 しばらくして、男は王子の姿に気付くと餌をやるのを止めて、王子に向かって大きく手を振った。王子が近づくと、大男は顔についた汚れを手で振り払いながら、大きな声で言った。

「どうだい! 熊って生きもんは可愛いだろう? この熊たちの母親は去年の冬に狼に襲われてね……それからは見ての通り! 俺がコイツ等の母親代わりさ! 」

 そう話す男の目は、真夏の太陽よりもさらに明るく輝いているように見えた。

 王子は、好奇心から質問してみる事にした。

「あの……熊の世話をするのが仕事なんですか? 」

「いーや! これは仕事じゃないんだ。俺の仕事は漁師だよ。魚をとるのが仕事だ。 漁師って仕事は分かるかな? 」

「はい、漁師は知っています。それじゃ、あげているその魚は貴方にとって大事な売り物になるんじゃないんですか? 」

「まぁそうなるな! でも、俺はこの坊主たちの母親代わりだからな! 」

そういうと大男は、身体を揺らして大きく笑った。

 王子は彼が笑い終わるのを待ってから、続けて聞いてみた。

「でもそんな事をしていたら、貴方の物が増えないじゃあないですか? なんというか、人は『財産』ってものを作るために、必死になって自分の物を増やすのが普通でしょう? 」

 大男はそれを聞くと、真剣な顔をして答えた。

「確かにこんな事をしている俺には、人が言う財産と呼べる物は何もない。でもコイツ等の役に立ててると思うと、自分も何だか捨てたもんじゃないなって思えるんだよ。

 もし、俺が本当に少しでもコイツ等の役に立ってるならば……何かしてやれてるっていうんであれば、それが俺の財産かなぁ」

 言い終わると男は、照れた様子で笑った。

 人々の言うところの、財産を持たない大男の顔は、何だか王子が今まで見た誰よりも幸せそうに見えた。


 王子が知っている財産を増やす方法と反対の事をして、男はそれを財産だと言う、であれば「財産」ってものは一体なんなのだろう──

 長老の家に戻る道すがら、王子は貴族と大男の姿を何度も思い浮かべた。二人の顔や声を比べてみたり、彼らのたどったであろう人生なんかも想像した。とにかく色々な考えが頭を巡った。しかし、老賢人に言われた通り全部を頭で整理しようとするのはやめた。


 ギィーーー

 再び老賢人の家の古びた扉を開けると、王子は急いで老賢人のそばに駆け寄った。

 そして頭に浮かんだ事を、そのまま吐き出だすように言葉にした。

「僕はずっと、今よりも沢山の物を手に入れる事、それに人に立派だと思われること、そのために賢くなる事や着飾ることが必要だと教えられてきました。でも、城を出てから僕が学んだのは今まで教わってきた事と正反対の事ばかりでした。

 名声を欲しいようにできるはずの英雄はそんな事に興味を持っていないし、それに、僕が好きなのは着飾った貴族よりあちこちが汚れた大男でした」

 王子の話を聞きながら老賢人は静かに頷いた。

 それを見て王子は話を続けた。

「それで僕は……城を出てから学んだ事が正しいと思うんです! きっと僕は、今まで正しくないことをずっと教えられて……長い間、自分の心を檻の中に閉じ込めて生きてきたんだ! 」

 王子は今までになく自信に溢れていた。そして、自分が言っている事は正しいと、言葉にして余計に確信していた。老賢人の答えを聞くまでもなく、僕が探していた答えはこれなのだと、王子は興奮していた。

 その様子を見て、老賢人は静かに笑みを浮かべながら口を開いた。

「よろしい。お前が出した答えは間違っておらん。確かに正しいのじゃ」

 王子は、それを聞いて満足した。

 しかし、老賢人の話はまだ続いた。

「大きな欲は無欲を巻き込んでしまう。同じように頭が心を覆いつくすと物事の『本来の姿』は見えなくなる。それはその通りじゃ。それにそれは答えとして一番ふさわしそうにも思える。だからなのかは分からんが、実のところ……国の管理する図書館にも『そういう事について書いた本』は沢山ある。

 じゃがな……それは言わば『片面』じゃ。片面それ自体にも価値はあるが、残念な事にどこまでいっても片面は片面にしかならん」

 そう言うと、老賢人はおもむろに袖の中から一枚のコインを取り出した。

「例えば、真実が一枚のコインだと想像してごらんなさい。お前が見つけたのは、言うなれば、そのコインの表面じゃ。じゃが、コインの表ばかりを見ていると、そのうち裏がある事を忘れてしまう。

 同じように裏だけを見ていても、表は見えなくなってしまうもんじゃ」

 そう言い終わると、老賢人は、しわだらけの手の平にコインを立たせて言った。

「どうじゃね? お前に『真実のコイン』を完成させる気はあるかね? 」

 考えれば考えただけ質問したい事が浮かんだのかもしれないが、王子はその前に深く頷いていた。その頷きは地面が雨水を吸いこむのと同じように自然なものだった。

「よろしい。それではこの森を奥に進み山を越えるがよい」

 それを聞いて王子の頭には恐ろしい魔物の姿がよぎった。しかし、それを打ち消すように老賢人は言った。

「なーに、お前たちに伝わる伝説の事はワシも知っておる。じゃが、安心せぃ。山の奥に魔物などおらん。そこには人々が目を背けたいものがあるだけじゃ。

人は時に自分にとって不都合なものを、そうやって都合よく閉じ込めてしまう事があるんじゃよ。もうすぐ夜が来る。小屋の脇にワシの飼っている馬がおるから、馬を使って行きなさい」

 王子の心にもう迷いはなかった。老賢人に丁寧にお礼を言い終えると、王子はすぐに小屋の脇へ向かい馬に乗った。そして、山の向こう側を見るために、小屋の立っている場所よりも、もっともっと高い場所へと馬を走らせた。


 太陽は大地と抱き合い、静かに夜のはじまりを告げていた。


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この地上(ほし)に生まれて kimihiro @kimihiro

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