第17話 世界で一番たいせつな体温
めぐみは、オリエンタルホテルの静かなバーで首を振った。
「いいえ。もう少し飲んでいきます」
彼女は身軽にバーのスツールから立ち上がると、ぺこりと清春に向かって頭を下げた。
「ありがとうございました。あなたと話して、なんだかいろいろなことが楽になりました」
そりゃよかった、と言って清春は手を差し出した。
「身体に気を付けて。近いうちにまた会おう」
「近いうち?」
「さっき仕事の話をしただろう?おれ、仕事のフットワークは軽い方なんだ。ちかぢか具体的なプランをもって広島に行くよ」
じゃあね、と言って清春は去っていった。あとには、ほんのりと柑橘の香りがする男のトワレが残った。
シャープで華やかで、どこか女の気持ちを切なくさせる香り。
清春のくっきりした横顔によく似た香りだけが、森めぐみの周りに漂っていた。
まるで悪しきものから小さくか弱いものを守る、温かく透明なバリアのように。
★★★
翌朝、
「昨夜、社の方がお支払いになりましたよ」
「社の方?」
「ああ、メッセージをお預かりしております」
スタッフはそう言うと、ホテルの封筒を差し出した。
めぐみは首をかしげつつ朝のホテルロビーで封筒を開けた。なかには
裏に、一行のメッセージが書かれている。
『世界で一番たいせつな体温を思い出させてくれて、ありがとう。次は広島で会おう。井上』
めぐみはくすっと笑った。そして昨夜の、井上清春のすさまじいまでの美貌と色気を思い出す。
「あんなひとじゃなくても、いいんだけどなあ」
そうつぶやいて、ジャケットのポケットに大事にしまってあったもう一枚の名刺を取り出した。
すうっと息を吸い込み、清春の名刺に手書きされた電話番号にその場から電話をかける。
「お忙しいところ恐れ入ります。あの、予約をお願いしたいんですが。ええ、コルヌイエホテルの井上清春さんのご紹介です。はい、え、今すぐ?あっ、大丈夫です、お
めぐみのスーツに包まれた背中が、秋の朝日の中で小さく張りつめた。
清春とのささやかなロマンスが、まだ赤い傷口をそっと包み込んでいる。ひるみそうになるめぐみの背中をそっと押すように。
あの人は、たったひとりの女性のおかげで変われたと言っていた。
きっとあたしも、変われる。
めぐみはさわやかな秋の朝に向かって、最初の一歩を踏み出した。
ささやかなロマンス⑩ 水ぎわ @matsuko0421
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