ダンス・イン・ザ・サイコロジー

出雲 蓬

心理は踊り、思惑が絡み合う

『恋』

 それは人を惑わすもの、時に正しい思考の妨げとなる事もあり、また煩悶とした感情にをもたらすもの。

 良くも悪くも人間と言う存在に作用し、年齢性別問わず誰であっても患う心の病。その煩いを除く方法は限られる。想いを伝え、成功するかはたまた失敗するか。想いを断ち忘れるか。はたまた予期せぬ邪魔によって道半ばに絶たれるか。

 結末なんてそれこそ、人間の数だけはある。感情に定型なんて初めから無いのだから。








 ────恋なんてまやかしだ、俺はそれに現を抜かす事は無い。

黄昏時に呑まれる放課後、茜色の光が射す教室で彼女にそう言った。

「恋なんてただの下心、まやかしなんて小難しい物じゃないよ」

西日の光によるものか、朱色に染まった頬が印象的な彼女は鈴を転がす様にそう言った。

 誰も居なくなった教室で蒸し暑い空気を気休め程度に掻き回す扇風機の音は、まるで彼女に本意が届かない俺の嘆きの音の様にも感じた。

 恋が無意味だとは思っていない、それでも俺にはもう一度恋に走るだけの気力は残っていなかった。

 あの日、まだ俺が恋に夢を見ていた時。あいつは俺を雑紙ざつがみの様に使い荒らし、そして捨てた。人の感情を弄ぶことに腐心し、壊れた途端興味を無くしたあの姿は流動的な興味関心を抱く幼子の様な無邪気な邪悪さに満ちていた。その幼子にいいように弄ばれた俺は正に道化だったのかもしれない。精神薄弱になり弱っていたあいつに一種の庇護欲が搔き立てられた俺は、共依存にも似た状態で一応は恋人として過ごしていた。いや、あれは恋人と言えるのだろうか。情けをかけられた奴隷だろうか。今となってはどうでもいいことだが。

時には自殺を仄めかされ、時にはリストカットを見せられもした。殺してくれと首に手を掛けさせられ、期待に応えられなければ手を上げられることもあった。どうやればあいつを救えるかと艱難辛苦かんなんしんくに身をやつしたこの身をあいつは使い捨ての紙やすりの如く磨り潰し、興味を失ったその瞬間に突然別れを告げ俺の元を去っていった。

ここに残ったのはその残りカスだ。

 あの時から、擦り切れた頭で俺は考えた。俺がここまで堕ちたのは何故だ、俺を磨り潰したあいつに勾引かどわかされた原因は何だ?

答えは案外単純明快だった。

 『恋』だ、それが俺の思考を狂わせた。

 ならば対処は簡単だ、今後一切恋と言うものに現を抜かすことなく、ただ堅実に生きていく。それだけで俺は普通で居られ────。

「それってさ、つまり逃げだよね」

 知り合いの居ない進学先の高校の新しいクラスで、貧乏くじを引きクラス委員となった俺。誰も助ける者の居ない俺の状況を見かねてか副委員長に立候補してくれた心根の優しい彼女は書類まとめの作業をしつつ、つい零した俺の言葉をにべもなく断ち切った。

 ────逃げ?

「そう、逃げ。つまり一回失敗して怖気づいたから、もう傷付きたくないから。自分から予防線を引いて逃げてるんでしょ?」

 ────そんな事は無い、俺は恋を斬り捨てた。必要ないと断定した。

「その斬り捨てたことが本当なら、いまさらそんなことを思い返す事すらしないと思うよ? 無関心こそが斬り捨てた人の行動。君は考え方が歪んで口では否定していようと、私の言葉に反応した」

 ────それがなんだ、例えそうだとしてお前には何の関係も無いはずだ。

「あるよ、関係」

 ────どういうことだ?

「私、君の事好きだから」

 彼女は全く気負う様子もなく、昨日の夕食のメニューを答えるような気楽さでそう答えた。

 好き、好意を寄せる。今の言葉が告白だと言う事に思考が追いつくまでに、どれ程の時間が経ったのだろうか。ほんの一瞬だったのかもしれないし数分は黙り込んでいたのかもしれないが、目の前の彼女は面食らった俺の顔を頬杖を突き楽しそうに眺めているだけだ。

 ────わからない、一体何時何処でそう感じたんだ。

「君の目、その目が好き」

 彼女は不敵な笑みを浮かべる。

「君の表情が好き」

 それは何か宣戦布告をしているような。

「君のその考えが好き」

 どこか決意表明をしているような。

「────君の全てが好き」

 そんな、惹きつける表情をしていた。

 彼女の言の葉は容赦なく俺の鼓膜を震わせ、脳髄を蕩かす様な酷く甘美な、そして妖艶な雰囲気を携えていた。あの時から固く決意した信条が瓦解していくような錯覚に陥るほど、その言葉は真っ直ぐに、真摯に、素直に発せられていた。

 が、それでも。

 ────そう言われようとも俺の心境に変わりはない、依然として俺は変わらない。

残念だったな、と。言外に付け加え、俺は目の前に積まれた書類をホッチキスで留めていく。真っ直ぐに伝えてきた気持ちなら真っ直ぐに返す。それが道理と言う物だ。

さしもの彼女もこう返されては────。

「知ってる、だから好きになったんだもん」

────は?

「恋を否定、過去に難有り、悲観的、かつやや厭世家の気がある君。だから私は君に『恋』をしたの。もう一度恋の素晴らしさを、もう一度愛の尊さを、私が君に教えてあげたい。勿論最初は外見が好みで話しかけるきっかけを作ったんだけどね」

気恥ずかしそうにそう言う。今の言葉が本当であり俺の推理が間違っていなければ、彼女がわざわざ副委員長に立候補した道理がわかる。

「私は知ってるもの、恋の、愛の素晴らしさを」

とん、と。彼女は机上に置かれた紙を指で叩く。

「私は君の事をまだ少ししか知らない、でも、君も私の事をほとんど知らない。つまりはイーブン」

白紙の紙に俺と彼女を模したイラストが描かれ、イコールで結ばれる。

「ならこれからは勝負だよ」

 ────勝負?

「そう。これから先、君が考えを改めることなく自分を貫き通したら君の勝ち、潔く私は引き下がるよ。でももし私の愛に、私の『恋』に応えてくれたら……」

 ────応えたら?

「私と付き合ってください、一杯甘やかして、一杯抱きしめてくれて、たくさんの愛を囁いて、ずっと傍に居てください」

 


                         



 正直な話、こんな取り決めはこちらが一言拒否すれば終わる話だ。

 嫌だ、迷惑だ、断る。

 そんな単語を連ねるだけで、この話は終わり俺はいつも通りの状態になる。そう、それだけで何事もなくなる。

 なのに、何故か。自分でもわからないが。

 ────いいだろう、乗ってやる。言っておくが俺の意思は生半可な事じゃ崩せないからな。

 俺は笑みを浮かべそう答えた。まるで挑発でもするような調子で。

 どうしてかはわからない。興が乗ったからか、負ける理由がないと考えたのか、はたまた。

 とにかく俺は彼女の誘いに乗り、訳の分からない勝負が始まった。誰も居ない、静かな教室で。

 「ん、良かった。その答えは脈ありって捉えるよ?」

 ────早合点をしない方がいい、ただの暇つぶしの可能性だってあるからな。

 「恋は盲目。君に対してぞっこんな私は、君の事に関してなら何でもプラス思考をするのでした」

 ────よくわからない、俺にはお前が。

 「そりゃそーでしょ。だって私達、委員の仕事内容以外でまともに話したの今回が初めてだし」

 ────そうだったな。

 「と言う訳で取り急ぎ、やるべきことがあります!」

 ────やるべきこと?

 「自己紹介!新学期始まってすぐの時に名字は聞いたけど、私まだ君の下の名前を教えてもらってないし」

 ────フルネームも知らない相手に告白したのか。

 「だって好きになっちゃったんだし、一目惚れしたって言った人間が相手の情報をつまびらかにし始めたら怖いでしょう?」

 ────まぁな。で、下の名前だったか。

 茜色がまだ残っていた空は何時の間にか、鮮やかな紫苑しおんに塗り替えられていた。

 徐々に闇に染まっていく教室の中で、俺は端的に、しかしハッキリと分かりやすく自身の名を口にした。

 それを聞いた彼女の顔は、暗がりでもすぐにわかる程の花の咲いたような満面の笑みを浮かべ、俺の名を反芻した。何度も、何度も。決して忘れない様にと言わんばかりに。

暫くして、上機嫌な彼女は心底楽しそうに自身の名を俺に告げた。

 その名は実に彼女らしい、可憐な名前だった。



                          



 『恋』はまやかしだ。

 その認識に間違いはないと俺は俺の中で言い続ける。いや、問い続けているのかもしれない。

 彼女によって訳の分からないゲームはスタートし、凡そ平穏に過ごすことは叶わなくなった。

 まぁ、それもいいのかもしれない。心の何処か、自分でもわかっていない深層、深淵で自問自答しているからこそ、あんな申し出を受けたのかもしれない。

 しかし、そう易々と変えられるつもりもなし。

 精々お互い無意味に滑稽に、世界最高の駆け引きを交わす『恋』を始めてみよう。

 互いの思惑を胸に、軽やかに心理戦を踊る。

 誰にも干渉されずに、『恋』の捉え方の違う二人による二つの心の交錯舞踏ダンス・イン・ザ・サイコロジーを。

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ダンス・イン・ザ・サイコロジー 出雲 蓬 @yomogi1061

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