第5話 隣人「ミスター・ファッキュー」は叫ぶ


 突然、下品な言葉で失礼。ハリウッド映画ではよく耳にするが、リアルで、ナマで、人が“Fuck you!”と叫ぶのを聞いたことがあるだろうか。日本に住んでいる限り、なかなかないと思う。


 私と妻に、人生で初めてその経験をさせてくれた人が、かつてのお隣りさん、「ミスター・ファッキュー」だ。


 東日本大震災の2~3年前、国会議事堂がある大都会の、とある賃貸マンションに住んでいた頃。空き部屋になっていた隣戸に越して来たのは、ミスターは英語圏の白人男性で、ミセスは日本人というご夫婦だった。


 挨拶には来なかったし、玄関の表札にも集合ポストにも名前がないし、親しくなったわけでもないから、ミスターとしか呼びようがない。エレベーターなどで一緒になったらあいさつをするだけの関係だった。


 越して来てから数ヶ月後くらいではなかったか。ある夜、日付がもう変わっている時間だった。私はまだ仕事場にいた。ガツン、ドタンと、どこからか衝撃音が伝わってきた。と、リビングにいた妻が仕事場に顔を出し、お隣りが騒いでいると言う。


 リビングに行くと、壁越しに、そしてベランダからも、男の怒鳴り声が聞こえた。力いっぱい、“Fuck you! Fuck you! Fuck you!”と、マシンガンのように連呼している。


 さらに、ドッスーン、ゴツン、ガッチャーンと、大きなものが倒れる音やら、何かがぶつかる音やら、食器が割れたに違いない音やらが、微妙な震動とともに伝わってくる。そしてまた、マシンガンと、なにやらわめき散らす声。合間合間に女性の声も小さく聞こえてくるので、まあ、夫婦ゲンカなんだろう。が、あまりに過激すぎ。奥さんの身に危険はないのか。


 110番した方がいいのか、迷った。しかし、ミスターがわめく声と騒音はすさまじいが、女性の声はボソボソとしか聞こえない。悲鳴を上げたり、救いを求めていたりはしない。キャーッ!か、誰かー!か、助けてー!などが聞こえたら通報しようと決めた。


 緊張の時間が過ぎる。長く感じたが、1時間ほどで騒ぎは収束。ほっ。ミスターの住戸の向こう側の住民も、上下階の人たちも(特に下の階は災難だ)、みんな、ほっ、だっただろう。


 その夜が過去のエピソードになり、平和な日々を送っていたのも半年の間だった。またひと騒動だ。また“Fuck you! Fuck you! Fuck you!”だ。ドッスーン、ゴツン、ガッチャーンも同じ。時間も1時間ほど。その日、私と妻の間で、お隣りのダンナの名前は「ミスター・ファッキュー」に決定した。


 結局、何年かに渡って、ほぼ半年に一度くらいの頻度で、わが家と壁ひとつ隔てた空間で修羅場が繰り広げられた。ミスターは、一夜明けて冷静になったら、毎回、自分がしでかした室内の惨状に呆然としていたに違いない。


 しかし、なぜあんな狂乱状態になってしまうのか。逆上してしまうのか。企業戦士として日本に送り込まれ、プレッシャーとストレスに耐えきれず、ときどき壊れるのか。それとも、よからぬものでも摂取したのか。


 そういえば、一度ミスターは、わざとベランダから外に向かって、“My Japanese wife is ****”と叫んだことがあった。声が及ぶ範囲の人たちに何かを訴えたかったんだろう。この****が何と発音しているのか聞き取れなかった。残念でならない。


 となると、もしかして奥さんがとんでもない悪女で、実はダンナの方こそ哀れな人なのか。あるいは、なにか特殊なプレイ(?)でもしているのか。などなど、私たちの妄想はふくらむばかりだった。


 ファッキンなミスター夫妻は、東日本大震災の数ヶ月後にどこかに越していった。母国に帰ったのか、いまも日本にいるのか。住むところが変わったからといって、性格が変わるはずもなく。引っ越してから何度も暴れているに違いない。血圧が上がりすぎて、病気になっていなければいいが、などと、いらぬ心配さえしてしまう。


 私たちがいまのところに引っ越すとき、「またお隣さんが『ミスター・ファッキュー』だったりして」「やめてよー!」などという会話を妻としたものだが。幸いにも難を逃れた。


 もし、あなたのご近所で、真夜中すぎにマシンガンのような“Fuck you! Fuck you! Fuck you!”という咆哮が聞こえたら。それはきっと、私たちの元隣人、「ミスター・ファッキュー」その人である。


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昭和半分・平成半分 中村 離(はなれ) @hanare32

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