第2話「新布石」

 今の仕事は気に入っている。それなりに左脳を働かせる場面は多いが、作業自体はほぼルーティーンで逸脱が少ない。残業も少なく、週五日のうち四日は同じ時間の電車で帰宅できる。これは、現在の不安定な景気動向を考えると上々の労働環境だろう。前の職場の方が給与面ではやや優ったが、性格上、長くは耐えられなかった。「初めて」の情景に日常的に遭遇する労働環境は、自分には向かない。


 とある日、休憩室でテレビを観ていると、国会中継の様子が映っていた。

 政治的な問題への関心は希薄だが――とはいえ、選挙だけは毎回欠かさず行っている――、総理大臣のあまりに粗雑な弁論(と言うよりむしろ弁解)に、思わず意識を吸い寄せられた。

 ついこの間の発言を根底から翻す神経と言うべきか性根しょうこんと言うべきか、とにかく私には理解し難いものであった。こんな人間が一国の牽引者では、日頃から些細な言動一つ一つに注意深くなるのは無理もない。

 

 残り一本のゴロワーズを吸いきり、慣習化された空間へと身を戻した。


 

 仕事帰り、近所の書店に足を運んだ。このあたりは数多くの飲食店が立ち並んでいるがどこも長続きせず、潰れては新しくなる安易な変化を繰り返している。

 そんな中、周囲の不安定さとは一線を画した佇まいで存在するのがこの書店だった。気さくな老夫婦が経営する小ぢんまりとした店で、創業から今年で四十年目になるそうだ。


 この街に越してきて五年近く経つが、彼らは当時から今まで変わらない快活さと温かさを感じさせてくれる。それはこれから先も不変なるものだろうという、根拠ない確信を抱いていた。私は、だから週に一度は必ずここに顔を出すようにしている。もともと入門書しか置いてなかった囲碁関連の書籍を、私のためだけに大幅に増やしてくれたことはいささか申し訳なく感じたが、その懇到な心遣いに安らぎを覚えた。 


 いつものように囲碁雑誌の新刊をぱらぱらとめくっていると、「衝撃の新布石炸裂」という見出しが飛び込んできた。

 とある早碁棋戦で、張栩ちょうう九段が結城聡ゆうきさとしNHK杯相手に繰り出した“五の七”という着点は、凡人の常識を大幅に超越したものだった(しかも、それを四連打している!)。

 十代の頃からそれなりに碁を嗜んできたが、ほとんど決まった打ち方しかしてこなかった自分にとって、それは想像だにしない世界だった。詳細な棋譜解説に、思わず輻輳ふくそう力が上昇していく。


 タイトルを四つも五つも奪取して一時代を築いた張栩が数年後には無冠になるなど、誰が想像しただろう。無冠という辛辣な現実に直面した彼は、その時何を思っただろう。店主愛用の古ぼけた携帯ラジオから、古内東子のたおやかな歌声が聞こえてきた。

 多くを失い時代の終わりを告げられた彼は、いったいどのような気持ちでこの布石を打ったのだろう。何が彼にそうさせたのだろう。そしてこの一局に勝って、どれほどの幸福を噛みしめただろう。そう考えると、ふと心臓の高鳴りを覚えた。


「何か収穫はあったかい?」

 老婦人が、明朗な口調で尋ねてきた。

「じっくりと味わってみたい記事がありました。これ買っていきます」

 

 外に出ると、派手な柄をしたオートバイがけたたましく凡俗な音を発しながら通りすぎたが、私は気にならなかった。

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