第3話 ……いいえ、私で終わりにします
「或る日のことなんです。この子が、この弱々しい子が、自分よりも、もっと弱そうな子を殴っていたのです。この子が弱々しさで負けるなんて、僕はちっとも信じられませんでした。だけど上には上がいるんですね。ちょっと僕なんかじゃ出る幕ないんですね」
男は少女の前に屈み込むと、怯えるその童顔を見据えながら話を続けた。
「あなたの虐げられ方は、もはや芸術の領域といっても過言ではありません。高尚すぎて僕には解りませんよ。だけど、この子があなたを殴る時の顔、あなたはちゃんと見たことがありますか? 恐ろしくて、まともに見られなかったのかもしれませんね?
だけど僕は見たのです。勝ち誇った顔なんです。つまらない顔なんです。醜い顔なんです。ただ、何か恍惚とした顔なんです。だから僕は後でね、この子の顔を蹴飛ばしてやりましたよ。こんな風にね……!」
そう言い切った途端、男は言葉通りに女の顔を蹴飛ばした。突然のことに女は悲鳴を上げながら苦痛に悶えた。
「もう私のことは痛めつけないって言ったのに! 言ったのに!」
男は女が泣き叫ぶ様子を見て、クスクスと笑い始めながら話を続けた。
「そうしたら、いつもの泣き顔なんですよ。この通りね。いやそれよりも、もっと深刻で、それが魅力的でなりません。なんだか興奮して仕方ないのですよ。そんなことをやっていたら僕もね、いつも僕を殴っていた人に不意に殴られたのですよ。
幾ら、僕が泣いても、殴るのを止めてくれないのです。僕の身体の全てを痛めつけるんです。ただ、その人の顔ね、とても嬉しそうなのですよ。
僕ね、その人の大切なもの、例えば家族とか恋人とかね。どうやらその人にとって、僕はそういう存在になったみたいなんですよ。間違いなく見ましたよ? あの人は僕に感動していたんですから。
笑っちゃいますよね? だけど大切なものの筈なのに、あの人は僕を一度だって大事にするようなことはなかったのです。ねえ、あなたのことを言っているのですよ?」
男は最後にそう吐き捨てるように言うと、今度は誰も居ない場所に向かって指差した。何故か男はせせら笑うと、視線を少女の方へと移した。
「人が他人の中傷をするのは、己の醜さを隠す為です。あなたは他人の中傷をしたことがありますか?
ねえ、人間って虐げられた時に、虐げた本人に恨みを返すことは案外、少ないんじゃないですか?
心が弱くて、恨むべき相手に向き合うことが出来ない人間は、誰か違う相手に、それも自分よりもか弱い人をいたぶることで、己の復讐の代わりとするのです。ですが、本当はそれが人間のありふれた復讐の姿であり、もしかしたら、人間のささやかな幸福の形ですらあるのかもしれません。
人間は自分が本当に欲しいものを得ることが出来ないと、その代わりになるものを得ようとするものなのです。人は恋人と別れたりして、人肌恋しい時に、その恋人のことを想いながら、全く別の誰かと肌を合わせて、その寂しさを紛らわせるものなのです。
今、あなたがここに連れて来られて、こうして虐げられている理由が解ったでしょう? それはあなたが、本来、復讐をされるべき人達の身代わりだからです。
今、ここにいる人達は皆、誰かに虐げられながら、その恨むべき相手に復讐することも出来ない、そんな弱くて、寂しい人達ばかりなのです……」
男はそこまで言うと、幾らか暗然とした面持ちとなって顔を落とした。
「だけど、あなたみたいな醜い女は、こういうことがなければ、男に身体を触られることもないし、相手にもされないのですから。嬉しいですよね?」
「ハイ、嬉しいです…」
「でも、あなた本当にそれでいいんですか?」
その言葉を受けて、少女は妙に諦めた表情になると、男の顔を見据えながら、初めて別の言葉を喋り出した。
「……いいんです、私を殴る人は沢山いても、私が殴れる人はどこにもいないんです」
「もし、あなたよりもか弱い人が現れたら、あなたはその人を苛めるのですか?」
「……いいえ、私で終わりにします」
少女の言葉を聞いて、男は深い溜息をつくと、変に悲しい顔をした。
「あなたは神になるのですね」
「私は神になれるのでしょうか……?」
男はぽろぽろと涙を流して、縋る様な眼差しで少女を見つめた。
「なれますとも。誰よりも美しい女神様に。きっと、あなたなら……」
「私は皆の女神様になれるのかな……?」
去病 猫浪漫 @nekoroman5
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