違う顔した同じ人
うたう
違う顔した同じ人
動転して落としたレジ袋がどさりと鈍い音を立てた。それが幸せの崩れる音だったのかもしれない。
レジ袋から転げ出た玉ねぎを笑いながら省吾が拾った。
「大丈夫?」
省吾の声は、顔に似合わずハスキーだ。しゃがれていても、優しい響きを持っている。
急に寂しさに襲われて、こうして食材を携え、唐突に家を訪れても省吾は微笑んで招き入れてくれる。
省吾が裕貴であるはずがないのだ。
もう一度、テーブルの上のダイレクトメールをちらりと見た。やはりカドクラヒロキ様と印字されている。
「遥香? 大丈夫?」
省吾にまた言われ、私は笑顔を作った。レジ袋を受け取り、「今日は肉じゃがだよ」と告げると、「お、いいね」と省吾は声を弾ませた。
門倉裕貴は、私の前の彼氏だ。
文字通り逃げるようにして、私は裕貴と別れた。家を変え、仕事も辞めて、裕貴に内緒で姿を消したのだ。
学生時代の男友達とばったり出会って、少しお茶をしたという話を裕貴にしたときから私たちの関係は変化した。裕貴は私によく小言を言うようになり、二人の間には次第に力関係が生まれるようになった。やがてモラルハラスメントへと進行して、私は見えない鎖に繋がれた。
前に勤めていた会社の同僚の美伽が強引に私の引越と退職を主導してくれなかったら、私は今も裕貴の餌食のままだったに違いない。美伽には足を向けて寝られない。
でも、そんな裕貴も最初は優しかったのだ。
じゃがいもの皮を剥きながら、本当に男はみんな肉じゃがが好きなんだろうかと思った。男は肉じゃがが好き。そんな文言を雑誌で見たことがあった。テレビでもそう言っていた。だから、裕貴の好物が肉じゃがであってもやっぱりと思ったし、省吾が好物を明言したことはないけれど、肉じゃがのときが一番食べっぷりが良いことに対しても不思議には思わなかった。男はみんな肉じゃがが好き。そういうものなのだと思っていた。
でも、と今は思う。
新たな就職先が決まって、三ヶ月が過ぎた頃、私は省吾と出逢った。仕事の勝手は少しずつ掴みはじめてはいたけれど、まだまだ気疲れすることが多かった。帰宅してから夕食の準備をするのはとてもではなく、いつも職場近くのカフェで夕食を済ましていた。省吾もその行きつけのカフェの常連だったのだ。
「今日も一日お疲れさま」
ある日、省吾にそう声を掛けられた。顔見知りではあったけれど、口を利いたのは初めてだった。甘い顔立ちに似合わない、渋い声だったけれど、まったく不快には感じなかった。疲弊した神経にすっと染み込む優しい響きがあった。
会えば挨拶を交わすようになって、ほどなく当たり前のように向かい合って食事をするようになった。男に対して不信感や恐怖心は残っていたけれど、省吾にはそれらをまったく感じなかった。私の好きなマイナーなバンドを省吾も好きであると知って、私はより省吾に親近感を抱くようになった。私たちは前世で双子だったんだろうなと思うくらいに、不思議と省吾とは趣味があった。そして、そうなることが決まっていたかのように、自然と私たちは交際を始めた。
夕食を終え、一緒に入浴して、私は省吾に抱かれた。でも行為は途中で終わった。
「そういう気分じゃないときもあるよね」
省吾はそう理解を示してくれた。
裕貴はどんなふうにしていただろうかとその行為を思い出しかけて、やめた。省吾の寝息を聞きながら、たとえば整形手術をしたとして、どのくらい別人に化けることができるのだろうかと考えた。省吾と裕貴は、似ても似つかない。
逆に整形手術をしたって変えられない部分はあるのだろうか。身長とか髪質とかがそうかもしれない。省吾と裕貴は、同じくらいの身長だったと思う。髪型は違っていても、二人の髪質は似ている気がする。一本一本が硬い直毛だ。
一睡もできずに朝を迎え、朝食を作って、省吾を送り出した。出勤時間は省吾のほうが早い。省吾のいない部屋で、昨夜見た裕貴の名前が印字されたダイレクトメールを探した。私の見間違いだったのかもしれない。もう一度よく見てみたら、宛名にはきちんと省吾の名前が刻まれているのかもしれない。でも、ダイレクトメールは見つからなかった。ゴミ箱の中も引き出し一つ一つも調べてみたけれど、なかった。
ダイレクトメールが見当たらないからといって、省吾が裕貴ではないという結論にはもう至れなかった。私は思い切って、裕貴の職場に電話をした。もちろん、裕貴と話す気はない。ただ裕貴という人間が存在していることを確認したかったのだ。適当な社名を名乗り、偽名を使った。
「門倉は退職しました」
電話口から返ってきた言葉は、それだった。
意を決して、裕貴のアパートまで行くことにした。会わなくても、郵便受けに差し込まれた「門倉」というプレートがあれば、裕貴の存在は確認できる。
勤め先に体調が悪いので休みたいと連絡してから、私は駅を目指した。途中、電車を乗り換えて、裕貴の住む町に向かった。
裕貴の郵便受けのプレートは外されていて、何も差さってはいなかった。エントランスのインターホンで、裕貴の部屋の隣の番号を押した。たしか気さくな夫婦が住んでいて、奥さんは一日家にいたはずだ。
「突然すみません。お隣の門倉さんって、お引越しなさったんでしょうか?」
「ええ、だいぶ前に越されましたよ」
これまで裕貴に見つからないようにして生きてきた。まさか、裕貴が見つからないことで不安を覚えるなんて思ってもみなかった。
スマホを取り出し、私は省吾の勤め先にかけた。
顔を変えることはできても、おそらく戸籍を変えることは難しい。
「門倉裕貴さんはいらっしゃいますでしょうか?」
少しして、「申し訳ございません。門倉は外出しております」と返ってきた。
電話を切った瞬間、「あれ? 遥香、仕事は?」としゃがれた声がして、私は身体をびくつかせた。
監視アプリ。そういうものがあることを忘れてしまうほど、私は省吾を信じ切っていたのだ。
省吾が左手の薬指で鼻の頭を掻いている。それは裕貴が困ったときにやる仕草だった。
せわしなく鼻の上で指が蠢いている。
私は、どうしても彼の目を見ることができなかった。
違う顔した同じ人 うたう @kamatakamatari
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