死の床のカミーユにシンパシーを感じながら

雅野キュウ

死の床のカミーユにシンパシーを感じながら

 色彩の皮肉。


 『死のとこのカミーユ』という芸術作品がある。

 クロード・モネが描いた、自身の妻の絵画だ。その姿は青白く、死を迎えた彼女がひとり目を閉じる。妻の死を作品にしてしまったモネは、苦悩に明け暮れた。描いている最中も、描き終えたあとも。それでも彼の芸術家魂が、彼の筆を止めることはなかった……。


 ――僕もそうなってしまうのだろうか。


 キーボードを叩く手を止めた。


 画面には、つらつらと黒い文字が並んでいる。薄暗い和室の中、唯一の光源がパソコンディスプレイから発せられる仄かな光だ。

 この原稿はもうすぐ終わる。僕は次に書く作品の下書きをするために、原稿用紙を数枚手に取った。エッセイの執筆依頼なんて初めてだから、妙に紙が重く感じた。機械にはどうも慣れないので、下書きはいつもこの原稿用紙を使ってしまう。……「アナログ」ってやつだ、僕は。


 畳と合わない安い回転椅子をギイ、と鳴らし壁に聳え立つ本棚を見た。辞典、植物図鑑……様々な資料のなかに、僕の書いた本が佇んでいる。なんとなく場違いに見えて、誰もいないのに苦笑してしまった。


 僕が専業作家になったのはつい最近のこと。それまでは教師の仕事も兼ねて本を書いていた。その名残として、本棚には高校用の教科書が立ち並んでいる。もう捨ててしまおうか、と何度も思ったが、僕の中にある執念がそれを許さなかった。

 ――もう亡くなった、かつての恋人の姿が脳裏をぎった。


 ・・・


「先生」


 肩まで伸びた黒い髪を揺らし、澄み切った声が僕を呼ぶ。

 彼女の両手には、皺くちゃになった黄色い原稿用紙の束。僕はぎょっとした。冷や汗がこめかみから伝うのが分かる。これは七月の暑さのせいではない。知人に自分の書いた文章を読まれるのは、二十七になった今でも少し恥ずかしいのだ。


「これ! 次書く本?」


「あっ、どこからっ……! 返しなさい」


「なんで? 今どき紙に書いてるなんて、アナログだなあ」


「これは下書きだからいいの。ほら、返して」


 けち、と口を尖らせながら彼女はしぶしぶ日に焼けた紙を手から離した。制服のスカートに皺が出来ることなど気にせず、僕の部屋を物色している。……ああ、またプリーツが折れてる。

 二足の草鞋わらじを履いているような僕が、彼女にとっては不思議な生き物らしい。ずらりと並んだ辞書の背表紙を、陶器のような指でなぞっていた。


「先生は辞書、紙派? 電子派?」


 資料を漁る僕の都合などお構いなしに、彼女は質問を投げかける。作業中に邪魔されるなんて本来は鬱陶しくて仕方のないはずだが、彼女の場合は、むしろ僕に興味を持ってくれているのが嬉しかった。邪魔だなんて、とんでもない。

 僕は数秒唸ったあと、彼女の質問に答えた。


「……電子、かな」


「あれっ、そうなの? 絶対紙! っていうと思ったのに。じゃあ、普通の本を読むときも?」


「いや、それは紙だよ」


 理解できない、と言わんばかりに彼女は眉を寄せた。そういえば、彼女は理系だった。確か農学分野に進みたいとかなんとか。「なんでよ。何が違うの? 辞書と本で」


「用途……かなあ。辞書はパッと知りたいことを調べたいから、すぐ検索にできる電子辞書で。それ以外の小説とかは、調べるんじゃなくて本の内容そのものを楽しむものから……なんて言えばいいかな。あ、ほら、絵だってネットで見るのと本物とで目的が違うでしょ?」


「……たしかに」


 僕は心の中でほっと胸を撫で下ろした。生徒の質問には、納得のいくような答えを返さないと。ただ、現実は「パッと」なんて解答は出てこない。だからこんなに本が並んでしまうのだ。……なんせ、アナログだから。

 ここまで読んでもらえたらもう気づいているかもしれないが、彼女が僕の恋人だ。もちろん、誰にもばれちゃいけない。年齢は実に十歳も離れている。


「で、神谷かみやは一体さっきから何を見てるの。探し物?」


 モネ展の図録をパラパラとめくっている。垂れてページにかかった髪を耳にかけた。彼女の癖だ。

昨年二人で行った美術展の思い出に浸っているのだろうか。彼女にとって初めての東京だったらしく、妙にはしゃいでいたのだ。場所が場所だから、僕たちの姿は学校の誰にもばれなかった。……はず。


「ほら、あたしさ! 花が好きだから、大学では植物とか学びたくてね! そういった図鑑みたいなの、ないかなーって」


 彼女は少し照れながら図録を閉じた。生憎あいにく、僕は国語教師だ。あったとしても彼女が学びたいような、より専門的な知識が載ったものはない。それを察したのか、少しの沈黙のあと気まずそうに彼女は笑った。僕もつられて頬が緩む。


「今度、俺が買っておくよ」


「え! いいよいいよ、悪いし」


「そういう資料はすぐ見つかるもんじゃないだろ。高校生がいくつも買えるような値段でもないしね」


「……ありがとう」


 僕は何も言わず、彼女の頭を撫でた。普段は楽観的だけど、甘えるのは少し苦手なようだ。絹のような感触が右手に広がる。


「来年、頑張るんだぞ」


「うん」


 彼女が卒業すれば、僕たちは周りに隠して交際する必要がなくなる。僕はいいけど、可哀想なのは彼女だ。年頃の女の子なのに、彼氏の話一つ友達に出来ないなんて。……いや、僕が他人に自慢されるほどの何かを持っているというわけではないけど。


「来年……来年ね」


「うん」


「そしたら先生、やっと……だよね」


「うん。……えっ」


 僕の右手を小さな両手で包み、彼女は自分の頬に当てた。思わず目を見開いた。体内の温度がみるみる上がっていくのがわかる。


「それまでは……まだ、ね」


 彼女の滑らかな指の間に、髪が流れていく。隠れていた耳が露わになり、黒い絹が寄せられた。

 いつも見る癖なのに、やけに煽情的だ。

 汗がこめかみから伝うのが分かる。これは七月の暑さのせいではない。だけど、無理やり暑さのせいにした。


 ・・・


 前述したとおり、彼女はもうこの世にはいない。入試本番前最後の模擬試験、その帰りでトラックに轢かれたのだ。 ガードレールの下に献花された花弁は、時が止まったように凍り付いていて、透き通っていた。


 これをきっかけに、僕は高校教師を辞めた。彼女が彼女の人生を辞めたというなら、僕は教師という人生を辞めてしまおうと思ったのだ。自己満足も甚だしいが、何かを変えたかった。この考えが、甘い。


 教え子たちと会ったのは、彼女の葬儀が最後だ。もちろん、「先生」として。

 棺で眠る彼女の周りには、溢れんばかりの花が添えられている。少女の髪は、花畑に流れる川のようだった。ゆるやかに反った睫毛も、花弁のような唇も、もう動かない。


 ――もっとちゃんと見ていればよかった。ページを横目にじゃなくて、もっと、ちゃんと。


 灰になった彼女は、細くも逞しい骨を遺した。黒に身を包んだ遺族たちが、カラカラと骨壺に納めていく。僕もそれに倣った。乾いた音が小さく、しかし何度も響いた。

 そこでふと、僕は骨の異変に気づいた。……この骨には、「色彩」がある。


 棺の中に、生花だけでなく造花もあったのだろう。おそらくその染料が、骨に移ったのだ。桃色や黄色が儚く仄かに、死を彩った。モノクロームな空間であるべきなのに、皮肉にもここだけに色が存在した。美しかった。込み上げるべき涙はどこかへ昇華されてしまった。雨が降ったら、この色は流れてしまう。


 悲しみより、悔しさより、僕の心を支配したのは「美」だった。ただの骨と、ただの色だ。ただの骨とただの色なのに、まるで白百合のような少女と、そこに施された化粧に見えた。

 取り憑かれれば取り憑かれるほど、その裏で、自責と背徳感が色濃く僕の心に刻まれた。だけど、どうしても。


 ……だから僕は、ペンを握ることにした。そう、タイトルは――



【色彩の皮肉】


 『死の床のカミーユ』という芸術作品がある。

 クロード・モネが描いた、自身の妻の絵画だ。その姿は青白く、死を迎えた彼女がひとり目を閉じる。妻の死を作品にしてしまったモネは、苦悩に明け暮れた。描いている最中も、描き終えたあとも。それでも彼の芸術家魂が、彼の筆を止めることはなかった……。


 ――僕も……


 ………………


 …………


 ……

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