18.新しい一歩




 屋上のくすんだシルバーの扉のドアノブに司波くんは鍵を差し込む。


 それってどういうこと?と言いかけたけれど、その言葉は声にならずに沈んでいった。



扉についている窓は網入りガラスで中が見えないようになっていて、そこから光がぼんやりと差し込んでいる。光の中には埃が舞っていた。



カチャリと音がして心臓の隅っこが痒くなる。急に、私は此処にいていいのか、屋上になんて足を踏み入れていいのか、司波くんと一緒にいていいのか、なんていう不安が押し寄せてくる。



その鍵は屋上に行くためのもの以上に、どこかに、私をどこかに連れていく、日常を裂く鍵のようにも思えた。——怖い。



「ほら、入って」



 司波くんは何の躊躇もなく、いとも簡単に扉を開けた。そして、私に手を差し出す。開かれた扉の先は光が降り注いで明るくて、何より仄かな風に彼の髪が揺れて光と混ざって綺麗で。



 私は自分の鼓動を確かに感じながら、その手を握った。


司波くんは安心したように微笑んで私を屋上に連れ出す。後ろで扉が閉まる音が聞こえてきた。



 怖いと思ったその先には、必ずしも怖いものがあるとは限らないのかもしれない。今私が感じているのは光の中に出れたという胸の高鳴りだった。




 どうしてだろう。さっきまでと気持ちが全然違う。不思議。



 この人に魅了されてしまったから?



 司波くんを見ると、目が合って「来てくれてよかった」と柔らかい表情をして手を放した。篠原さんが司波くんから手を放したあの時の光景が、あの小さな手が思い出される。



「授業さぼるの初めてだよね、ごめん。でも洸真が波川さんは体調が悪くて休んでるって波川さんのクラスの先生に、ああ、あと次の教科の先生にも伝えてくれてるから心配しないで」



「え、洸真くんが……?」



「体調が悪そうにしてるのをたまたま通りがかった洸真が助けたってことにしてあるんだ。それにさぼって俺と一緒にいるなんて誰も思わないよ。俺と波川さんはクラスだって違うんだし、心配しないで大丈夫。そこらへんはちゃんと上手くやるから」



 司波くんはフェンスに寄りかかり私を見透かして、穏やかにそう言った。


 どうして私の心配したことがわかったんだろう。不思議で堪らない。


 司波くんは私の表情を見て「ああ、そうだよね」と小さく囁いて一度目を伏せる。



「単刀直入に言うと、」



 ゆっくりと顔を上げた司波くんと目が合った。



「俺は波川なみかわ 美菜みなさんを助けたい」



 小さく微笑んだ司波くんは、傷ついたような顔をして笑った。


 ぎゅうっとスカートを握って、私はただただ彼を見つめることしかできなかった。



「波川さんは今の学校生活、楽しい?」



 言いたいことが胸の中でぶつかって中和して、消えていって、私は一体何を言いたかったのかわからなくなる。



 憐憫とも正義感とも違う、目。今の私じゃ、司波くんのあの目から彼の感情を読み取ることはできない。私には形容し得ない、司波くんの綺麗な黒目勝ちの目。



「どうして、」



 小さなその声は司波くんまで届いているかわからない。それでも、途中で私は口を噤んだ。




 どうして、貴方にそんなことを言われないといけないの?

上から目線で、今まで面識もなかったのに急に。それに、その目は、一体何なの。私にはわからない。この男の行動の意図が。全く、わからない。怖い。でも、それでも。



 どうしても、さっきの手を引かれたあの光景が目に浮かぶ。



 私はずっと誰かに助けてほしかった。会長に助けてもらえる篠原さんのことを羨望していた。




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その舞台裏、世界の隅っこ 葉月 望未 @otohana

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